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               思いつくままに   
          葉

メニュ-
愛情は「キャッチボール
ゆがむオルガン
純愛 と 恋愛妄想
「腰痛放浪記 椅子がこわい」(夏樹静子著)の感想

鎌田實先生のお話
自己愛なるもの
森田療法学会の課題
診察室前の水槽のエンゼルフィシュが孵化

ひとりでいる能力
深催眠にかかる人
老年期心身症の治療
睡眠薬服用への不安

梅雨と心身症

 
アクセス5000記念の創作お話ひとつ(1999)




 愛情はキャッチボール
 

 会社員のA子さん(24歳)は、数ヶ月前に大学を卒業し新入社員になりました。仕事に慣れるのに忙しい折、上司からきつく叱られたことをキッカケに、会社に行く意欲がなくなってしまいました。その頃から、ひとりで部屋に居るときリストカットをするようになり、左腕に何本もの切り傷の跡が残っています。A子さんは、診察室で職場の上司への不満を語るうちに、自分を育ててくれた父親に愛情がみられない、という過去について語り始めました。上司と父が、A子さんの心の中で二重映しにだぶって見えたのです。
 A子さんの話をまとめるとこうなります。どのような状況だったのか分からないが、中学生のとき父に「お前なんか死んでしまえ」と怒鳴られました。その言葉に強いショックを受けたA子さんは、以後父からの愛情を感じることもなく、なにかにつけて父に反感をもつようになりました。A子さんの話に耳を傾けているうちに、私の心には、A子さんの父親は昔風の頑固おやじだというイメージが浮かびました。24歳になった今でもA子さんは、父親の性格が好きになれず、あまり口もきかない状態でした。

 しかしA子さんは、一般的な普通の家庭環境で育てられ、大きな病気をすることもなく大学まで卒業させてもらいました。両親の保護の下でそれなりに大きくなられたという事実があります。また父親はとても実直な会社員でした。なのに、娘A子さんと父親の間に横たわる、現在まで続く気まずい関係。これはいったい、どういうことなのでしょうか。単に相性が合わないと片付けるだけでは、平行線のままであり「心理治療」にもなりません。

さて、人が他者からの愛情を、愛情として享受するにはいくつかの要素が必要です。要約すると次の3つです。解りやすいようにキャッチボールにたとえて書いてみましょう。

@ 愛情(ボール)が、実際に存在すること

 A 相手が愛情の表現がうまいこと(いいピッチャーである

 B 自分が愛情を受けるのがうまいこと(いいキャッチャーである

愛情は、その送り手と受け手の間で行われるキャッチボールのようなものです。どんなに深い愛情(ボール)があっても、それを受け手がキャッチできるところに投げなければ、相手は愛情を全く感じることができません。つまりA番の状態が必要なのです。

次に、どんなに上手に愛情のボールが投げられても、それを受けるべき本人がキャッチする能力に欠けていれば、やはり本人は愛情を感じることができません。これはB番の課題に当たります。

A子さんの場合にあてはめてみますと、@番のように父親からの愛情が実際になかったと解するのは、どう考えても不自然です。A番のように父親の愛情表現が下手であったのか、あるいはB番のようにA子さんがうまいキャッチャーでなかったのではないかと推測されるのです。

A子さんの父親は、仕事を終え家に帰ってからよくお酒をのまれていました。酒に酔うと大きな声で家族を怒鳴ることが少なくなかったといいます。いわゆる酒癖が悪いお父さんであったようです。しかし家族のために一生懸命働いていたお父さんに、家族への愛情がなかったとは思えません。

要するに、A子さんの父親は、愛情表現が下手な人であったのです。父親の下手な投球は、A子さんの座るゾーンにうまく入りませんでした。逆に、A子さんからすると、どんなに待っても父からのボールはひとつも見当たらないということになっていたのです。しかし、ボール(愛情)はきちんと、そのとき、そこに在ったのです。ただA子さんの父親は、愛情をストレートに表現することができず、酒を飲むことで淋しさを紛らわせるという、愛情のキャッチボールに関して不器用な人だったのです。その後、いろいろな家庭の話をA子さんとしていくなかで、やがてA子さんは、父親が実は愛情表現の下手なピッチャーであったと解るようになりました。そして、A子さん自身も愛情のうまいキャッチャーではなかった可能性があると考え始めました。

