落穂寮のあゆみ
記録と写真から
昭和25〜35年 各コマの写真ヲクリックすると拡大写真が見られます
寮舎のの移り変わり
京都市河原町四条の結納老舗の店主福田三蔵氏が所有の、京阪の粋客が立木山系と瀬田川と田上山野を見渡す里山の地に憩いを求めたという名残の料亭を、社団法人椎之木会が昭和25年初春に買収し、改装改造し福祉の拠点「落穂寮」が歩みをはじめた。以下は昭和45年湖南市に移転するまで利用された建物群です。 左から右に1.2階建ての本屋、2.別棟浴室(五右衛門風呂の)、3.・かまどのある台所、4.台所の主小島さん、5.茶室(以上は昭和33年全改築で取り壊す)、下に行って6.新館(国・県・共同募金会の助成をうけ完工、入所定員30名になる)、7.児童福祉法の年齢枠(満18歳)を超えた者のための成人寮(滋賀県共同募金の配分金の助成を受け建設)、8.医務室・静養室(滋賀県共同募金の配分金の助成を受け建設)、9.児童本館(定員50名になる、国と滋賀県の補助金の助成を受け建設)・浴室・事務室・調理室をふくむ管理棟(滋賀県共同募金の配分金の助成を受け建設)
暮らし・学び・働き・楽しむ(リクレートする)
近江学園から分離独立して新しい生活がはじまった、当時こうした福祉施設が全国に40ヵ所ほど、そのほとんどが公立運営で、国費の措置費プラス府県単独の助成金(運営費の赤字が補填される)により賄われた。民間の運営は唯一の収入である措置費(当時の生活保護費に見合う額)のみで賄われた。保護収容が精一杯と消極的な運営が多く見受けられたなかで、わが落穂寮は子供たちの可能性をのばすために全力をあげ奮闘したのである。身分保障が将来にかけて不安定で、職員数確保もままならないおり、使命感に燃えた職員の献身的な働きが続いた
参照 美術手帖 臨時増刊「ちえのおくれた子らの作品」1955/5/10 美術出版社発行
ゴッホ研究の第一人者式場隆三郎博士の絶大なご理解とご協力を頂き、また幼児画の研究者宮武辰夫先生のご指導も仰ぎ、絵画指導が格段に進んだ。
昭和30年3月、東京渋谷の東横デパートで「知恵のおくれた子らの作品展」が全国手をつなぐ育成会・東京タイムズ社後援で開催され、連日多数の見学者でにぎわった。
千葉県市川市の八幡学園の功労者渡辺実先生(期間中、教育相談室に奉仕的に参加された)は同上紙上で記されているのでその一部分を紹介する、
彼等のの絵に理づめの構図などあろう筈がない、活発に描く子供ほど紙面が足りなくて困っているように思う。隅から隅まで同じような努力が入っているのは、まとめることではない、広がりたい意欲である。
私はこれ等を「拡がりのある絵」と称し余りきちんとした額縁に入れることを好まない。とにかく重ねて思う。 この作品はみる人を意識しつつ 主張を持ち批評を期待してかかれたものではない。私たちは楽しく観ていていいのである。何も批評しなくてもよいのである。
そしてそれが私達に話しかけてくる迄みている絵である。
東京展に出展した子供たちの絵 (美術手帖に掲載された一部)
参照 勉強のない国 忘れられた子らの保母の記録 糸賀一雄編 1954/9/ 国土社
同上誌の中で、開寮から昭和31年度まで主任保母として献身的な貢献をされ初田春子氏は、異常な食欲の持ち主(時、所かかわらず)、夜尿に困り果て、親から見放された子、仕事一筋の子などにふれて愛情一杯の実践報告を述べている。
◎ 「いうことを聞かないとなると、言葉による話はできないし、力は強いし、大きな身体で転げまわるので、まったく手のつけようがなくなってしまう気分がしずまると、自分の悪かったことがわかったというふうに、頭を何度もさげてあやまるので、その姿がいじらしくて、私たちはついかわいそうに思って水に流してしまうのだが、考えてみればいつもテイ坊のことは疑問でいっぱいである。
