(二)

 

高木は裕香と別れてから再び祇園に向けて引き返した。

彼はいつも裕香と別れると、言い様のない寂しさを感じる。

町子と再婚をして新しい家庭を持ってはいたが、いつも心の何処かに何か物足りなさを引きず
っていた、妻や養女との仲も取り立てておかしいわけではない、多少彼の母と町子との間がし
っくり行かないところがあるようには見えたが、今まで特別争いがあったとは聞いていない、確
かに四人の間の血の繋がりは薄い、みどりがお婆ちゃんと言ったところで、血の繋がりがなけ
ればそれは言葉だけのことである、少しの我侭が高木の母にすれば可愛げがなく写る。

高木はそんなことを考えたくないのだが、母の言葉を聴いていると、時々そう思っているのかと
聞こえる時がある、無論町子は母のそんな言葉を聞いていて聞かない振りをしているが、高木
にはやはり町子がいい気持ちを持っていないのが分かる。

まして所帯を持った時は、母は家にいなかった、高木の実家である兄の家に母はいたが兄嫁
と母の仲違いにより結局高木が母を引き取ることになった、町子は顔には出さないがそれをあ
まり快く思っていないようである。

母を引き取るまでは結構朗らかな家庭だった、冗談も言いお互いに甘えあってもいた、それが
何時の頃か事務的な応対になってしまっていた。

取り立てて喧嘩をする訳でもない、ただ必要最小限の言葉だけが家庭の会話になってしまって
いた。

白川通りから祇園に向けてタクシーを引き返し、三条通りから花見小路へ入った。

高木は新橋の交差点で車を降りたが、取り立てて行くあてがあったわけではない。

「さて何処へ行こうか」

花見小路へ来たものの自然に独り言が口を突いて出た。

新橋の石畳を一人歩く。

朝からの霙は止んでいたが、寒さは益々深まっていた。

十時ちかくになり、石畳の通りには酔客が歩いていた、すっかり葉が落ちてしまった桜の木
や、柳の木が鬱蒼と茂っており、それを下からライトアップし、可愛らしい提灯がいくつも燈って
いた、ここだけは寒さに負けず華やかである。

木立の下を綺麗な水が流れている、辰巳橋の上から提灯の灯りが反射している小川の流れを
見ていると、町子と知り合った時のことが自然に思い出された。

「よくこの橋の上で待ち合わせをした」

店が引けてからもよくここで待ち合わせをした、そして近くの割烹屋で食事をしてそれから待ち
かねたようにホテルへ行った。

あの時の情熱は何処へ行ってしまったのだろう。

彼は昔を思い出しながら暫く橋の上に佇んでいたが、この近くにある「たかせ川」を思い出し久
しぶりに行きたくなった。

 

「いらっしゃいませ」

ドアが開いたのに気がついて、顔も見ないままマネージャーが言った。

「久しぶり」

高木が声を掛けると、カウンターの傍でマネージャーと話しこんでいたママが驚いたような顔を
してこちらに向いた。

「まぁーおこしやす」

店内の装飾は如何にも京都らしさを醸し出した造りで、壁はじゅらく塗り、飾り窓には障子が嵌
っている。

ドアを開けた入り口には屏風の衝立があり、左側に木目の美しいカウンター席がある、その奥
に西陣織で作られたソファーのボックス席が三つある。

マネージャーは高木をその最も奥のボックス席へ案内した。

ほかに客は誰も来ていない。

結局高木は何処へ行くあてもなく引き返して来たが、懐かしくなり久しぶりに「たかせ川」へ顔を
出した。

彼が町子と所帯を持ってからは滅多にここへは来た事がなかった、それまではよく来ていた
が、なんとなく来づらくなっていた。

マネージャーと話しこんでいたママがウィスキーと氷を持って高木の席に着く。

「お久しぶりどすなあ」

「うん、前は何時来た?」

「もう随分になりますえ」

「一年ぐらいか?」

「いいえ、もっと前どす」

「そうか」

「冷たいお人どす」

「まあそう言わずに」

「綺麗なお人とご一緒にならはりましたら、祇園は用あらしまへんわなあ」

「そんなことあらへん」

「うちのナンバーワンを持ってお行きどしたから、祇園はいりまへんはなあ」

「なんか、嫌味やなあ」

「いいえ、そう言うわけではおへんけど」

「なんかマネージャー嫌味を聞きに来たみたいや」

本気とも冗談とも言えないママの言葉に思わずマネージャーに助け舟を求めたが、当の彼は
カウンター奥で仕事をしながらニヤニヤと見ているだけである。

そうしているうちにミネラルウォーターと氷を持って席まで来た。

「高木はん、そら美人の奥さんもらわはったら祇園なんか用あらしまへんやろ」

「なんや、あんたまでそんなこと言うの」

そんな会話をして、どっと三人で笑った。

やはり何処かに嫌味はあったのだろう、譬え所帯を持ったと雖も店の女の子を引き抜いたこと
と何ら変わりはない。

ママはウィスキーの水割りを作りながら高木に言った。

「新子ちゃん元気にしといやすか?」

「うん、まあな」

新子は町子がこの「たかせ川」に勤めていた時の源氏名である、このママが舞妓から芸子にな
り、そして芸子が引けてから作った店であったため、どうしても他の店とは違う特色を出したか
ったのか、女の子の源氏名を芸子のような名前にしていた、いつもは店には四人程いたが、
交代要員も入れれば六人で切り盛りしていたようである。