 現在や過去に、自分が周囲から愛情をどれだけ得ていたのか。家庭内の愛情に限らず、職場での人間関係や友情を考えるときも、以上のように「愛情はキャッチボール」という見方が役立つと思います。そして、キャッチボールというものは、ボールを受けたキャッチャーもまたピッチャーに向かって上手なボールを投げ返さないと続けられないものです
 ボールをストライクゾーンに投げる難しさ。そして、速球やカーブを受ける難しさ。ピッチングが個性的であるように、愛情にも人によっていろんな形の表現があります。そのことに思いをめぐらすと、愛情のボールがもっと鮮明に見えてくるのかもしれません。



  ゆがむオルガン(空の巣症候群

50歳になった主婦のA子さん。ある日、久しぶりに家のオルガンを奏でようとイスに座りました。するとオルガンのケン盤がゆがんで見えるのです。驚いたA子さんは周囲を見回しましたが、なぜかオルガンのケン盤だけがゆがんで見えるのでした。
 A子さんは心配になり、夫や娘に相談しました。しかし家族は、気のせいだと言って全く相手にしてくれません。その後も、オルガンのケン盤はいつもゆがんで見えました。そのため病院で目の検査をしましたが異常は見つかりませんでした。そのうちA子さんは、不眠や疲労感にも悩むようになりました。その原因も医学的に不明でした。更年期の治療も効果がありませんでした。A子さんは、知人のすすめで心療内科を受診しました。
 以下は、A子さんとの診察室(心療内科)での問答の抜粋です。
   ・・・・・・・・・・・・・・
 「あなたは、いつオルガンをひくのですか?」
 「暇なときです」
 「どんなとき、暇になるのですか?」
 「夫は休日にゴルフに出かけるし、娘もひとり自分の時間を楽しむようになってしまい、話し相手がいないとき暇になりオルガンをひきます」
 「そんなときは、どんな気持ちでオルガンをひくのですか?」
「昔と違って、子供も大きくなったし、最近はみんな自分の時間を楽しんでいるようで。私ひとり取り残された気分でひきます」
「オルガンを積極的に楽しんでいる状態ではないようですね」
「淋しいからオルガンに向かうんです。本当はオルガンをひくのではなく、もっと家族と会話をしたり、一緒に出かけたりしたいのです・・・・・・」
    ・・・・・・・・・・・・・・
 こんな会話を繰り返すなかで、やがてA子さんと私は、オルガンがゆがむ意味を理解しました。ゆがむケン盤は、孤独から逃げるようにオルガンに向かうA子さんの心の葛藤を象徴するものでした。昔のように家族と親しく向き合いたいA子さんにとって、オルガンはただの「ゆがんだ物」でしかなかったのです。
 「空の巣症候群」という言葉があります。子供が成長し親から巣立っていく時期に、生き甲斐を見失いポッカリあいた親の空しい心を表しています。子供が精神的に独立し、経済的にも安定する中年後期。いったい自分になんの不満があるのか? A子さんが自らの胸中を理解することは容易ではありませんでした。ゆがむケン盤は、そんなA子さんの心の葛藤を理解する道しるべになりました。

    
【 身体言語 】
 
心療内科を受診する患者さんの症状はさまざまですが、注意深く観察すると、その背後にしばしば多くの意味が隠されています。個性的な身体症状が、その人の何を表現し物語っているのか。身体症状が語る言葉を、心療内科では「身体言語」と呼んでいます。身体言語は、本人も理解しえない心の奥底を代弁していることがあります。その奥深い意味を家族や治療者が聞き分け、患者さんとともに理解することが治療にとって大切です。
 「身体言語」は、その名の通り、身体症状を介した他者との会話手段です。ただし身体言語は、本来の言葉でないため、周囲の人に多くの誤解や不快感を与える厄介物です。ときに「仮病」扱いされてしまうこともあります。
  治療では、誤解されやすい「身体言語」を、本来の「言葉による言語」に置き換えさせる作業(症状の言語化)がメインになります。と言っても、これは容易な作業ではありません。症状の言語化とは、秘められた心の葛藤を直視していく作業に他ならないからです。