◎ 入寮したころは栄養失調で、大小便たれ流しの日が続いた。笑わず、ものも言わず、うなずくだけ。2年間、昼も座ったまましくじていたが、その後便所に行くようになってくれたが、夜尿がふえてきた。私は彼のとなりに寝床をとった、便所に行く彼をはげまし失敗しなかったときはほめてあげる。その日は朗らかそうに遊んでいる、ちょっとした心ずかいに反応する子供であることが読み取れる。その後はかれの心と私の心が通じたのか寒い冬の2月しくじることもなく過ごせた。
◎ 入寮したその日から毎晩添い寝をしてやった。一人で寝させるとすぐ目を覚まして泣き出すので、寝入るまで20分ぐらいそばで寝てやらないといけなかった。この子は生まれてからどんな毎日であったことかと、私は添い寝をしながら、あれこれと想像してみるのだった。(中略)この子が成長したあかつきのさまざまの世の荒波のことを思わずにはいられない。私は特別な責任と覚悟をかためさせられている。
◎ 18才になった武君は何処となく大人くさい容貌になっている。今日も朝早く起きて、手ぬぐいを腰にぶら下げ、洗面所の鏡に向かってアゴをつきだし、ひげをさわってみている。「しごと、ゆきます」朝礼が終わると斧を担いで裏の小屋に出かける。薪割りの技術はまったくすばらしい力もあり一心不乱に割り続けるのでぐんぐん成績が上がる。山のように積み上げられると、先生を呼んで見てもらう。「ワーツ!がんばったね」そういわれて武君は喜ぶのである、そして一層馬力を出す。
世の中には薪割りの様な仕事はいくらでもあるはずだ、深い理解と愛情を持った社会に、武が迎えられて、年をとっても白いひげがはえるまでいつまでもかわらない働き者で幸福にくらすことはできないものだろうか。
暮らし、学ぶ、働く
県域から症状の軽度・中度の入所要望が高まり、昭和33年度に管理棟と児童本館が完成し定員が20名ふえた。この際は小学年齢期にある児童を受け入れ、生活や作業から豊かな人間形成を目差し、青年期に入って職業指導を近江学園ないし信楽学園でしあげ、就職等の社会復帰にむすびつける。対象者が複数の施設を利用し、生活や訓練から多面的な刺激をうけることが大事ではないかと考えた。
学齢児を受け入れたが、3R、読み、書き、算の学習を観念的に進めるよりも、むしろこの子供たちには3H、Hand、Heart、Health、手に職をつける(作業・職業訓練)、豊かな人間性の陶冶健康、生活に根をおろした教育(生活に即した教育)を考えるべきであらう。落穂寮のいたるところに教材として取り上げるものがころがっている。前任者も指摘していたが、職員も子どもたちも同じ釜の飯を食べ、同じ毎日をすごすとなれば、師弟同行しより良き生活向上に汗を流し働くことが共に生き、共に育つ原点ではないだろうか、仲間意識に結ばれ、それぞれが能力を惜しみなく発揮すればここがわれらの生きる場所になろう。生活学習が続けられた。職員も子どもたちも鍛えられ逞しくなり寮内のそちこちが整備され、施設生活全般が充実していった。
新館建設の用地の整地作業、養鶏1000羽の飼育場作り、寮内給水装置小屋整備、職員家族舎建設用地整地と基礎コンクリート打ち、石部移転引越作業等々、民間施設の財力の弱さを職員と寮の子供たち大人たち(保護者)が力をあわせおぎなってきた。その全貌を映し出すことができず残念だがご来寮いただけば奮闘の跡をご覧いただくことができる。
旧友矢野長兵衛氏は、「おちほ」2号で近江学園が火災をだしたことがあった。焼け跡の整理に落穂寮の先生と子どもたちも何日か手伝ってくれたことがある。その時カラは小さくても、力は弱そうでもとてもよく働いたことが印象にのこっている。
「落穂のこどもたちはきもちよく働くね」と増田先生にいうと、
「なにしろ、まいにち働いて、きたえられているからね」といって笑った。
落穂は小さな施設である。 大きな船は船長が号令しても容易に方向がかえられない。小さな船は行動が敏捷である。 小さな船「落穂丸」の海路の平安を祈りたい。
