|
「エリ」 (一) この冬は、琵琶湖にいつもより早い雪をみた。 琵琶湖の里に積雪があると、風景はまるで水墨画のような美しさを醸し出す、風に靡く岸辺の 葦、東部の水郷、西部の千メートルを越える山々、それらの美しい風景の中に寧ろ荒涼とした 自然の厳しさを見せ付ける。 高木は疲れを覚え、席を立った、窓辺までの数メートルを煙草に火を着けながら歩いた。 朝から昼食も摂らず書類作りに没頭していた為一息入れようと窓辺に佇んだが、まさか雪が 降っていようとは思ってもみなかった。 暖房のよくきいた彼の部屋からは想像もできない。 彼はただぼんやりと窓の外を眺めた、ふっと気がつくと一羽の鳥の動きが目に入り、風に流さ れ身を任せている姿に、視線が釘付けにされた。 高木が子供たちと別れてからもう十年になる、時々会ってはいるが少し間が空くとむしょうに会 いたくなるときがある。 子供に甘えたくないと思う心がその気持ちを押さえ、出来るだけ自分自身でも平静をよそおっ ては見るが、心の中はむしろその反対である。 机に戻り煙草を消してから受話器を取り、別れた妻の家の電話番号を押した。 複雑な気持ちで受話器に神経を寄せ、音がしている電話の向こうに気持ちを集中させた。 何度か音がしているのが聞こえた。 暫くしてから、カチャンといった受話器を取る音が聞こえ、その音を確認してからゆっくりと言葉 を開いた。 「もしもし」 「はい?」 娘の裕香の声が聞こえた、別れた妻がでればどうしようかと思っていたが、裕香が出てほっと した。 「お父さん」 「あっ、お父さん?」 「うん」 「誰かと思った」 「驚いた?」 「うん、お父さんいつもいきなり、お父さん、なんて言うから」 「ごめん」 「ううんべつにいいんだけど、何かあったの?」 「いや何んもない、久しぶりに今夜ご飯でもどうかなと思って」 「なんや、お婆ちゃんに何んかあったんかと思った」 「おばあちゃんは大丈夫や」 「ほなええんやけど」 「おばあちゃんは相変わらず天下泰平や、なんも心配することあらへん」 「ほんならええんやけど」 「それでどうや? 今夜」 「何んもないからええよ、どうせ暇やし」 急に電話をしたため驚いていたが裕香は行ってもいいと言った。 裕香に会うのは春以来だった、今まで何度か電話はしたが、いつもすれ違いで会うことが出来 なかった、春から会っていなかったわけだが、とりたててこのようなことが珍しいわけではない が寂しさは感じていた、久しぶりに会えると思うとうれしくなり、それから仕事に身が入らなかっ た。 午後、何人かの来客があり、それぞれこなしてしまうと、いつの間にか夕方になっていた。 裕香との約束の時間に間に合うようにと思い、時間を気にしながら仕事を済ましていたが、専 務の相田が京都の土地の件で相談に来た。 大事な商談の件だけに気にはなったが、ポイントだけ指示をし、早々に切り上げた。 相田が立ち去ったあと机の上を片付け、五時を廻った頃、タクシーを呼び約束した京都に向か った。 冬の夕暮れは早い、既に暗くなってしまった大津の街をタクシーは京都に向かって走った。 逢坂山を越え山科に入り、蹴上げの坂を下り、三条通りから右に白川橋を渡った。 南禅寺の山門の通りを右手に見ながら白川通りを裕香の住んでいる良子の実家に向かった。 いつものことだが、この辺りに来ると、もしかして義父に出会わないかと心配をする、別に義父 を避ける必要はないのだが、今更会いたくはなかった。 家の近くで車を止め前方を見ると裕香が門を開けて出てくるのが見えた、高木には裕香が母 親と話しているように見えた。 こちらを見て車が止まっているのに気が付いたのか小走りに走ってきた。 「お父さんごめん待たせて」 運転手が車のドアを開けると急いで乗り込んで来た。 高木は運転手に四条大橋へ向かうように言った。 「裕ちゃんお母さん?」 「えっ!」 「誰かと話していたみたいやったから」 「見てたん?」 「何んか言われた?」 「あまり遅くならないように、って」 母親の良子も娘のことが気になるのか、門のところまで見送ったようだった、父親と会うことを 裕香が言ったのかどうか分からなかったが、良子は娘の様子を見て父親と会うことが分かって いたのかもしれない。 「一っちゃんには言わなかった?」 「うん、今日は家にいなかったから」 二人が小さい頃はいつも三人で会っていた、それがいつの頃からか一郎が欠けるようになっ た。 