   純愛 と 恋愛妄想

  ある少年がある少女に恋をした。少年は、少女の動く姿、話す声、表情などに恋心をつのらせる。まさに「あばたもエクボ」の言葉どおりに・・・・・・。普通なら欠点となるような少女のワガママも、少年の脳裏には神秘的な魅力として受け入れられる。
  かくして少年の頭に描かれた完璧な理想の少女像が、現実の少女に重ねられ、少年はますます少女への熱烈な愛を肥大させる。これはいわゆる純愛の典型だろう。考えようによっては、純愛とは純度過剰による妄想のようなものかもしれない。少年の理想に合わない部分は、容赦なく魅力的な何かに変形される。そのプロセスこそが恋愛の純化、すなわち純愛と呼ばれる所以だ。そこでは一般に、少年の純愛を妄想と規定することもない。「純粋な少年による、ひたすら前向きな純愛である」と定義されるのが人間的な解釈だろう。
  一方、ある少年がある少女に「自分は強く愛されているに違いない」と、事実に反して思い込む場合はどうか。少年は、自分の動く姿、話す声、表情などすべてが少女に愛されているに違いないと感じる。彼女がこちらを見るちょっとした眼差しを根拠に、自分はとても愛されているのだという信念が構築される。このような場合は往々に、病的なものとする解釈がなされ、「恋愛妄想」というレッテルが貼られやすい。
  どちらも、少女をターゲットとした、少年の純粋ゆえに構築された精神世界なのだ。しかし一方は「純愛」であり、もう一方は「恋愛妄想」として区別される傾向にある。
 恋愛とは、総じて妄想的なものである。妄想であろうとなかろうと、それが生きる希望につながる程度のものなら、問題にするほどのことではないのだろう。人は妄想なくして生きられない生物なのかもしれないのだから。


