紅玉

 夕陽が葉をすっかり落とした街路樹の影を長く伸ばすゆるやかな坂道を、詰め襟姿の青年がのぼっていた。細身で長身のその学生は「桜ヶ丘病院」という看板の出された、さほど大きくない、いささか年期の入った建物の前で立ち止まる。看板には「産婦人科」と書かれている。学生には似つかわしくない場所だが、ためらわず入り口をくぐっていった。

 受付には誰もいなかった。
 「すみません」
 声をかけると、奥からパタパタと足音が響く。
 「は〜〜い!」
 声と共にあらわれたのは薄桃色のナース服に身を包んだ、栗色のふわふわ巻き毛の若い看護婦だった。やはり高校生くらいの歳である。青年を目にして満面の笑みを浮かべる。
 「あ〜、壬生くんだ〜〜!」
 「こんにちは、高見沢さん」
 「もしかして、ダーリンのお見舞いに来てくれたの?」
 壬生は無表情のままかすかに頷く。
 「龍麻くんが目覚めたって聞いてね」
 「そうなの。昨夜やっと意識が回復したの。…でも、大変だったんだから〜」
 高見沢は急に半泣きになる。
 「血まみれでここに運ばれてきたときは、ほんっとうにビックリしたんだから〜。傷は深いし、出血はひどいしなかなか止まらないし〜。それに『氣』がズタズタになっているからって、岩山先生が付きっきりで気功治療を施していたんだけど、ずーっと危険な状態が続いていて…」
 ついには俯き、目の端に涙を滲ませる。
 患者の容態を大声で話すなど、看護婦としては軽率ともいえる行動だが、幸いなことに受付ロビーには他に誰もいなかった。
 黙って聞いていた壬生は、声が途切れるのを見計らって声をかけた。
 「病室にいってもいいかい?」
 「あ、うん、もちろん!今日も如月くんと雨紋くんがお見舞いにきていたんだけど、さっき帰ったところなの」
 「…そう」

 廊下にも、病室にも壬生にとって嗅ぎ慣れた臭いが漂っている。
 ベッドの横には長い髪の女子学生が座っていた。人の入ってくる気配に顔を上げる。
 「こんにちは、美里さん」
 「壬生くん…来てくれたのね。ありがとう」
 もとから白かった顔色は、なお青白く、整った顔立ちにかすかにおちる蔭が、彼女のここ数日の心労を忍ばせた。
 「龍麻は今寝ているの。せっかく来てくれたのに、ごめんなさい」
 「いや、ちょっと顔を見に来ただけだから。…見舞いが来ていたんだって?」
 「ええ、如月くんと雨紋くんが。その時は、起きて少し話もしていたんだけど、やっぱり疲れたみたいね」
 「…後の三人は?」
 「醍醐くんと小蒔は、龍麻の家に着替えとかを取りに行っているの。京一くんは…聞き込みに出かけているわ…」
 「…犯人探しかい」
 美里は頷いた。
 「龍麻が目が覚めて、彼を襲ったのは例の真紅の学生服の男…『柳生宗崇』だってわかったの。」
 美里はそっと俯く。
 「…あの時、私たちもみんな龍麻のすぐそばにいたのに、霧に包まれたと思ったら、龍麻が血まみれで倒れていて…。あの龍麻がほとんど抵抗もできなかったなんて…。まるで魔法のように消えてしまったのだから、手がかりもなにも残っていないのだけど、京一くんはどうしてもじっとしていられないみたい」
 「そうか…」
 真紅の学生服の男は間接的にではあるが、壬生に対しても不愉快な関わり方をしてきた人物だった。

 美里と壬生はベッドに横たわる龍麻を見つめた。今は、穏やかな息を立てて眠っている。病室の窓からカーテンの薄い生地を通してオレンジ色の光が差し込み、白いベッドを染めている。

 不意に美里が顔を上げ、壬生を見上げる。
 「あの、壬生くん。もう少し時間いいかしら」
 「え?」
 「私、ちょっと用事があって、ここを離れたいんだけど、その間少しだけ、龍麻に付き添っていてくれないかしら。目が覚めたときに誰もいなかったら、きっと不安になると思うから」
 「あ…あ。いいけど」
 「じゃあ、お願いします。すぐに戻りますね」
 美里は立ち上がり、病室を出た。

