灌木の林を抜け、背の高い草の生い茂る向こうに張り巡らされた高いフェンス。都内から車でそれほど走るわけでもないその広大な敷地を望む場所に、氷川誠は立っていた。乾いた風が氷川のやや伸びすぎた髪をなぶる。フェンスの向こうを、切れ長な目を更に細めて氷川は見つめていた。
無機質な灰色の建物群。点在する特殊車両。行き交う制服姿の若者達。強い陽射しが、それぞれにくっきりとした影を落としている。
(まるで…)
(ここでは…)
「何もなかったかのようですね」
突然の声に振り向いた。
「…北條さん…」
北條透はすたすたと歩み寄ると、氷川と顔を合わせようともせず、その横に立ち、フェンスの向こうを眺める。
「…なぜ、ここに…」
「アンノウン絡みの事件に関わっているのは未確認生命体対策班だけではありませんよ」
北條は前を見たまま言った。
「もっとも、今回の件は結局、自衛隊の内部の事故として極秘裏に処理されることになったようです。上層部がそれで手を打ってしまった以上、もはや我々にはどうすることもできない」
北條の作り物めいた横顔に、かすかに苛立ちの影が浮かぶ。
「まあ、事件の中心となった人物は誰もいなくなってしまったので、まともな調査をしたくてもできないでしょうけどね」
氷川の広い肩がかすかに揺らぎ、視線がやや下に落とされる。
北條はゆっくりと視線を隣の背の高い若者に移す。
「でも…」
俯いた氷川の口から低い声が漏れる。
「ここで…」
多くの命が奪われたのだ、と。
北條も聞いた。
そして、隣の青年はその渦中にいたのだ。
もとから余分な肉の削ぎ落ちた、精悍な顔立ちをしていたが、この数日で更に頬がこけ、目元もくぼんでいる。
「あの人も…」
氷川は自分の右手を見た。
小刻みに震え出すその手を、左の手でつかむ。そのまま拳を握り締める。
「僕は…あの人を…」
さきほどからまともな言葉にならない氷川のつぶやきを、北條は黙って聞いていた。
氷川は目を瞑り、肩を振るわせる。
「あの人は強くて…僕は…勝てるはずもなくて…なのに…」
陽射しが氷川の顔の陰影を際だたせる。
「あの人はたくさんのものを背負っていて、まっすぐ何かを見つめていて…死を怖れずに…迷ってばかりの僕なんかより…」
「氷川さん」
静かな、だがよく通る声が耳を打ち、氷川ははっと目を開いた。
「あなたの仕事は何ですか?」
「……え…?…」
突然の問いに、氷川はぼんやりと北條の顔を見るしかできなかった。黒いガラスをはめ込んだような、表情のうかがえない目がこちらを向いている。
「アンノウンと一体でも多く戦って、一人でも多くの市民を守ること…。違いますか」
氷川はただ息をのむ。
次の瞬間、見慣れた皮肉の色が北條の顔に浮かんだ。
「もっとも、逃げられたり、アギトに横取りされたりと、たいした成果も上げられていないようですが」
氷川は思わずまた視線を落とす。
北條は再び氷川から顔を逸らし、フェンスの方を向きながら話し始める。
「死を怖れない…ですか」
「…え?」
「命と引き替えに力を発揮するとは、小沢さんもたいしたものを作ってくれたものだ」
氷川はカッと目を見開いた。
「小沢さんのせいじゃないでしょう!あの人はそんなつもりで作ったんじゃないし、それがわかってからは封印していたんです!あんな使い方をしてはいけなかったんだ!」
北條の口元が笑いの形に歪む。
(わかってるじゃないですか…)
「何です?」
なおも勢い込む氷川に、北條は今度ははっきり苦笑を浮かべた。
「まあ、いいでしょう。そういうことで」
あっさり引き下がる北條に、氷川はそれ以上言葉をかけられない。
熱い、乾いた風が吹きすぎる。
フェンスの向こうで、まるでアリのように動く自衛官達が目に映る。
「…命を懸けるといえば、聞こえはいいですがね…」
突然の北條の言葉に、またも氷川は反応しきれない。
「たとえば、あなたが本当に死んでしまったら、誰がG3−Xを装着するというんです。あなたの代わりなんて今の警察にはいないんですよ」
「…北條さん?」
「少なくとも私は御免ですね。私は今、もっと高い次元から、事の真相に近付くのに忙しいんです。最前線で体を張っている暇はないんですよ。あなたにはせいぜい頑張って1体でも多くのアンノウンの相手をしてもらわなくてはならないんだ」
北條は氷川の方を向き、ニヤリと笑った。
「悩むのは勝手ですがね。如何に少ない犠牲で多くの敵を倒すか、なんていう戦略的なことは、私ならともかく、あなたの頭じゃ考えるだけ無駄ですよ。あなたは目の前にあるひとつひとつの命を、その無駄に大きな腕で抱え込んで守っていけばいいんです。不器用なんですからね」
北條はフェンスに背を向け、どこか楽しそうに体を揺らしながら立ち去ろうとした。
「…北條さん!」
氷川の声に立ち止まり、首だけを巡らせる。
「…何です」
「…ありがとうございました」
氷川は長身を折り曲げるようにして頭を下げた。
北條は体ごと向き直り、軽く目を見張った。
「…馬鹿ですか、あなたは」
そう言い捨てると、足早に歩み去った。
氷川は軽く目を瞑り、ややあって顔を上に向けると、そっと開いた。
雲一つない、薄青色の空が広がっていた。
氷川は右手で拳を作り、そっと左手を添えた。
眩しげに、秀麗な顔を歪ませながら、口元にはかすかな笑みを浮かべていた。