自然の風土や季節の変化が人の心をはぐくみ、逞しさと優しさを知り、四季の移り変わりに彩られた行事に参加し、感性を豊かに育て、創造し工夫する実践から心身両面の学習に参加させたいと考えた
節分の行事(寒さに心身を鍛える)
走れない子は歩き、走れる子は精一杯走り、全員に努力賞。
ひな祭り「すみれ組」「ひのき組」の競演(ちいさなお部屋でこじんまり)
湖畔学舎(5日間ほどのキャンプ、炊具、生活用品、医薬品等を持参、食料品を現地で仕入れ水泳水遊び、キャンプファイヤー、花火を楽しむ)高島萩の浜、彦根須越の浜、志賀の浜(最寄の小学校校舎、調理室借用)、旧安曇川レクレーションセンターの浜
運動会(親子合同運動会)
親子関係が疎遠にならないように学期毎の帰省、通信連絡、寮の行事を合同で開催、保護者の親御さんに協力をお願いした。
遠足(親子遠足)
X’mas
職員が劇や歌やパフォーマンスの数々を用意して子どもたちへサービスし、最後真っ暗な中からサンタを迎える大合唱がはじまり、ひとりひとりに用意されたプレゼントをいれた白い袋をかついだサンタ登場で、一斉に歓声をあげイブは最高潮に達し、名前を呼ばれてサンタさんからプレゼントを渡されしっかり抱きしめるうれしさ一杯の顔、顔、忘れられない。
喜びも悲しみも
児童本館と管理棟が完成し本館2階のホールで式典が開催された、開寮ご10年の記念式典が野外山の運動場で開催された、5月というのに夏をおもわせる暑さのなか、来賓の皆さんにご辛抱いただいたことをおもいだす。
遠く関東からお預かりした雄ちゃんが病に勝てず、幼い命が消え寮のみんなが深い悲しみにつつまれ雄ちゃんの死を心からいたんだ。いつも雄ちゃんを愛しつつんでおられたおばあさんが惜友の雄ちゃんの霊前におまいりされた。
椎の木会総会に出演
落穂寮の後援組織が、その先導的役割をはたされた吉田ナミ理事の呼びかけに答えて各地に生まれ、協賛する支部が結成された。会員からの会費収入が落穂寮の財政を支援することになり、、設立時の建設借入金の返済や施設整備の資金援助になった。椎の木会や落穂寮の実情を紹介するために支部の総会がもたれた時、寮長から子どもについての講演や子どもたちの学習の状況を知ってもらうために演劇やリズムバンド演奏や作品展を開催し、PRにつとめた。
寮舎・設備の整備について
昭和45年に現在地に移転するまでの間、旧南郷敷地で児童50名と法定年齢超過の青年と自由契約児18名、職員20名わせて90名が生活を共にしていた。
この期間に施設設備基準の改定もあり、また入所児童の処遇改善を目指して逐次設備整備の事業が進められた。
滅菌浄化加圧給水装置設置事業 (昭和36年度 共同募金配分金)
職員家族舎建築 (昭和37・38・39年度 共同募金配分金)
洗濯室整備事業 (昭和40年度 共同募金配分金)
学習訓練室建築 (昭和41年度 共同募金配分金)
調理機器整備事業 (昭和42年度 共同募金配分金)
養鶏事業整備 (昭和35〜40年度)
事業の殆どが共同募金配分金の補助をうけ、自己資金は事務経費を節減しての捻出と椎の木会員の寄付などでまかなわれた。
昭和45年現在地に移転し、児童定員80名の新寮舎に入る (日本船舶振興会補助金、滋賀県補助金、清水基金補助金)
プール建設 (昭和46年度 滋賀県共同募金会特別補助金)
六角形作業棟 (昭和48年度 日本自転車振興会補助金)
学習棟 (昭和49年度 清水基金補助金)
児童棟暖房設備 (昭和50年度)
敷地危険防止フェンス張り工事 (昭和46〜49年度 滋賀県共同募金特別補助金)
事業は公的補助金や民間助成団体の補助金と自己資金の充当によりまかなわれた。
現在地に展開する施設等を紹介します。(1998.7撮影)
暮らし・学び・働き・楽しむ(リクレートする)