そのメンバーの全員が芸子のような名前だった、新子以外におと子、千子、玉野、それぞれが
一風変わった名前である。

高木は芸子遊びなどしたことがなかったが他の店とは一風変わった感じが面白く、ここには昔
からよく通っていた。

高木が来ていた頃に、よし野と言った着物のよく似合う若くて美しい子がいた。

その子に彼は心を惹かれていた、ところが新子に出会い、一目惚と言っていいほど惹かれた
ため、それからというもの新子目当てに何度も店に通った。

新子、いや町子は高木の友人の知り合いだった、彼もこの店には時々来ていた、それが偶々
一緒にゴルフに行きその帰りにいい店があるからと言ってこの「たかせ川」に来た、来てみてお
互いよく知っている店だったことが分かったが、その時初めて町子に出会った。

店では高木はよし野の客として通っており、譬え町子がいても席に着くことはなかった。

その時の町子の年は三十五で、他の子達とはどこか違う雰囲気を持っていた。

夫と別居をしており、実家である母の家に子供と三人で暮らしていた、友人は自宅がその母の
家に近く、云わば隣近所なわけである、心の中でいい女であると思っていてもまさかその友人
が彼女に手を出す訳にもいかなかったのであろう、そんな訳で彼にいい子がいるからと言って
紹介をしたのである。

それから高木が町子目当てに通いだした頃、よし野は裏切られたように思った、それは後から
町子に聞いたのだが、よし野は結構高木に惹かれていたらしい、当然高木も下心があったの
だが、その時は丁度よし野と同じ年頃の佳織が彼の自宅に居たためもあり、同じ年頃のよし
野にそれ程積極的にはなれなかった。

歳が二十歳近く離れ、世代の相違に多少戸惑い出始めた頃であった、三十五歳の落ち着い
た年齢に一挙に気持ちが傾いた。

「高木はん、新子ちゃん子供さんができはったそうどすなあ」

ママが水割りを作りながら言った。

「ええ?」

「いえね、新子ちゃんを知ってはったおひとからお聞きしましたんえ」

「それ誰や?」

「高木はんも知ってはるお方どす」

誰から聞いたのか、ママは高木が改めて誰と聞いたため、言いにくくなったようだ。

「亡くならはったとか」

「うん」

高木はあまりいい気がしなかった、お酒の席でひとの不幸の話題が出ているのかと思うと、む
しょうに腹がたった。

「ママ、その話はやめよう」

「へえ、すんまへん、かんにんどっせ」

ママは高木の顔色をみて咄嗟に感じ取った。

この「たかせ川」のママと家庭のことを話すほど親しい訳ではない、だがママにすれば自分の
店にいた子と再婚をした高木に対して、他の客と違い親しみを持っていたのかもしれない。

