痛み

 「小沢さんに伝えておいてください。あなたに蹴られたところがまだ痛みます、とね」
 そう言うと、テーブルを挟んで向かいに座る氷川誠は切れ長な目を丸くした。
 私と2歳しか違わないはずの、尋常ならぬ純朴で一本気な青年は、初めてあった頃は借りてきた猫のような風情だったが、最近は豊かな表情を…それもいささか少年めいた表情を見せる。それが警察官として相応しいかどうかは疑問だが。
 氷川の戸惑った顔からすると、小沢澄子は私に暴力を振るったことを、彼には伝えていないのだろう。

 氷川と別れて一人になり、私は自分の顔に歪んだ笑みが浮かぶのを感じた。
 スーツの上から腹に手を当ててみる。
 冗談めかして口にしたが、事実、今でも蹴られた個所に痛みを覚える。
 
 今までに何度となく小沢と衝突したのは事実だ。そのほとんどが端から見れば所謂喧嘩と見なされる類のものであったことも認めよう。
 だがそれはあくまで言葉の応酬だった。
 自分が対策班に対して色々と策を弄さなかったといえば嘘になるが、それらはすべて警察の職務の範囲内だったはずだ。我々の対立は、警察機構の中でのそれぞれの立場からのぶつかり合いだったはずなのに。

 あの時、氷川誠が生身の状態でアンノウンに接触していたのだと、後から知った。彼の危機を回避するためにアギトである津上翔一の協力を必要としていたのだと、そう説明さえ受ければ、私だってその場は考慮し何らかの対応をしたはずだ。私はよほど意固地で融通の利かない男だと思われたのだろうか。
 結局、彼女にとって私は、意志の疎通を図るに足る人物ではなかったということか。

 そう思うと、またしても蹴られた鳩尾が…いや、もう少し上の部分がしくりと痛む。

 小沢澄子が私のことを言葉を交わすに足りぬ相手と見なすなら、いいだろう。私は彼女と違う立場から、必ずすべてを解決してみせよう。私一人の手で。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 G3−Xの定期点検の件で技術班と打ち合わせて帰る途中の廊下で、視線の遙か先に北條透が目に入った。
 そういえば、最近顔を合わせても嫌味を言ってくることがなくなった。おそらく腹の中でまた何か企んでいるのだろうけれど…。顔を見てもさっぱり読みとれない。
 今まではあの男の考える事なんて、この小沢澄子には何でもお見通しだった。あの底の浅い腹の内なんて多寡が知れていた。本人はせいぜい取り澄まして、作り笑いに作り声で誤魔化しているつもりでも、その表情を見れば笑えるほどに企みごとはバレバレだった。

 だが、最近…そう、アギトの一件でちょっと邪魔だったので、道を空けてもらってから、あの男の様子が変わってしまった。
 顔を見ても、何を考えているのかわからなくなった。
 …何とはなしに苛立つ。


 すれ違いざま、小沢は自分から声をかけた。
 「最近、うちの氷川くんがお世話になっているそうじゃない」
 「ああ、自分の職場では解決できなかったのでしょうか、ちょっと相談事を持ち込まれましてね。どうやら乳離れが進んでいるようで、喜ばしいことですね」
 「あなたの伝言、受け取ったわよ。氷川くんに『小沢さん、北條さんのことを蹴ったんですか』って聞かれてしまったわ。あなた、私が『女にやられた情けない男』のことをべらべらとしゃべるとでも思ったの」
 「さ、あ。あなたにとっては武勇譚ですから、特に隠すことでもないでしょう」
 低い、平板な声で答えると、北條はすっと視線を外した。
 その硬質な横顔を見ながら、ああ、また、見知らぬ男のようだ、と小沢は思った。

 「ご用はそれだけですか。私は忙しいのでこれで失礼しますよ」
 北條は歩み去ろうとした。
 「待ちなさいよ」
 小沢は思わずその腕を掴んでいた。北條はわずかに眉をしかめ、黙ったまま小沢を見下ろす。
 「あなた…何を企んでいるの?」

 …今のこの男は危険だ。これまでは何を仕掛けてきても、受けて立つ自信があったけれど…いったい何をしでかすか見当もつかない。なにか途方もないことに足を踏み入れかけているような気がする。
 …胸の中がチリチリする。

 北條は変わらず低い声で答えた。
 「…別に。あなた方の邪魔をする気はありませんよ。あなた方は自分たちの職務を全うしていればいい。ただ一つ言えるのは、アンノウンと顔を突き合わせているあなた方よりも、私は真実に近いところにいる、ということですよ」
 「真実?何の真実よ!」
 「今、我々の前で起こっているすべての不可解な事件の裏に潜む真実ですよ。私は私の立場から出来うる限りのことをする。それだけです」
 北條はそっと自分の左腕にかかった小沢の手を外した。
 小沢はハッと腕を引っ込め、制服の裾で手を拭った。
 北條は初めて片頬を緩めた。
 「失礼します」
 立ち去る背中を小沢は見送った。


 ああ、むかつく。
 ずっとうっとうしくて面倒な男だったけれど、まとわりついてこなければこないで、こんなにイライラさせられるなんて。
 だいたい、北條透のくせに、私の知らない顔を持っているなんて生意気よ。
 見ていらっしゃい。あんたの隠し持った腹の内も表情も、全部ひっぺがしてみせるから。

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AGITO