(児童を「子ども」と言っているが、親愛の気持をこめそう呼んでいることを了解してほしい。)
昭和36年1月26日、親元の近江学園で出火寮舎と教室を全焼するという痛ましいことが起きた。何はさておいてもと駆けつけたが火炎は激しく、消防士の活動を見守るしかなかった。翌日以降焼け落ちた後片付けにほぼ1週間ぐらい寮の子どもたちと参加した。その活躍について前期に矢野先生が手記で述べていただいた。
36年以降の教育指導の実践を振り返ってみよう。
落穂寮の生活と学習
この期間、延人数220名の子どもたちが落穂寮で生活し教育訓練に励んだ。職員が善戦善闘(悪戦苦闘ではなく)して子どもたちのため良かれかしと日夜を問わず成長をこい願がっている。社会に巣立っていく準備教育の日々でもあるが、二度と繰り返しできない大事な毎日を送っている、生活と教育が合体した「生活即教育」の毎日である。向き合う職員と子どもらとの人間のつながりが深まり、愛と共感の教育が実践される。未熟さを反省しつつまた課題に果敢に挑戦する勇気ももちたい。
南郷時代に
遥かに田上山から田上平野を遠望する寮の丘の広場が荒れるにまかせて、利用されないのが不思議だ。この場所を整地して、子どもたちが遊べる運動場が作れないか、みんなに相談し全員で整地作業にかかることになった。1週間男子職員も女子職員も全員、草を刈る子、根っこを掘り起こす子、土を掘る子、土を運ぶ子、だれもかれもその作業に熱中した。すっかり広々と整地された運動場を子ども等は嬉々として駆け回った。症状の軽い重いに関わらず参加し、完成の喜びを共にすることができた、教育と生活が指導者と子どもたちの合作で中身濃いものになることを知らされた。
狭隘と段差の敷地に広々感をもてない敷地の中でも、工夫次第で拡がりを求めることができたのだ。
完備された環境でなくも、生活の中から教育の素材を発見し、机上の学習ではなく、身体を動かし汗を流して教えられ鍛えられることを考えさせられた。
美代ちゃんに教えられて
美代ちゃんは先生のよきお手本でしたよ、とても几帳面で言われなくてもおもちゃ箱の中もタンスの中もいつも美しいでしたよ。ちょっと服や下着を汚してもすぐ自分で洗い必ずとりいれるといった本当に几帳面な子です。自分の服や靴下もきちんと繕いました。私はどちらかと言えばすぐお部屋なんかも汚しちゃいますよ、でも今年1年は貴女に負けないよう頑張りましたよ、あなたの日々の行動からたくさん教えてもらった気がする。美代ちゃんありがとう。
学ぶ、働く、創る
石部の現在地に移転してから、地元の小中学校から教官が派遣され学校教育法にもとづく授業が学齢期の子どもたちに行われ、後に落穂教室となり54年度に三雲養護学校が設立され、該当の子どもたちが通学し養護教育を受けることになった。
安部君卒業おめでとう
小雪舞う寒い日に安部君が私の薬を北村医院へ行ってくれたとき、「おばあちゃん今日は寒いから、僕が行ってあげる。僕は中学を卒業して明日から家に帰ってしまうさかい、お薬をもらいに行ってあげる」という話を北村先生にする、こうした子らの純なる心の言葉で瞼の熱くなるのを感ずるが、先生の目に泪があった。
安部君が帰ってしもうて寂しい。
日々の生活から
ただし君と月見草
就寝の鐘が鳴ったのにただしは返ってこない、保母さんが心配して探しに行こうとしたときにただしは両腕一杯に自分の背丈ほどの大きな月見草を抱えて暗がりの庭をボソボソと歩いて入ってきた。「ただしちゃんどこへ行ってたの」と保母さんが尋ねると、「立木さんの道の方へ行ってきた」とただし、「マア、あんな遠いところまで寂しい道をね」保母さんはびっくりしている。「たくさんな月見草をどうするのただしちゃん」、ただしはニヤリと私の方を見て「これおばあちゃんにあげるの」私は何かしら胸が熱くなった。立木観音への道端や河原一面に咲き乱れているこの美しい夜の女神をただしは先ず一本抜き取ったのであろう、次々とほの白い美しい月見草を抜き取って両腕に抱えきれぬものになったとき、ふと気がついたら辺りは真っ暗闇になっていたので、ボソボソと帰ってきたのであろう。一切の恐ろしいことを知らぬただしが暗闇の中で、それでもほのかに見えるほの白い月見草の繁る河原で立って夢中で花を手折っているかれはおそらく暗さも寂しさも念頭には無く、ただ花と我との妙境に遊んでいたのであろう。美しい情景だ。
