糸賀一雄先生のこと
参 照
糸賀一雄著 「精薄兒の実態と課題」 関書院 1956/01/10 初版発行
糸賀一雄著「福祉の思想」NHKブックス日本放送出版協会 1968/02/10 第36刷発行
糸賀一雄著「この子らを世の光に」
ー近江学園二十年の願いー K.K柏樹社 1965/11/01 初版発行
糸賀一雄著 ヨーロッパ便り 1969/09/14 糸賀 房(糸賀先生夫人)発行
糸賀一雄著「愛と共感の教育」 K.K柏樹社 1969/01 第一冊発行
糸賀記念会編「追想集糸賀一雄」 K.K柏樹社 1970/09/18 糸賀一雄三回忌に-
糸賀一雄著作集刊行会編「糸賀一雄著作集T〜V」
日本放送出版協会 1982/04/01 第一冊刊行
京極高宣著「この子らを世の光に −糸賀一雄の思想と生涯-」
日本放送出版協会 2001/02/25 第一冊発行
高谷 清著「異質の光ー糸賀一雄の魂と思想」2005/4/20 大月書店発行
序 文
十 河 信 二
序 文
近 藤 壌 太 郎
糸賀君の追想集が出るに当って序文をということであるが、言いたいことは山ほどあるけれども、序文だから、かんじんなことだけにとどめたい。
糸賀君は文字どおり私心のない人であった。終戦直後、一般にまだ関心のなかった精薄児の教育に率先すべてを投げ打って当った。それが今日、その間題に対する世人の関心を高めることになったのである。糸賀君の急逝に当って、毎日新聞が「余録」の欄で書いたとおり、糸賀君は日本の文明を質的に高めた偉大た先駆者である。糸賀君が近江学園創設に当って考えたことは、精薄児の教育には指導者が何より大切だということであった。彼はその指導者養成を近江学園の一半の使命として取り組んだ。その意図は見事に実現して、今日かれの養成した人材が全国各地で活躍している。厚生省も糸賀君に、人を出せとたびたび要請した。しまいには、その人も底をつくほど糸賀君は育てては手離すのであった。これが糸賀君の何よりの貴い遺産であると私は思う。
糸賀君は私が滋賀県知事の時、秘書課長になってもらった。そのころ、私は、知事の告示や訓示がいかにも紋切型でつまらないと思っていた。ところが大阪府知事のだけは例外なので、聞くと、府庁に嘱託としてつとめている、語学も達者な教養の高い人物が書くということであった。そこで私も考えて、旧制中学校の漢文の先生に書いてもらった。ところがこれはむずかしくて一般にはわからないのでやめた。そこに糸賀君が秘書課長に来て書いてくれた。思想あり、信念あり、文才ありで私は大いに助かった。彼の書いた訓示を読む時など思わず力がこもったものである。
今から思うと、私もいろいろやかましいことを糸賀君に要求したが、糸賀君はそれをハッシと受けとめてよく勉強してくれた。
糸賀君は役人をやっても役人くさくなく、宗教を説いても宗教家くさくなく、教育をやっても教員くさいところがなかった。いつも生地の人間まる出しで事に当った。
糸賀君は実業家にしても、きっと成功した人だと思われる。それほどの才覚をもっていたからこそ、あれほどの大事業を成しとげたのだ。それでいて少しも事業家らしいところがなかった。これは考えてみると貴重なことである。というのは、単なる才覚ではない。糸賀君は誠実の人であった。何をやるにも誠心誠意であった。これが糸賀君に人の出来ないあの大事業をやりとげさせたのだ。
糸賀君は情に厚い人であった。しかも自分にきびしい人であった。そのきびしさが、ひるがえって入に対するやさしさとなってあらわれたのである。彼の晩年一といっても五十そこそこの若さだったがーの顔には、すべての人をつっみこむ、ひろびろとした柔和さがあった。まさに慈眼愛語であった。
もう三回忌か。早いものだ。
(浦和市常盤町)
ガ キ 大 将 の 弁
永 杉 喜 輔
戦争の最中だったな糸賀君、ほら、県の金を引き出して二人で青年学校視察に行ったのは。鹿児島でやむを得ずへんな宿のダブルベッドで君と抱きあって、翌日見学をそこそこにして霧島の湯につかったが、客一人いないと思うと隣室に笑声あり、あれはおまわりさんだったた。