 「腰痛放浪記椅子がこわい」(夏樹静子著)の感想
  
  
先日、新潮文庫から出版されている夏樹静子著「腰痛放浪記 椅子がこわい」を読みました。ひどい痛みのために、椅子にじっと座っておれない。立っているのもつらい。そんな手ごわい症状のため、ありとあらゆる治療者を転々と、それこそ西洋医学の治療から「手かざし」などの民間療法まで受けられた体験談のお話でした。最終的に痛みは、平木英人医師による「絶食療法+森田療法」的な治療によって、満足しうる治療結果に導かれておられます。簡単に筋だけを追いますとそのようなお話です。
  何年もの苦しみの果てに最終的に行きつかれた絶食療法。そのなかで夏樹さんはまず不思議な体験をされます。治療初期のあるときのことです。主治医の平木先生に向かって不信感や怒りを思い切りぶちまけて発散しているとき、あれほど不動の形で体に居座っていた強い痛みが軽くなっていることにフッと気づきます。「こんな激しい疼痛が心因で生じているはずがない」とかたく信じていた彼女にとって、これは不思議な体験であったにちがいありません。怒りを言葉で発散すること(カタルシス)によって、疼痛という身体症状が一時的にせよ忘れるほどに軽くなったのですから。このときから彼女の疼痛に関する自己流の考え方が少し揺らぎ始めたように思われます。その後も絶食療法の効果やご自身の生き方について、著者の夏樹さんは主治医と何度も何度も意見を闘わせます。
  絶食療法では、前半の絶食期がおわると、次に後半の復食期にはいります。復食期では少しずつ食事をとりはじめることになります。このころ脳組織は飢餓状態により、代謝系がケトン体の利用などによって変化せざるをえなくなります。そして、いわゆる意識変容状態(ASC altered state of consciousness)という、被暗示性が高まりやすい精神状況に自然と導かれます。意識変容状態は、物事を見る固定観念の修正に役立ちます。また、絶食による身体、感覚、情動、思考、行動への同時作用的な働きかけが、心身症の治療に有利に作用すると推測されているのです。
 絶食療法は、その名のとおり、何日も(多くは10日間)心身をつらい絶食の状態に置きます。それゆえ患者さんのみならず治療者にとっても、外科手術に匹敵するほどの覚悟や責任性を必要とされるものです。つらい思いを患者さんにさせた後で、『 結局あなたには向きませんでしたね 』とは片付けられない。そのような真剣さが絶食療法の治療の場には漂っています。
  実は私自身も九州大学付属病院で、心身症患者さん相手に絶食療法を治療にとりいれていました。その効果について医学会で何度か発表させていただきました。不思議なことに、人間関係のストレスに耐えられず心身症になっておられる人達には、絶食という身体的ストレスは案外耐えられる方が多いようでした。人それぞれ耐え易いストレスの種類に差があるのでしょう。
  絶食とは、「食べることをしない」ことです。つまり「しない、ということをする」と言ってもいいでしょう。他の多くの治療法が「何かをする」ことであるのに対して、この「しない」という方向性だけを取り上げても、ユニークな治療法だと言わざるをえません。私事で恐縮ですが、この「腰痛放浪記椅子がこわい」の本の206ページに引用文献として書かれている絶食療法の奏功機序は、私が九州大学の勤務時代に研修医の教育用に考察したオリジナルの文章でした。(本の中では、何故か東北大のS元教授の文章の引用となってますが・・・?) いずれにしても、このような有名な本のなかで自分のオリジナルな文章に出会えることは光栄のいたりです。
  絶食療法では、症状という重大課題と、絶食療法というダイナミックな治療法を仲立ちに、患者さんと治療者が正面から向き合うことになります。そのため日ごろ感じとれない病の意味や人間関係のあり方に、多くの気づきがもたらされやすくなります。また病のために自己卑下的になりがちな感性は、絶食という「苦行」を終えた成就感によって、自己信頼感を回復する契機になります。つまり絶食療法 fasting therapy (断食)は、自己変革を認識しやすい『イニシエーションの舞台としても機能しているようです。
  夏樹さんの絶食療法の主治医であった平木先生とは、私が福岡にいるとき『高齢者の便秘というテーマで医学雑誌に連名で論文を書いたことがありました。それは私が医師になって最初に書いた医学論文でした。25年位前の話ですが・・・・・・。
  というわけで、この小さな文庫本のなかには私にとって懐かしいものが宝探しのように埋まっていました。それゆえこんな『読書感想文(?)を書きたくなったのです。


                             
  鎌田實先生のお話
(2006.1.)

