驟雨

 刷毛で塗ったような真っ青な空。
 むくりむくりと伸び上がる入道雲。
 耳を打ちつけ、頭の芯まで響かせる蝉時雨の下を、一人の男が早足で歩いていた。
 腰に大小を差してはいるが、総髪を首元で束ねているあたり、浪人者のようである。やや細面だが、切れ長な目と太い鼻梁、ぐいと引き結ばれた口元は優男と呼ぶにはいささか線が強過ぎた。左の目元に薄い刀瘡がある他は、とりたてて目立つ姿ではなかったが、よくよく見れば、この暑い中をぐいぐいと歩きながら息一つ乱さず、汗をほとんどかいていないことが知れただろう。

 男は不意に足を止め、笠を上げて空を見上げた。風が男の髪をかすかにそよがせる。男は最前より早足で歩き始める。やがて空の雲はどんどんと広がり、陽射しを遮り黒い影を落とす。

 男が破れ寺の本堂の軒先に身を落ち着けたとき、大きな水玉がぼとり、ぼとりと地を穿ち、瞬く間に道も石灯籠も黒く色を変えた。
 男は笠を外し、足を拭うと本堂に入った。火が絶えて久しいと思われる仏前で蝋燭を点すと、汚れた本尊が薄暗い中に浮かび上がった。元はなにかの絵が描かれていたらしい板張の壁を背に腰を下ろす。

 と、ばしゃばしゃと足音がして、人影が飛び込んできた。

 「ああ、参ったぜ。いきなり、土砂降りだからな」

 めしめしと木の床を響かせながら上がり込んできた男は、犬のように身を震わせ、水滴を弾いた。本堂の隅に蟠っていた先客の姿に気付き、人懐こそうに笑う。

 「あんたも、雨宿りかい。しばらくの間よろしくな」

 蝋燭の灯りのそばまで来ると、のしりとあぐらをかいた。
 一つくくりにした髪はぼうぼうといった態で、着物の袖も、袴の裾も擦り切れている。左の腰には並はずれて大きな刀を下げ、右の腰には酒瓶がぶら下がっている。首も、腕も、着物の合わせ目からのぞく胸元もがっしりと逞しい。やや垂れ気味の目元と大きな口元は屈託なく笑んでいた。

 先ほどまで滝のように降り注いでいた蝉の声は掻き消えて、耳を打つのは、ざあざあという雨音ばかり。

 濡れ鼠の男は懐から杯を取り出し、差し出した。

 「一杯どうだい」

 「…いや、私はあまり嗜まないので」
 低い声でいらえが返る。

 「そうか、一人でやるのは味気ないんだがな」
 仕方ないと呟きながら酒を杯に注ぐ声に、気を悪くした様子は見られない。ぐい、と一息にあおり、大きく息を吐き出す。
 「体が冷えた時にはこいつに限るな」
 顔をくしゃりと歪めて笑う。

 「それにしても、よく降るな。今日中に山越えを終わらせて、次の宿に着きたかったんだが、これじゃ今夜はここで夜明かしになるかもしれないな」

 「じきにやむだろう。が、ここで泊まっても構うまい」
 端然と座っていた男から声が返る。静かに抑えた声だが、雨音の中を不思議に通る。

 「そうだな」

 後から寺に着いた男は懐に杯を仕舞い、ずいと向き直る。
 「俺の名は覇王丸だ。よろしくな」

 いきなりの名乗りに、先に寺に着いた男は二度ほどまばたきをしたが、目を細めて笑みを浮かべた。

 「ずいぶんと勇壮な名前だな」

 「ああ、俺が自分で付けた。村を出る時にな」
 覇王丸は胸を張る。
 「あんたの名は?」

 「私は…」

 顔を俯けると蝋燭の炎の揺らめきがゆらゆらと影を落とす。

 「親から授かった名は捨てた。今は…」
 今の名は何なのか、男は先を続けようとしない。

 「…島原の噂、聞いたことあるかい」
 覇王丸がまたも唐突に話題を変えた。

 男は顔を上げ、覇王丸の顔を見た。

 「近頃、この国のあちこちで訳のわからない出来事が色々起きているが、実は魔物のせいだって話だ。その元締めの魔人が島原に巣食っている、というんだが…」
 覇王丸はにやりと笑う。
 「そいつとやりあってみたいと思っているんだ」