高木が少し気分を害したのかと思ったのか、暫くしてママは席を立って行った。

「ほな高木はんごゆっくりしとくれやす」

彼は飲みに来ていながら少し大人気ないと思い、それからはまた元の朗らかさを取り戻した。

「いらっしゃいませ」

ママが席を立ち少しして、若くて可愛らしい子が高木の席に着いた。

「あれ、君は洋服?」

暫く来なかった間に店の方針が変わったのか、この店にしては珍しく洋服を着た子だった。

「おかしいですか」

「いや、この店は皆和服だと思っていたから」

「私いつもこの格好ですけど」

「そう、方針でも変わったかな」

「ママからは何も言われませんよ」

時代の流れなのか、少し来ない間に変わったようである。

考えてみれば、以前のような方針では若い世代はこの店に入りにくいのは分かる。

銀座でも、客筋は若い世代に移っていると聞いている、この祇園も若い世代に受ける店にしな
ければならないのかもしれない。

「ところであんたは新人かな?」

「はい、一ヶ月前に入りました」

まだ仕事に慣れていないのか、来ている服も素人っぽかった。

「何処から来たん?」

「金沢です」

「へえ、金沢」

「おかしいですか?」

「いやいやそんなことはないけど」

「金沢はよくご存知ですか」

「あそこはうちの先祖が住んでいた所や」

「そうですか」

高木のルーツが金沢にあることを言って、彼女は親しみを感じたようだ。

「ほなまだ京都はあまり知らないんや」

「ええ、そうなんです、憧れの京都に来ましたので色々行きたいのですが、友達もいなくて」

「そのうち出来るわ」

若い女性がどんな理由で一人京都に来たのか、少し興味が湧いた。

「お客さんはこちらにお住まいですか?」

「いや、京都やなくて大津やけど、もう三十年近くになる」

「私、大津はぜんぜん知らないの」

「そうやなあ、京都の隣なんやけど、京都があんまりにも有名やから、その影に隠れてそれほ
ど知られていない」

「大津は滋賀県なんでしょう」

「うん」

「金沢から来る時に電車の中から琵琶湖を見ましたけど、大津は琵琶湖の傍ですか?」

「ああ」

取り止めもない話が続いた。

「たかせ川」にはカラオケなどはなく、話題が途切れると静かなものである、それだけに客扱い
はホステスの腕にかかっている。

京都も大津も全く知らない女の子に、客の扱いを任せているママも、やはり時代の流れには勝
てず止むを得ないのかもしれない。

昔から比べると全く変わってしまった。

町子が居た頃はこの時間になると、客は何組も入っていた、おと子や千子が上手に客をあしら
っていた、店内はカラオケなどがなくても、客やホステス達の笑い声で満ちていた、無論まだ若
かったがよし野もその辺りのところは上手かった。

兎に角、客を退屈がらせることはなかった。

話が途切れたため、気を使ったのか若い女の子は高木に話しかけた。

「まだ慣れてなくてごめんなさい」

面と向かって誤られると、彼も困ってしまう。

「ええよ、そんなに気を使わなくても」

「でもお客さんはお得意さんなんでしょう?」

「お得意さんねえ、まあこの頃はあまり来へんからそう言えるかどうか、ところであんたの名前
はどう言うんや?」

普通は客の席に着いた時に名前は言うものである、それをすっかり忘れてしまっている。

「ああ、すみません、私瞳です」

「瞳ちゃん、ええ名前や、それ源氏名?」

「いえ、本名です」

この店に来て、本名を名乗られたのは始めてである。

「君は二十歳位?」

「はい二十一です」

「そう、私の娘と同じぐらいや」

「ええ、そうですか?」

「うん」

当時のよし野が二十一で佳織が二十だった、それから思えば、この瞳の二十一は驚くような歳
ではない、しかしあれから年月は過ぎている、二十一と聞けば今は裕香と比べてしまう。

少しの時間取り止めもない話をしていた。十時半頃に四人連れの客が一組入ってきて、

これを幸いに高木は勘定を頼のみ店をあとにした。

「もうお帰りどすか?」

「ああ」

「今日はかんにんどっせ、新米を付けてしもうて」

「ママも大変やなあ」

「こんな時代どすから仕方おへん」

お互い良き時代を知っているだけに、それ以上言葉に出さなくても分かっている。

「じゃまた来とおくれやす、今度は新子ちゃんもご一緒に」

「ああ、ほな」

高木のような、過ってのいい客は少なくなった、ママは久しぶりに見た高木に心残りの様子で
見送った。

「たかせ川」を出てからぶらぶらと川端通りの歩道を歩いた。

京阪が地下鉄になってから、この道も随分綺麗になり歩道は三条通りまで石畳だった、石畳
の傍を、一メートル程のせせらぎが造られ、澄んだ水が流れている。

高木は何か物足りなくそのまま家に帰る気がしなかった、このままホテルに泊まれば町子は怒
るだろうか、気持ちはもうホテルに泊まりたくなっていたが、町子の顔が浮かぶと迷ってしまう。

暮れの賑やかな町を、どうしょうか迷いながら歩いていると、何時の間にか三条河原町まで来
てしまった。

「まあええか」

迷いをふっきるように独り言を言い、そのまま河原町通りのロイヤルホテルに入った。

遅い時間だったがホテルのロビーは賑やかだった、チェックインをしてエレベーターで六階の
部屋まで上がった。

部屋に入り、ミニバーにあったウィスキーで水割りを造り、窓の外を眺めながら今日の裕香を
思い出した。

すっかり女になっていた裕香に、戸惑いを感じながらも改めて愛しさを感じた。

水割りを一口煽り、それからタバコに火をつける。

窓の外に鴨川が見えていた。

少ししてからシャワーを浴び、気になっていた町子に電話を掛けた。

「今夜はロイヤルホテルに泊まることにした」

町子がどんな反応をするか心配だった、だが案外あっさりと言った。

「そうですか、ほなゆっくりして下さい」

あまりあっさり言われると拍子抜けをする。

五月蝿く詮索されるのも困るが、こうあっさりしたのも返って心配をする。

「あのー、お母さんが風邪をひかはったようです、大丈夫だと思いますけど、明日の朝病院へ
お連れしますので、明日の朝はお帰りにならはっても留守にしているかもしれません」

高木の母は八十三歳だった、特に風邪には注意をするように日頃言っていた。

そう言えば今朝少し咳きをしていたのを思い出した。

「分かった、ほな頼む」

「お着替えはいかが致しましょうか?」

「いらん」

「なんなら京子さんにお預けしておきましょうか?」

町子は最近何かにつけて京子の名前を出す、いつも会社への届け物をほかの社員にではな
く、直接京子に渡している。

町子は京子とのことを知っているのだろうか、所帯を持ってからはお互い昔のことはふれない
ようにしてきた、ふれればどちらも気まずいことがある。

しかし最近はよく京子の名前を出す。

考えてみれば、町子よりも京子との付き合いの方が長い、それだけに京子と面と向かって会え
ば彼女に負けたように思うのかもしれない。




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