  第10回心療内科学会が、さる1月中旬に東京で開かれました。今回は、本学会がNPO法人となった記念すべき時期のものでした。その記念として、チェルノブイリの被災児たちに支援活動を精力的に行われた鎌田實先生(諏訪中央病院名誉院長)が特別講演(市民講座)をされました。その中で、とくに記憶に残ったお話について述べたいと思います。
  鎌田先生はチェルノブイリで11人の白血病の子供にかかわられました。残念ながら、そのうちひとりが熱心なご治療にもかかわらず亡くなられたそうです。治療の中で、その子はしだいに食欲もなくなり、ほとんど何も食べられなくなりました。あるとき、ひとりの日本のナースが、その子に、何が食べられそうかと尋ねました。その子は「昔一度食べたことのあるパイナップルを食べたい」と答えたそうです。その言葉を聞いたナースは、すぐに夜の町にでかけました。ひとりで真冬の町中を「パイナップルはありませんか?」と一軒一軒店を尋ね歩かれたそうです。冬のロシアに、パイナップルなど売ってるはずがありません。しかし、日本のナースがパイナップルを夜中探し回っているという事実を耳にしたある地元の方が、保存していたパイナップルの缶詰をひとつ彼女のもとに届けてくれました。
  まもなく、その子は亡くなりました。鎌田先生の熱心なご治療は無念にも成功しなかったのです。しかし、その子の両親は、一個のパイナップルを求めて真冬の町を駆け回ってくれた日本のナースの姿にとても感動されたそうです。我が子の命はなくなってしまった。しかし、日本人が与えてくれた優しさは決して忘れないと・・・・・・。
  現在の鎌田先生は、緩和医療、いわゆるターミナルケアに全力を注いでおられとのこと。鎌田先生は、この話をされることで「医療の本質」が何であるかを、会場の方々に熱く語られようとしたのでしょう。人は医療を通じて何を得ようとしているのか。医療が人の心に作用し、人の心に残しうるものは何であるのか。ただの美談に終わらせない熱い思いが、鎌田先生の淡々とした口調に感じられました。
  本学会のテーマは『心療内科は世界を変えるでした。その世界とは、本来の世界に加えて、内なる心の世界(インナーワールド)でもあるのだと、そのとき司会者が賛辞を述べ総括されました。その後の私はというと、帰りの新幹線のなかで、「心」という文字の付された医療について思いをはせるも、パイナップルを探し続けたナースの姿がまるで童話の主人公のように心に浮かび、そのまま心地よい眠りに落ちてしまいました。鎌田先生、貴重なご講演ありがとうございました。



  自己愛なるもの

  
【自己愛とは】
 最近、臨床心理学で『自己愛』という言葉がよく使われます。自己愛とは文字どおり愛のひとつの形なのですが、宗教や哲学で論議される形而上的な概念とは少し違って、もっと日常的な「自信につながるエネルギー」と呼べるものです。心療内科の診療で自己愛が重視されやすい理由として、難治性のうつ病や心身症患者さんに、この自己愛がうまく機能してない人が多くみられる事があげられます。
 一例をあげてみましょう。美容師の24歳のA子さんは、元々対人緊張が強く、見栄をはりやすい人でした。数年前母親の急死をきっかけに、何年間も頭痛や微熱などの体調不良で苦しむようになりました。誰でも家族の死によって心身の不調をきたすことは一定期間あるでしょう。それは死者を弔う正常の心理であって、悲しみを癒すのに必要な喪に服す時期と言えましょう。
 しかしA子さんのように何年もそこからぬけ出せない場合、往々にして自己愛の問題が深く絡みついています。発病前のA子さんは自立した社会人のひとりでした。しかし母親の死を契機に、自分自身の生きる価値が分からなくなり、孤立無援の心境に陥ってしまいました。母親の死がA子さんにそれほど大きな意味をもたらした理由のひとつに、A子さんが幼少期から母親とリラックスした依存関係を体験出来なかったことがあげられます。甘えたいのに甘えられないという子供時代からのジレンマが母親の死を契機に強く意識され始めたのでした。そしてA子さんの元々の対人緊張も、このような他人に甘えたり甘えられたりすることへの恐さと関係がありました。
【他人あっての自己愛】