 「島原へ行く、つもりか」

 「おうよ」

 男はなおも覇王丸を見つめる。
 「魔と向き合って、勝つ自信があるのか」

 「さて、それはわからねえ。だが、腕試しとしちゃあ悪くないだろう」

 「そうか…」
 男は息をそっと吐きだし、目を閉じた。

 板壁に背を預ける男の姿をしばし眺めて、覇王丸はやや抑えた声でつぶやく。
 「やっぱり、笑わなかったな」

 男は目を開かなかったが、眠っていない証に片眉がぴくりと動いた。

 「俺が魔物と戦いたいと言えば、皆、魔物などいるわけないと、俺を気狂い扱いだ。魔物の存在を信じる奴も少しはいたが、そいつらは、無茶だと怯えるばかりだった」

 男は応えない。

 雨音が二人の間に滑り込む。心持ち勢いが弱まっているかもしれない。

 覇王丸が不意に嬉しげに笑う。
 「あんたもずいぶん強そうだな」

 男は目を開ける。

 「この雨が止んだら、一勝負してくれないか」

 その言葉に、男は再び覇王丸の方へ顔を向ける。

 覇王丸は大きな口元をぐいと歪めて笑っていた。

 「何故だ」

 「男が強い相手と戦いたいと思うのに理屈はいらないだろ」

 「…魔と戦う前に何かあったらどうする気だ」

 「島原にたどり着く前に、誰かにやられてしまうなら、俺はそれまでの男だったってことだ。俺には別に世のため人のため魔物を退治しようなんて殊勝な気持ちはない」
 覇王丸はがしがしと頭を掻く。
 「ただ強い相手と刀を交えたい。己の力を確かめたい。それだけだ。」

 「ずいぶんとあけすけに語るのだな」

 「そういう性分なもんでね」
 覇王丸は、にっと笑う。

 男は静かに覇王丸を見つめる。その視線を受け、覇王丸は
 「何だい」
と促した。

 「お主は、それで、何をうるのだ」

 「さあてね。…何にも、かな。だが、どうにも強くなりたくて村を飛び出た餓鬼の頃から、俺の生き方は変わらねえ」

 男は視線を外し、かすかに笑んだ。
 「お主は、意味なきことに意味を求めるのだな」

 「はぁ…?」
 覇王丸は首を傾げる。

 「私にとって強さとは、死なぬためのすべ…それだけだ」
 抑えた声が男の口からこぼれ出る。

 顔を上げ、男の声が改まる。
 「何故私を強そうだと思う」

 「俺にもわからねえ。ただ、あんたのそばに寄ると、体がぞくぞくしてくるんだ。気迫が満ちてるっていうのか」
 腰の刀のつかに手をやる。
 「こいつが抜いてほしいと騒ぐんだ」

 男は目を細める。
 「私ともあろうものが」

 独り言のような呟きに、覇王丸は身を乗り出す。
 「受けて…くれるかい」

 「いや…」
 男はかぶりを振る。
 「悪いが、今、お主と勝負するわけにはいかぬ。私にはどうしても成さねばならぬことがある。その前に、命はもちろん、腕一本たりとも落とすわけにはいかぬのだ」

 「そうかい。なら、しゃあねえな」

 「すべてが終われば、その時は必ずお主と勝負しよう」

 「ああ、楽しみにしているぜ」

 男は、す、と立ち上がった。
 「どうやら、やんだようだな。先を急ぐので、しからば御免」

 「じゃあ、またな」

 名前も聞かず、次に何時何処で会うかの約束もない相手を、まるで隣人に対するような気軽さで覇王丸は見送った。



 あれから季節が二巡した。その間に、覇王丸は二度、魔と呼ばれるものと出遭った。一度は、冥府から蘇りし天草四郎時貞と名乗る若者と。次には、魔界の王に仕える巫女と名乗る妖艶な美女と。戦い、これをうち倒した。

 正確に言えば、季節は同じではない。沸き立つ蝉の声は、行く夏を、つくづく惜しいつくづく惜しい、と嘆いている。

 山道を覇王丸は歩いていた。額に浮かぶ汗をぐいとぬぐう。
 目の先に寺へと続く石段が映り、大きく息をつく。

 破れ寺の濡れ縁に腰を下ろし、
 「やれやれ」
とつぶやいた。

 今朝発った宿屋で包んでもらった握り飯を広げる。
 「さて、この寺、前にも見たことがあるような気がするが…」
 握り飯にかぶりつきながら、覇王丸はつぶやく。
 「いっぺん来たことあったけな」