父親から息子を見た時、どうしても男同士であることを意識してしまう、息子の方も同じように 意識をしてしまっているのであろうが、やはり同じ子供といっても息子に対する気持ちと娘に対 する気持ちは違う、息子も父親と同じような気持ちなのか、大きくなるにつれ父親を避けてしま っている。 よく考えてみれば一郎とは二年も会っていない、彼が高校を卒業してからも、もう一年は過ぎて いる。 男の子だから、逢いたくないのであればそれはそれででいいとは思っても、やはり心配にな る、今日会えるかとも思っていたが淡い期待に終わったようである。 車の外を見ると鴨川が見えた。 「運転手さん、橋の手前で止めて下さい」 良子の実家から丸太町を鴨川に沿った川端通りまで出て、そのまま四条に向かって走った。 四条大橋まで来ると車が混んでいた、僅かなスペースに車を止め二人は降りた。 この辺りは京都でも最も賑やかな所である、少し前までは京阪電車が走っていたがそれも今 は地下鉄になり道路は広くなっている、便利になったようだがそれだけにさらに交通量が増え ていた。 川端通りの歩道から縄手通りに抜ける小路を二人は歩いた。 「ねえ、お父さん何処へ連れて行ってくれるの?」 「そこのロシアレストラン」 「やっぱり」 「何や嫌か?」 「ううん、ええけど、ここしか知らんの?」 「そう云う訳じゃないけど」 子供たちが大人になってから何度か食事をするようになったがこのロシアレストランしか来たこ とがなかった、高木は昔からこのレストランを気に入っていた、このレストランなら親子で来ても おかしくはないだろうと思っていたが裕香は、またかとおもっていたようである。 レストランのあるビルのエレベーターで六階まで上がった、エレベーターのドアが開くとそこはい きなりレストランの受付カウンターになっている。 「いらっしゃいませ」 若い女性のウェイトレスが高木と裕香を愛想よく迎えた。 「予約していた高木ですが」 「高木様ですね、お待ちいたしておりました」 高木が名前を告げると、賓のよい造りの店の中をそのまま窓際のテーブルまで案内され、赤 い布の上にベージュのテーブルクロスが掛かった席に座った。 椅子に座り窓の外を見ると四条大橋がよく見渡せ、ネオンの明かりで人が歩いているのがよく 見えた、町は年の瀬の賑わいを見せていた。 「裕ちゃん、久しぶりやなあ」 「うん」 裕香はテーブルにあったメニューを見ながら応えた。 「何がええ?」 「うーん何にしようかなあ」 「何でもええよ、せっかく来たんやから好きなものを頼めば」 「何頼めばいいか迷って」 「コースにしよか?」 「うん」 二人はレストランの定番のコースを選び、高木は赤ワイン、裕香はオレンジジュースをオーダ ーした。 「ところで裕ちゃん、お爺ちゃんお婆ちゃんは元気?」 高木が裕香に会うといつも義父と義母の近況を聞いてしまう、彼自身はそれ程二人の近況を 気にしている訳ではないが、満更関係が無いわけでもない、自然に近況を聞いてしまう。 「うん元気や」 「二人共もう歳やから優しくせんとなあ」 「分かってる」 良子と別れてしまったのだから今更言うのも可笑しな話なのだが、自分の子供の祖父なのだと 思うとつい余計なことを言ってしまう。 少ししてオードブルが運ばれてきた。 「ほな裕ちゃん乾杯」 「はーい、いただきます」 高木はワインを口にした。 裕香は何の屈託もなく美味しそうに料理を口にした。 この様に裕香と食事をともにするのは久しぶりだった、以前に会ったのは確か春だったようだ が、それが何月ごろだったのか思い出せない。 それでも裕香とはこうして会うことが出来るが一郎とは会うことが出来ない、一郎が会うことをさ けているとは思ってはいないが、これ程会わないでいると、ついそのように思ってしまうこともあ る。 二人は食事をしながらとりとめもない話をした。 三十分程してレストランお抱えのバンドが小さなステージに上がり、ロシア民謡の音楽の演奏 が始まった。 金髪のロシア人の女性歌手が、歌い始め、歌が始まると店内のムードは一変した。 高木は仕事柄よくこの祇園町へ来ることがある。 祇園町は花見小路を中心にして、富永町や末吉町それに新橋界隈が最も賑やかである。店 の殆どはホステスを置いたクラブかスナックであるが、それに伴って飲食店が連なりこの辺り だけでも店は一千件を下らないと言われている、二人が来たこのレストランのある所は祇園町 と言っても少し外れの縄手通りにある、場所から言えば最も賑やかな四条河原町に近いのだ が、祇園町から言えばはずれになる、どちらかと言えば観光客と地元の客達が混在している 地域である。 