おばあちゃん
斎藤ちか寮長は、若かりしとき神学校に学び、選ばれて渡米し社会事業・宗教について実践を通して学び、帰国後神学校で教鞭をとり多くの子弟の育成に努められ、京阪神地区で後に婦人活動・幼児教育活動・宗教界に貢献する有為の人たちを指導された。戦後夫君斎藤謙蔵氏が糸賀一雄先生に請われて初代落穂寮長に就任するも旬日をえず死去された後、亡夫の遺志をを継ぎ二代目寮長に就任、老骨なれども人生の深い機微ににふれ、慈愛のこもった真心は職員や寮の子どもたちからも慕われ「おばあちゃん」の愛称で呼ばれ、人間愛を基調にした暖かい家族のような営みを寮の根底にすえて、昭和40年退任するまで心の柱としてご指導いただいた。退任後もお元気で寮内に過ごされたが、昭和54年病に倒れ静かに生涯を閉じられた(享年90歳)。心からご冥福をお祈りします
節分、ひな祭り、氏神祭
落穂寮のお神輿は学園施設のなかでもとても好評でした、地域の皆さんも楽しみに見てくださいます。地区の氏神さんにお参りして子どもらの無事息災を祈願します。
身体を鍛えるマラソン
足腰がしっかりと大地に立つことができるのは健康の基本だと考えます、歩くことやジョギングが健康のリズム整えてくれます。地区内の施設学校が年に一度のマラソン大会を開催し、お互いにそれを目標に競い合うことは子どもらの健康増進のため意味深いものと考えます。
運動会(親子合同運動会)
親子関係が疎遠にならないように、この行事も親の会との共催で楽しんで頂いています。
外出、遠足、旅行、キャンプ(エンジョイシしリクレートする)
外の空気に触れ社会性を拡げることも大事、外出し人と出会い、社会の常識を知る、体験から得られるもの大きい。とかく閉鎖社会にいる日常からを外を学ぼう。
年の終わりにX’masを祝う
子どらのお楽しみ、子供らの演劇(学習発表会)を親御さんが観劇し、我が子の表現や発表を見守っていただく。イブには職員が趣向をこらした演劇を子どもらの前で発表する、終わっていよいよプレゼントを持ったサンタクロースが登場し大歓声。
喜びの催し
寮の様子を皆さんにお知らせしたいと考え、作品展示即売会を東京銀座の明治画廊や池袋のアートスペースYOUで、また阪神デパートで朝日新聞厚生事業団や「東京都練馬区立旭丘小学校」、東京都図画工作研究会のご協力をいただき、毎回多数の見学者の来場で賑々しく開催することができた、期間中旭丘小の養護学級と親子宿泊交流会をもつことができ、寮の親子はついでに鳩バスで東京見物を楽しめた。
記念行事
喜び
常陸宮両殿下をお迎えし、ご歓迎にバンドを職員児童で編成し久保先生指揮で賑々しく演奏、曲の終わるまで両殿下にお聞きいただいた。
創立30周年記念式典を盛大に挙行、記念行事の琵琶湖周歩は開寮以来の画期的事業で溝口先生の情熱と綿密な指導計画の成果であった。
お別れ
慈愛と暖かい愛情で落穂寮を包み育ててくださった斎藤のおばあちゃんが病に倒れ、悲しいお別れの日を迎え寂しさひとしお痛く、皆さんとともに寮内で追悼のお別れをした。
いつも元気にみんなと仲良く遊び、くらし、学んでいたのに、信じられないほど急な病に倒れて全快せず、悲しいお別れとなった、みっちゃん、かよちゃん、ひとみちゃんを偲んでみんなでお別れの集いを、何時も遊んだり、飛んだり跳ねたり、学習発表会に出演したりした体育館で開催しました。やんちゃな子どもも神妙な顔をして手を合わせてお別れしていました。