 少し広くなったような気がする病室の中を見渡し、壬生は龍麻の枕元の果物を盛った籠に目を留めた。先のお見舞い組が残していったのであろう、ビニールで巻かれたままの籠に近付く。その中から赤い、ひときわ大きなリンゴを手に取った。ずしりと重いそれは、表面に蝋が塗ってあるのだろうか、不自然なほど艶よく光り、手の指がかすかに粘つく。
 壬生はサイドテーブルの浅い引き出しを開けた。フォークやスプーン、栓抜きなどと共に木製の鞘の果物ナイフが入っていた。右手に握り、親指で鞘を外し、刃をリンゴに当てる。親指を添え、ナイフの刃をリンゴの皮に食い込ませると、甘酸っぱい香りがふわりと立ちのぼった。

 ナイフ全体を小刻みに揺するようにしながら、刃を滑らせていく。細い赤い筋が長く垂れ下がっていく。
 白い領域が赤のそれを上回った頃、ベッドの上の龍麻がゆっくりと目を開けた。
 やがて静かに首をめぐらせ、まだすこしぼんやりとした視線を壬生に向けた。
 壬生は手を止めた。
 「やあ。目が覚めたかい」
 龍麻はかすかに頷く。
 「…君のお仲間は今ちょっと席を外しているけれど、すぐに戻ってくるよ。心配しなくていい」
 壬生は何気なくかけたつもりの言葉だったが…。
 龍麻は悲しそうな、寂しそうな目で、まっすぐに壬生の顔を見た。
 初めて出会ったとき、敵であるはずの壬生を、悲しげに…いや、むしろ今にも泣き出しそうな必死な表情で見つめていたときと…同じ瞳だった。

 何か言いたげな視線を壬生に投げながら、龍麻は口を閉ざしたままだった。
 やがて目をつぶり、一息つくと言った。
 「いい香りだね」
 「あ、ああ。勝手に剥かせてもらってるよ」
 壬生は止まっていた手を動かし始めた。
 「小さめに切ったら食べるかい?」
 「うん…」
 龍麻は小さく頷く。
 「ありがとう」
 壬生は再び手を止めた。
 先ほどの悲しげな表情はどこへやら。龍麻は満面に人懐こい、あどけないと言ってもよい笑顔を浮かべていた。
 壬生は切れ長な目をさらに細めた。眉間にわずかにシワが寄る。
 「…礼を言われるほどのことじゃないよ」
 だがやはり龍麻は無邪気な幼子のような笑顔を向けている。
 壬生は自分の手元に目を落とした。皮剥きを続ける。
 「…このナイフはなまくらだね。切れ味の鋭い方が、刃物は怪我が少ないんだよ」
 「…そうだね」

 最後まで剥き終わり、壬生はリンゴにナイフを垂直に当てる。三分の一ほど刃を食い込ませたところで手首をひねると、パキリと音を立てて真っ二つになる。リンゴの香りが一層強く立ちのぼった。
 ふと顔を上げると龍麻は静かに寝息を立てていた。
 「龍麻…」

 壬生はリンゴのヘタを取り、八等分して芯を取り除くと、籠の横に置いた。
 洗面台でべたつく手とナイフの刃先を洗う。
 ポケットから取り出したハンカチで刃を拭き、鞘をかぶせる。
 パチン。
 刃が鞘の中に収まった瞬間、壬生の切れ長な目が細められる。瞳に剣呑な色が浮かび、秀麗な顔は険しくなる。

 ナイフを引き出しにしまったとき、病室の表に足音が近付いてきた。
 「あら…?」
 部屋に入ったとたんに漂うリンゴの香りに、美里は思わず立ち止まった。
 「おかえり。…では、僕はこれで」
 軽く会釈をすると壬生は病室を後にした。
 手を握り締め、背筋を伸ばし、かなりの早足で廊下を進んでいく。なぜかほとんど足音はしなかった。

 病院の外に出ると、すでに真っ暗になっていた。いささか痩せ始めた月が早くも浮かんでいる。壬生は立ち止まり、それを見上げた。
 「…柳生宗崇…」
 強く握り締められた指の爪が手のひらに食い込む。
 蓬莱寺京一たちが駆け回っても何も手掛かりが得られないと言う。それでも…。
 壬生は生まれて初めて、自分の中に生まれた刃を他者に向けるために、夜の街へと消えていった。







■ PRESENTS TOP ■  ■ TOKYO MAJIN GAKUEN ■
author's note