「お父さんこの頃仕事の方はどう?」 裕香は父親に仕事の話はめったにしたことがない、しかし高木が仕事のことでこの春新聞に 取り上げられたことを知っているのか、少し心配そうに聞いた。 「ううん相変わらずや」 「あまり仕事し過ぎないようにね」 言葉に余韻を残し、しかし何処か心配した様子で聞いた。 「あのねえ、お母さんがあまりお父さんにお酒を飲まないように、って」 裕香が母親の言葉を言った、その言葉を聞いて別れた妻に何故言われなければならないの かと思ったが、別れても未だに高木の妻であることを忘れられないでいるようである。 それにしても随分複雑な立場になってしまった。 高木は良子と別れて六年を過ぎた頃に再婚をした、まだ子供二人はそのことを知らない、だが 良子は何かの時に再婚したことを知ったようである。 あるとき、一郎の進学の相談で良子と会った、その時彼女は何となくそれらしいことを言った。 「あなたも、いろいろと大変でしょうから」 その言葉を聞いた時はそれ程も意識をしなかった、だがその後何かの折に一郎のことを思い 出すと、あの時の良子の言葉が気になる。 一体良子が言ったことはどういう意味だったのか、やはり再婚したことを知っているとしか考え られなかった。 良子と別れて十年経っているのだから、今更何を言われてもかまわない、だがはっきりと言わ ない良子のことが少しは気にかかる。 まして二人の子供をぐれることもなく育て上げたことを考えると、新たに所帯を持ったことに多 少は気がひける。 高木が再婚した相手は祇園のクラブ「たかせ川」に勤めていた町子である。 「たかせ川」は花見小路を新橋通りに少し入ったところにある。 友人と行き着けのこのクラブに行ったとき、始めて出会った。 お互い、始めて顔を合わせたときから好意を寄せた、彼女は着物のよく似合う京美人であり、 彼はそんな彼女に一目惚をした、一緒に暮らすまでそれ程の時間は掛からなかった、それま で女性関係については複雑な高木だったが、彼女と知り合ってからは随分苦労をして関係を 整理した。 今から思えば男として最も充実していた時期だったのかもしれない。 そして、その町子には女の子の子供が一人いた、高木は裕香と別れて寂しい思いをしていた 時だったため、喜んでその子を養女にした、二人の子供に少し悪い気がして躊躇いはあった が、喜びの方が大きかった。 それから何年か過ぎ、養女のみどりは高木の二人の子供をすっかり兄や姉のように感じてし まっていた。 高木は養女には何の躊躇いもなく裕香や一郎の話をすることが出来た、自然に彼女も二人を まるで自分の実の兄姉のように思ってしまっていた。 裕香や一郎にはみどりのことを全く話すことが出来ないことと比べると、自分でも一体どう言う ことなのか分からない。 そしてあれから四年が過ぎた。 「ねぇお父さん」 裕香が高木に声をかけた、良子や町子のことを考えていたときだっただけに咄嗟に我に返っ た。 「う、うん、何やった?」 「嫌ね、何考えてたの?」 「何でもあらへん」 「そんな顔してないけど、まあいいや、ところであのねえ、一っちゃんがねえお父さん達離婚して たのか、って、私に聞くの」 「何やまた急に」 「うん、それでね、私知らなかったのって、聞いたの」 「うん」 「そうしたらね、ぜんぜん知らなかった、って」 一郎が思いもしなかったことを言ったという。 「一っちゃんのね、友達の両親が離婚したんだって、それでお父さん達の様子に似ていたか ら、おかしいなと思ったらしく、それで私に聞いたの、一っちゃん言ってたけど、お父さん単身赴 任していたと思っていたんだって」 「へぇー」 「笑うでしょう、もう全く子供なんだから」 高木は笑うに笑えなかった、単身赴任といっても彼の住まいの大津は京都の隣である、単身 赴任するような場所でもない、高校を卒業して、もう大人だとばかり思っていた一郎が、まるで 子供のようなことを言ったらしい。 裕香と二人で顔を見合わせて笑ったが心の底から笑うことが出来なかった。 それから二人は採りとめもない話をしていたが、料理のコースも終わりに近づき、デザートが 運ばれてきた、ロシア民謡の演奏は既に終わり、静かになっていた。 「裕ちゃん、美味しかった?」 「うん」 「そろそろ出ようか?」 時間が過ぎるのが早かった。 高木はつかの間の時間を惜しみながらレストランを後にした。 「家まで送って行くから」 ビルのエレベーターを降り、縄手通りまで出てタクシーを拾い良子の実家のある白川通りまで 裕香を送って行った。
|