 
実は自己愛は自分への愛ではあるのですが、他人によって形作られる部分が多いのです。自分の存在を認め、受容し、見守り、暖かく照り返してくれる「鏡」のような他者の一貫した存在。それは意識するしないに関わらず、健康な自己愛(ほどよい自己愛)をはぐくむ礎になります。そして、ほどよい自己愛が心に根づいていないと、何かのキッカケで自分自身の価値や生き甲斐を見失い、自己愛は脆弱化してしまいます。脆弱な自己愛は他人との関係に不安を呼びやすく、他人にしがみつくような依存的態度や、他人の期待通りにしか生きられない操り人形のような『偽りの自己』を肥大化します。アルコール依存症になってしまう人も多いようです。母親の死がA子さんに突きつけた課題は、このような彼女自身の自己愛をめぐる葛藤でした。家族の死にかぎらず、定年での仕事の喪失、受験の失敗、失恋など、様々な喪失体験をキッカケに、自己愛は試され危機に直面しやすくなります。傷ついた自己愛は、病気云々というには、あまりに人間的な課題のようです。
 【M・モンローの悲劇】
「モンロー症候群」という言葉をご存じですか? 幼少期、モンローは暖かい家庭に恵まれず脆弱な自己愛を抱えたまま女優に育ちました。人並みはずれた美しさに恵まれた若き日のモンローは、世の羨望と賞賛を一身に受けることができました。しかし年をへるにつれ次第に世間からの注目や賞賛を失い、アルコールと睡眠薬に溺れ、ついに悲劇的な死を迎えました。モンローが年とともに失ったものは、彼女の脆弱な自己愛をなんとか癒してくれる「世間という鏡」だったと言われています。
 今夜、鏡の前の貴方はどうでしょう。その顔がなんとなくにこにこしているようだったら、ひとまず自己愛がうまく機能していると考え、隣人にも思いをはせてみようではありませんか


        


  森田療法学会の課題

 さる10月下旬、札幌で第18回森田療法学会が開かれました。森田療法は森田正馬という医師が構築した日本的な心理療法ですが、しだいに中国やヨーロッパなど他国でも注目されるようになりました。心理療法といえば、精神分析や認知行動療法、ロジャーズのカウンセリング技法などもっぱら輸入超過ですが、森田療法は数少ない日本発信の治療法ということになります。
 ところで森田療法は「不問」「目的本意」などの言葉が示すように、一定の厳しさや勇気を必要とする治療法です。たとえば、7日間の絶対臥褥という治療期間が設けられており、その間は自由に歩き回る事は禁止で、ひたすらベッドでの臥床を命じられます。本来、森田療法は高い理想自己をもつ故に自己に厳しくなりがちな森田神経質という状態にある青年層に用いられることが多い治療です。ところが近年この森田療法がうまく行えない病的な若者がふえたと言われます。たとえば、絶対臥褥の厳しいルールが守れない、治療意欲を維持できない、治療の場にとけ込めず治療関係が作れないといったケースが増え、森田療法の原法を様々に変えざるを得ない状況が出現しています。一方、西欧においても、かつてのフロイトの父性的で禁欲的なアプローチから、母子関係を重視する母性的で受容的なアプローチが流行りつつあります。我が国における森田療法もネオモリタとして外来治療を中心とした治療が行われたり、その治療エッセンスが多くの他の受容的治療と併用されたりするようになりました。第18回森田療法学会では、そのような森田療法の抱える今日的な課題とそれへの対応法について多くの議論がかわされました。


      

  わが診察室前の水槽のエンゼルフィシュが孵化

(注:この記事は私が京都南病院に勤務していた頃のものです)

 私の診察室の前においている小さな水槽で、今日2匹のエンゼルが子を孵化させました。エンゼルは非常に知能が高い魚のようで、たとえばガラス越しに飼い主の顔を記憶してくれる事もあるのです。ところでエンゼルフィッシュの仲間は、その育児をマウスブリーダーという方法で行います。マウスブリーダーとは、危険がせまると子供達は親の口内にすばやく逃げ込み、危険が去ると再び口の外に出てくるという興味深い習性の育児方法を言います。エンゼルフィッシュの口があたかもカンガルーの腹袋の役割をしているようです。
 心療内科外来患者さんが、その子育ての姿に目を止められ、「親の口が隠れ家になっている」という親子の不思議な結びつきを観察して戴けたら、飼い主としてこのうえない喜びです。
長い(?)待合時間中に是非ごらんください
        
         