昭和56年〜現在 各コマの写真ヲクリックすると拡大写真が見られます
設立後20年経った昭和45年、大津市南郷の地を離れ,阿星山(湖南市石部町と栗東市境の)の峰から東寺に連なる筋のすそ近く以前小字「馬の背」と称した現在地に移りました。馬の背は太い幹の赤松がそびえたち、昔から松茸がよく取れ村の入り会いの村人が管理する財産区でした。その地を県が買収整地して落穂寮に貸してやろうという移転整備計画が進められたわけです。小高い丘ながら急勾配のの頂にたやすく上がれませんでした、ブルドーザーで整地のため3ヶ月ほどかかって、落穂寮と一麦寮の建設敷地が作られました。
重機で押し出されのり面加工されず堆積した土砂が雨に崩され民有地の田畑に流れ込み、その補修に全寮上げて土方作業に追われる日々が続きました、移転後5年間に則面補強工事を大学生のワークキャンプや保護者会の奉仕、そして全寮あげての汗の働きで完成することができました。地域に溶け込むより迷惑かけない配慮が先ず必要でした。
その後の5年間も、環境整備や設備充実のための用事・工作・建設が次々求められ、これまた全寮あげての汗をながした共同作業によってすすめられ、移転後10年目にやっと移転仕事が終わったと落ち着ける心地になり一息二息つくことができました。
寮舎の現状 2005.7現在
建物名称 |
面積u |
用 途 |
取得年月 |
補助先 |
---|---|---|---|---|
管理棟 |
262.56 |
寮長室、会議室、資料室 |
S.45.3.31 |
滋賀県、日本財団 |
利用者生活棟 |
279.05 |
生活居室、ホール、洗面便所、浴室 |
〃 |
〃 |
体育館 |
242 |
体育ホール、訓練器具、照明、器具倉庫便所 |
〃 |
〃 |
職員宿舎1 |
81.6 |
職員家族舎 |
〃 |
〃 |
グループホーム |
77.76 |
グル−プホーム生活棟 |
〃 |
〃 |
職員宿舎2 |
48.60 |
職員家族舎 |
S46.7.31 |
清水基金 |
六角作業棟 |
130.06 |
粘土工作、縫工、工器具庫 |
S48.4.30 |
中央競馬福祉財団 |
学習室・ゲスト |
226.77 |
学習室、資料室、短期療育、実習室 |
S48.6.30 |
清水基金、中央競馬福祉財団 |
職員宿舎3 |
99.00 |
職員家族舎2棟 |
S50.4.30 |
清水基金 |
職員宿舎4 |
117.9 |
職員4人用 |
S53.3.31 |
中央競馬福祉財団 |
職員宿舎5 |
133.24 |
職員5人用 |
S55.3.31 |
〃 |
倉庫・車庫 |
179.76 |
学習倉庫、車庫、器具倉庫、宿舎 |
S57.4.14 |
滋賀県、〃 |
工作室 |
102.42 |
木工室、金工室、器具倉庫 |
H1.10.14 |
〃 |
グループ |
155.94 |
ホーム生居室、洗面浴室、リビング |
H6.3.10 |
寄付金 |
利用者生活棟 |
748.62 |
生活居室、ホール、指導員室、宿直室、浴室、洗面便所、医務静養室、食堂 |
H12.3.31 |
日本自転車振興会 |
ボイラー室・倉庫 |
63.00 |
食品倉庫、プロパン庫 |
〃 |
〃 |
利用者生活棟 |
567.80 |
生活居室、ホール、指導員室、宿直室 |
〃 |
〃 |
職員宿舎6 |
248.4 |
指導員、職員8人用 |
H15.1.31 |
〃 |
現状の写真から
学ぶ、働く、楽しむ(余暇)
昭和56年度以降利用者平均年齢、利用期間調べ
2005.7調べ
S56年 |
S60年 |
H2年 |
H7年 |
H12年 |
H17年 |
総平均 |
||
人員 |
男 |
35 |
38 |
46 |
34 |
30 |
30 |
35 |
平均年齢 |