なんとその日は最も厳粛なるべき大詔奉戴日だった。君は滋賀県の青年教育官、僕は滋賀師範付属小学校主事だった。友則ちゃんがそこの一年生、かわいかったな。そして君は課長歴任の末、食糧課長という難儀なポストをつづけて病臥、柴野という知事が枕元に来て米がどうの麦がどうのとうるさかったな。それほど頼りにされていた。
そう、そのまえ僕が応召、君からビックリするほど餞別をもらって即日帰郷、返しに行くと「いらん」というのでもらったまま今日にいたる。君もどうせあれは借金だったろう。
学生義勇軍をやって終戦、やせひぼけた体にイモがゆで学園建設。僕が進駐軍(実は日本人が相手だった)とケンカして辞表を出して東京に逃げ、下村湖人と貧乏してる時、わざわざ練馬のバラックに君と太田・和田氏三人が上京してくれて泊り、僕が三人にあげた旅費も僕にくれた。それもそのまま。前橋にもきたな、友則ちゃんと。そのとき風で洗濯物が飛んで僕がさわぐと、「『ボート三人男』(岩波文庫)を病中読んだら君そっくりだ」と君がいったので、「君もそっくりだ」と僕も返した。これがどうも印象に残っとる。その時だったかな、晩ウイスキーのみすぎて本棚の力ーテンあけておしっこしかかったのは。僕じゃないよ。
僕が大宮の場末に建売り買って独居の時分、東京で会った二人が夜、大宮の一つさきの宮原駅からタクシー賃がなく、雨にびしょぬれで歩いた。「思い出にたるよ」というと、「ひでえな」と君は哄笑したが、そうなってしまったな。夜中に二人で何食ったかな、そうインスタントスープにコゲ飯。また来たな、牧子ちゃんつれてピアノ買いに。次はたしか淑子ちゃんとこの帰りか、大宮駅に迎えに出たら階段に腰を
おろして一服しとった。改札で荷物を僕に渡してふらふらして車にのった。一杯やって寝しなにドテラで正坐したので家内が何してはるというと息を整えんと眠れへんといった。次に僕が山陰の帰りに学園に不意打ちしたら「僕もうやめる」と入れ歯をはずしながら君はいうので、やめんでドッグに入れよ、食えんよ、といい、帰京後同じことを手紙したらナシのつぶてのままで逝ってしまった。
僕をガキ大将と君はいったが、君も似たようたもので、ただ大将ぶりがよかったのと、ガキどもがよかったのとで、どえらい借金とどえらい仕事を残した。僕は僕のガキどもがくれた還歴祝いのチャンチャンコを着て君亡きあと撫然として四畳半の書斎に坐っている。別れてみるとドエライ男だった。
君の昭和四十三年の賀状がある。「夜明け前の子どもたち」PRの印刷の右わきに「先日は御懇書有難うございました。『福祉の思想」ととり組んでいて債鬼に追われてるみたいです。とてものことにこの気持は福祉どころではありません」と、左わきには「正月は嫁にいった二人の娘、三人半の孫、新潟から帰ってきた末っ子の啓治、それに陸続と卒業生の群、群の来訪、べったり坐ったきりで、チビリチビリ、とうとうへばってしまいました」とある。それくらいまではよかったのだが、とうとうへばりかたが非常に早すぎたんだよ。しかし、堂々たる人生だったな。ガキ大将、もって瞑すべし。さよなら。
○
京大での君の恩師、西谷啓治先生にも追想を書いてもらいたかったのだが、先生渡米中で、お願いすることができなかったので、君の急逝直後、ぼくが先生からいただいたお手紙の一節をここに出させていただくことにする。
ー糸賀君の亡くたったのが余り突然で夢のようです。自分より若い人が亡くなるのは全く情けない感じです。
教師の意識(或は無意識)が働いてでもいるのか、糸賀君を見ても、学生あがりという感じが、僕の眼に映る像から取れませんでした。それだけにその死が没義道に感ぜられるのかも知れません。併し糸賀君はあれだけの大事業をしながら、いわゆる事業家らしい感じは全然なかったということは、考えてみると珍らしくもあり、重要な何かを意味しているのかも知れません。
何時か糸賀君の「人間」について書いてみてはどうですか。一(以下略。昭和四十三年九月二十一日付、原文のまま) (大宮市吉野町二一四九・群馬大学教授)
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