   ひとりでいれる能力

 
これはパーソナリティを扱う精神療法が行われるときに、よく話題になるテーマです。
「ひとりで居れる能力」とは、ひとりで居ながら誰かと居るような安心感を保持でき、逆に誰かと一緒に居る時にあたかもひとりで居るように安定しうる心理的な能力、とも表現されます。そして、ひとりで居れる能力のルーツは、心理学的に乳幼児期の発達課題のひとつと考えられており、様々な現代病を考察する際のキーワードとも言える重要な視点なのです。
 人は乳幼児期に、喚起記憶というものを心理的発達ラインに沿って獲得します。これは目の前に存在しないものを想い出す能力といってもよいでしょう。今流行の
アドラー心理学によると、幼児が母の姿を不安になって後追いをするのは、まだこの喚起記憶の未発達によるとされます。喚起記憶が成長とともに発達することで、人は不安な場面で、自由に自分を慰めてくれる「癒やし装置」のスイッチを入れる事ができるようになります。最初は、母の姿を視野に入れる事で「癒やし装置」のスイッチをonにしますが、そのうち母の姿をイメージで想起するだけで、幼児は自分の感情を鎮める事ができるようになるわけです。
 やがて、癒しの根元であった「母そのもの」は、「母なるもの」「母的なもの」に変貌し、母その人のイメージから、その人固有の修飾された「癒やし装置」を内界に保持するようになります。この「癒やし装置」は、成長の過程で様々な記憶や趣味や生き甲斐とリンクしながら、淋しさや不安を軽減させる作用を発揮するようになります。

 さて、現代の若者達の強迫的とも言える「グループ作り」への専念、そこから疎外されることへの強い恐怖感、そして親達のこれまた強迫的な「子供の友人作り」への関心。これらの現象は、ひとりで居れる能力の時代的な減衰とみなすことも出来るのです。
 内的な「癒やし装置」を充分に保持できず、自らの感情をひとりでコントロールし難い若者は、結局、周囲にいる他人の心を使って自分の感情をコントロールしようとします。この場合、精神分析でいう「投影性同一視」という自己防衛のメカニズムがよく使われます。怒る人は他人を怒らせ、不安な人は他人を不安にさせるという「他人を巻き込む」手法です。要するに辛さや怒りなどの感情を他人に分配することで自らの生き残りをかける、というものでしょう。
 吃音(ドモリ)や赤面恐怖といった森田神経症的な自分一人で悩むタイプの神経症が減少しつつあり、他人巻き込み型の自己愛的病理が社会に蔓延しつつある現象は、やがてより深刻な老年期心身症の一大世代を産むのでしょうか。およそ50年後のことですが。

      

深い催眠にかかる人
 他人の命令に従うような深催眠にかかる人は、日本人のうち四分の一程度と言われます。その他の人は、せいぜい被暗示性が少し高まる程度であり、テレビなどで見せ物的に行われているものは凝った前準備がされているのだろうと推測されます。催眠にかかりやすい人とは、元々被暗示性が高く、他者と信頼関係を結べる能力のある人、警戒心の低い人、性格的に比較的素直な人、催眠にかかりたいという動機の強い人達です。つまり、催眠暗示で「なすがままに暗示に身を委ねましょう」、「心を無にして心身の変化にしたがいましょう」という言葉に、あまり警戒心もなく素直に依存しえる人達です。
 最近、心身症の臨床分野で再び催眠療法が効果的な治療法として見直される動きがあります。これまで催眠療法が医療分野の領域で停滞していた理由のひとつに、催眠が「患者さんの依存心を助長する」という批判が強かったことがあげられます。つまり心理療法とはあくまで本人が本来持っている心の強さを引き出し、本人の自立を促す事が主眼とされます。依存性を助長する催眠療法は、それに逆行した治療であるという批判があったわけです。
 しかし昨今の心理療法全体の流れが、時代の要請ゆえか、依存心というものを以前のように敵視しなくなりました。治療をすすめていくにおいて、依存心は自立心と同等な評価を受けつつあります。教育の分野でも、自立の前段階として依存の段階は不可欠と言われるようになりました。その結果として心身症の臨床分野でも、催眠療法が見直されつつあるわけです。ただ困ったことに、巷に催眠を金儲け一筋に利用したがる「エセ治療者」も再び横行し始めています。実際に、例えば1時間3万円という高額の治療費をとり、その催眠効果はさっぱり駄目という場合が非常に多いようです。