男 |
15.7(11.8) |
16.9(13.1) |
17.8(12.4) |
20.6(14.8) |
26.2 |
30.6 |
|
利用期間 |
男 |
6(2.6) |
7.2(405) |
8.7(4.8) |
9.8(6.8) |
14.3 |
17.1 |
※ ( )は利用者のうち、三雲養護学校に通学する生徒の数値を示します
各年4月1日現在です。年齢欄は歳、期間は年です。
練達の指導職員
石部地区に展開した落穂寮の屋台骨を支えてくれた同志職員の踏ん張りがなければ今日の姿を見ることができません、展開後直ちに始まった敷地護岸工事、養生芝植え付け工事、フェンス張り、植栽、庭つくり、給水汚水管補修埋設工事などおよそ学習指導などとは程遠い土工事に全力投球してくれた落穂寮の宝ともいえる職員に改めて心から感謝と尊敬の誠を捧げたいと思います。
また指導のうえで焼物や美術工芸に類まれな指導力を発揮して、その寮生の作品が大方の賞賛をうけ、作者寮生の人間形成に好影響と自立性を高めたことを高く評価し、その指導に敬意をあらわしたい。常に利用者の健康な体つくりに先頭たって牽引力を発揮して、スポーツへの取り組みを日常生活の中に取り入れて、周辺施設マラソン会や長躯して篠山マラソン会に参加し、スペシャルオリンピッサッカー戦に出場するなど、また旧地南郷から石部までのリレーマラソンを完走し、また緻密な計画の下琵琶湖周徒を成功させるなど感動と感激の指導が寮生をどれだけ逞しくし健康で明るい毎日を送ることができたことだろうとの思いがますます深くなります。
今日も元気に明るく行こう
四季おりおりに 名前はすべて仮名です
家庭をはなれ、親兄弟との安らぎの生活から福祉施設という団体生活に入ることになって、随分戸惑いや不安になり爆発的なパニック状態に落ち込み、鎮静に手の打ちようも無いこともあり、指導の担当が苦闘苦戦の日々を過ごすことになります。不憫ゆえに家庭内で甘えに傾いた性格の歪みをただして豊かな人間性をもった人に育ってほしい、集団のなかで役割をもち我れも他も共に育ちあう間柄が醸成されることを願いたい。いずれ地域社会にもどっていくためにそれぞれの力(能力)にみあった修練が重ねられますが、とても筋書き通のプランに簡単にのってくれません、指導の現場では接するにかなりの我慢強さと包容力がなければなりません。
多様な症状(知的障害ほか、身体障害、脳障害、運動機能麻痺、聴覚障害、ダウン症、定員50名中50%が合併症状をもっている)をもち、心の抑制力のままならない利用者(寮生)をまとめて、毎日が利用者(寮生)にとって大事な人生の頁を刻み、夢と希望の明日に向って挑戦し精進する仲間集団として寮生も職員も力を合わせていきたいと考えます。
春に向って
障害の重いおくの君の場合
お父さんに連れられて来寮、無表情、父親と離れると「お父ちゃん」と聞き取りにくいしゃべり方で訴えてくる。頭を左右に振り振り視線も定まらず、すり足で恐々歩き出す。学校の寄宿舎に入っていたので集団生活に慣れているだろうがやはり寂しさがつのってくるだろう。
今日も元気、言われたことに「ハイ」ト返事がかえってくる。しかし嫌がらせ(?)のように、おしっこの失禁が多すぎる。就寝後、頭をふすまにぶつけて壊してしまう。
在寮13年、指導教育上の向上は期待通り望めず、心身の虚弱・機能低下が更に進み、小児医療センターでの診断結果は最悪の状態に進行すると。
両親の離婚後、彼を養育介護する手立てがなくなり不安と寂しさにおかれた心の中はいかばかりかと胸痛くなります。今は重症心身障害児施設で医療の介護に護られて過ごしている。
夏の思い出
グランド整備に奮闘してくれた、おおのくん