 昼飯を腹に納め、指をねぶると、ごろりと腕を枕に寝転がる。
 日陰にいるせいか、吹き渡る風もここちよい。覇王丸は大きなあくびを一つすると、じきに鼾をかき始めた。

 目を開けると、陽射しの向きがずいぶんと変わっている。
 「おっと、しまった。今日中に山越えを済ませるつもりだったのに」
 がしがしと頭を掻きかけて、手を止める。

 「あんた…」

 石灯籠の前に、総髪の男が立っていた。

 「久しいな、覇王丸」

 「あ、ああ、久しぶりだな」

 「約束を果たしに来た」

 「そうか。成すべきことっていうのは終わったのかい」

 「済んだ…といえば、済んだな」

 「そうか」

 「覇王丸、お主には礼を言わねばならぬ」

 「…礼だ?」
 覇王丸は首を傾げる。

 「…お主が戦った天草は、我が息子の躯を奪い、寄代としていた」

 男はごく淡々とした調子で口にした。覇王丸は軽く目を見張る。

 「お主が魔と戦い、再び冥府へと退けたことで、息子の躯を取り返すことができた。感謝する」

 覇王丸はがしがしと頭を掻いた。
 「別に俺は人助けのつもりで戦ったわけじゃねえ。礼を言う必要はねえよ」

 男の口元がわずかに緩む。
 「変わらぬな、お主は」

 覇王丸は黙って男の顔を見つめた。

 男は覇王丸の視線を受け、目を細めた。
 「私は…変わったか。お主にはどう見える」

 「いや…。相変わらず静かな気迫に満ちているが…」
 覇王丸も目を細める。
 「前よりも、悲しそうに見えるな…」

 「そうか…」
 男はフッと笑った。
 「お主には、やはり敵わぬな」
 次の瞬間には笑いを収めた。
 「果たし合いの件、受けてくれるか」

 「あ、ああ、もちろんだ」
 覇王丸は大きくうなずいた。

 「この先に勝手に場所を決めたが、構わぬか」

 「おう、案内を頼むぜ」

 男は歩きはじめ、覇王丸は後を追う。

 前後になり、細い道を歩く。空はいつの間にか、茜色に染まりはじめている。

 「正直、あんたから言いだしてくるとは、思ってなかったぜ」
 歩きながら覇王丸は声をかけた。

 「そうだな…」
 男は振り返らずに応えた。

 「息子のことで、私は初めて掟に逆らい、己の意のままに動いた。だが、求めるものを取り返した代わりに、かけがえのないものを永遠に失った。定められた道を踏み外した報いなのかもしれぬ」
 男は低い声で語る。
 「私は再び…己の背負うべき役割を果たしてゆかねばならぬ。その前にもう一度だけ心のままに動いてみたいと思ったのだ」

 「あんた…」
 覇王丸は足を止める。

 男も足を止め、振り返る。
 「心配せずとも、死にたがりはせぬ」

 再び歩き出す。

 「死に場所を探している訳ではない。手は抜かぬぞ」

 不意に開けた場所に出る。
 すでに陽は落ち、空の色はくすみはじめている。

 「…ただ、私も一度くらい、意味なきことに己を賭けてみたくなったのだ」

 昼間はあれほど暑かったものを、野を渡る風はひやりと涼しい。
 足下からは、りり、と細く虫のすだく声がする。

 男は地蔵堂に歩み寄り、中から何かを取り出す。
 「お主と対するに、私の本来の姿に戻るが、構わぬな」

 覇王丸はうなずく。

 「しばし、待たれよ」

 男は手早く手甲、脛当てを着けていく。
 顔を布で半ば覆い、頭に鉢金を載せる。

 やがて、その場に出で現れたのは一人の忍び。半身に構え、刀のつかに手を添える。

 「伊賀忍軍が頭領、服部半蔵、参る」

 覇王丸は愛刀河豚毒を振り上げる。

 「ずあぁぁーっ!」

 覇王丸の叫びは秋風に巻き上げられ、四方へと散らばっていった。



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