     

老年期心身症の治療
 老年期心身症の特徴として、めまい、不眠、手足のしびれ感、耳鳴りなど頑固に続く身体症状を、周囲の人が辟易するほどクドクド訴えることが少なくありません。いわゆる不定愁訴というものであり、症状の訴えもなにか定まらない印象があります。薬物が有効なこともありますが、多くはそれだけでは満足できる症状改善はみられません。

 薬が有効でないばあいに、症状除去に比較的有効な方法があります。というのは、主治医、カウンセラー、ナース、ケースワーカーなどの誰かがじっくり座り込んで話しを聞いてあげると、不思議なほどに翌日症状が軽快するものなのです。つまりこのような高齢患者さんは、日常生活の中でじっくり話し合う相手がいないことが少なくないのです。そのため一番の話し相手は、「自分の身体」という事態になっているようなのです。「今日の症状のひどさは?」 「明日も症状は強いだろうか?」等々、彼らが「身体」に語りかける言葉は豊富です。そして「身体」の側も必ずそれなりに応答してくれるのです。医療者はそのような本人と「身体」の会話に、タイミングよく井戸端会議的に参加していくことになります。治療者は「心と体の真剣な会話」全体からあふれる行き場のない不安や淋しさを時に丸抱えすることにもなります。治療者は、ある時は心側の理解者となり、ある時は「身体」側の理解者となって、少しづつ心と体が馴染みあい、仲直りするように介入していきます。もちろん、それだけで治療が済むわけではありません。話し相手を「身体」以外に見つけていける環境の調整もしていかねばなりません。背後に、長年の夫婦関係の問題や、親子関係のストレスなど、人生の集大成としての重い課題が未処理のまま横たわっている場合もあります。そこでは患者の蓄積されたプライドや価値観を崩すことなく治療を進める必要があります。
  若者の心身症とは、ひと味違ったアプローチが必要となります。高齢の心身症患者さんは、症状もまた円熟しており、実に手ごわいのです。
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睡眠薬服用への不安
 睡眠薬は害であり癖になるから、と睡眠薬を非常に怖がる患者さんがおられます。薬を飲まないですむなら、その方がいいのは当然です。しかし必要以上に怖がるのも損ではないかと思われます。ある人は多量のビールを睡眠薬がわりに飲むようになりました。睡眠薬の副作用が怖いからアルコールにかえた、というのがその理由でした。はたして、多量のアルコールと常用量の睡眠薬、どちらが身体や脳に悪影響を及ぼすでしょうか? また、どちらの方が癖になりやすいのでしょうか? 
 例えば害に関してならば、心臓や肝臓に対してはどうでしょうか?
 答えは心臓、膵臓、肝臓、消化器、脳など、ほとんどすべての臓器において、アルコールの方が睡眠薬よりも悪影響を及ぼします。「しかし少量のアルコール(1日1合以下)は、かえって寿命を延ばすという医学データーもあるじゃないか・・・・・・」と、さらに反論される方もおられそうです。確かにそれ(1合以下)をずっと守られるなら、アルコールの方がひょっとしたら勝ちかもしれません。なぜならば非常に残念ながら、常用量の睡眠薬が寿命を延ばすかどうかということは、まだ全く研究されていないのですから。 

     


梅雨と心身症

 
梅雨の時期には、心身症患者さんの症状は悪化することが多い。特にうつ状態の患者さんにおいてその傾向が強くあらわれます。原因のひとつに、日照時間の少なさが指摘されています。
 人間に、野生動物としての順応の記憶が刻まれているなら、これはある程度納得しえるものでしょう。なぜなら、日照時間減少や雨は、視界を悪くし、食料供給がし難くなることにつながるからです。食欲が低下し、行動が低下することは、そのままと体内のエネルギー消費を抑え、より少ない獲物で生きるための身体の選択方式と合理的に一致します。つまり、梅雨時の心身の「うつ的な活動低下」は、野生時代の本能が人間の体内に記憶されている証しかもしれません。


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