いつの頃からか、本田指導員の手ほどきをうけ、重い整備具をひっぱり一周100mほどのグランドを隅からから隅まで土均し作業に精を出すようになった。グループの指導の時間以外のフリーになると、顔中大汗をかいてがんばる姿が毎日みられた。「おおのくん、ご苦労さん」と声をかけると、にこりっとうなずきこぶしを握りガッツポーズを誇示する。日課ときめたか、陽盛りの酷暑も厳寒の凍てつく烈風もものともせず黙々と続けられた。雨降りででられないとそれがけしからんとばかり口を尖がらせて誰彼なしに抗議した。お陰で見る見る美しくなったグランドで秋には盛大な親子合同運動会が催され、両親を迎えて嬉しそうなおおのくん大満足だった。今は家庭にもどって両親のもと過ごされている。 おおのくん有難う。
笑顔ののせくん
ご機嫌の笑顔は誰もひきつけてしまう魅力があった。冬のある日、職員朝礼の部屋に入ってきた、部屋の暖かさにひかれ座り込んだ。彼の麻痺の手をとると冷え切っている、さすってやるとニコッと笑ってくれた。背中に手をあてると麻痺の側が硬い、さすってあげると静かに坐っている。さする手をとめるともっとせいとシグナルをおくってくる(言語に障害ある)、さすりつつ指圧するうち居眠りが始まった。もっと療法に専門の知識技能があればと考えながら、その後も何回か背中をさすり手当てをしてあげた。その都度嬉しそうだった。今は天界で苦も無く極楽の日々を送っていると思う。心から平安をお祈りします。
秋深く
冬に耐える
言語障害のみよちゃん
好き嫌いが激しく、それは食べ物も人間も・・・・。自分の意思が伝わらんと、泣き、つつき八つ当たりする、物言わぬ彼女の思いを汲み取れたら落ちつくとおもう。
私を敬遠するたかゆき君
この頃私から離れている、気がつくと傍におらず独り何かごそごそしている。最近は彼の顔を見て語らい、かまってあげず世話もしていない、生活上の介護もいらず手のかからない高之君に安心して、他の者に向いてしまっている私であったと思う。近くに子どもがいないのは淋しい、ほったらかしにしたことを反省する。
多動のせいご君
暖房機をいじくって指先を怪我して、すでに化膿し膨れ上がっている。外科医に連れて行くが、暴れまくり大声をあげて抵抗する、付き添いの職員とお医者さんが汗ダクダクの奮闘をして治療を終えた。指の包帯がいつの間にやら泥だらけ、回復が進まず担任泣かせのつわものでした。
さとみさんの帰省
おしゃべり大好き、投薬の抑制でスローテンポながら動き回ること大好きなさとみさんが、嬉しそうに帰省で帰ります。客車の中に入ると大声でしゃべりまくり、歌いまくり、動き回ります。
お母さんはデッキに立って彼女をおもりして長い時間過ごします。大変な苦労の帰省ですが我が子のため欠かさず迎えにきてくれました。お母さんご苦労さまでした。
対外活動、交流、奉仕、作品展
東京都立清瀬養護学校の職員生徒さんがはるば就学旅行先に落穂寮を選んで、交流学習を計画され訪問された、かってない出来事に感激し全寮あげて歓迎のプログラムを用意し送迎することができました
石部の老人クラブの高齢の皆さんが奉仕作業の農耕、清掃、繕いなどの奉仕作業が続けられ寮生の行事にも参加いただいたが、すぐる年クラブ活動終息とともに終了した。
京都府下の網野高校生が就学旅行の計画に、落穂寮の児童棟ホールの壁面に必要な用具経費持込で童画を描いて、寮生の日日に明るい夢の世界を提供するため3日間、宿泊先のビジネスホテルから通って夢の童画を完成された。近頃嬉しく有難く心からお礼申し上げます。
退寮とお別れ
湖北、湖東に新しい更生施設が誕生し、両地区出身の寮生が転出、また日野、マキノ、石部,野洲の福祉施設に転出し、お馴染みの20余名が退寮し逐次新人が入寮してきた。
また、せっかく落穂寮の生活に慣れ成長と明日への夢と希望に向って歩まんとしていたのに、病に倒れ永のお別れとなったことは、かえすがえすも悲しく、残念でたまりません。ご遺族の心中を慮るとお慰めする言葉もありません。洋介君、恭三君心からご平安をお祈り申しあげます。