1.はじめに
済州島は、日本、韓国、中国から隔てられた海に浮かんでいます。
その形状は、メークインを横に寝かせたように素朴です。およそ200万年
前に火山の噴火で作られたそうで、周囲約200キロです。
済州島は、その地理的な事情故に歴史の波に翻弄されてきました。
現在は「東洋のハワイ」などと呼ばれ、観光の島として客を集めています。
わずか3日という短時間の旅で、島の一部を見てきました。
主な見学場所
1:三姓穴 2:済州牧官衛址
3:済州4・3平和記念公園
4:防空壕跡 5:済州陶芸村
6:旧日本軍飛行場跡
7:平和博物館 8:済州窯
2.耽羅国
古代の済州島には、耽羅(タムラ、たんら)国という自立国家が存在した
そうです。しかし小さい島国故、独立を貫くことは不可能でした。百済、新
羅、高麗に順次服属し、李氏朝鮮に併合されました。一時は、日本に押し寄
せてきた元に支配された時代もあったそうです。
←耽羅国発祥の地の碑
↓三聖殿
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日本と耽羅国との国交も、「日本書紀」などに歴史的事実として記されて
います。百済が滅亡(660年)した天智天皇の時代から天武天皇の時代に
かけて、耽羅国から日本へ何度も朝献があり、日本からも使者が送られたそ
うです。
耽羅国の誕生については、三姓穴の神話が残されています。
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男性の三神人が地下の穴から湧
出し、耽羅王国を造りあげた、と
いうものです。
三神人には、東方の碧浪国から三
人の王女が船で送られてきたそう
です。東方の国とは、日本のこと
だと言われているようです。
←三姓穴
3.済州牧官衛址
済州島の行政の中心地だった跡が復元されています。
耽羅王国の時代から李氏朝鮮の時代まで、政治、行政の中心地が現在の済州
市にあったそうです。1991年から1998年にかけて行われた発掘調査
により、朝鮮時代の政庁址が確認され、2002年に復元されたそうです。
←鎮海楼
↓かつての政庁
4.日本軍の施設跡
先に見たように、済州島は日本と中国大陸の中間にあります。
そこで、日中間の往来にあたっては済州島に立ち寄る機会が多くなります。
例えば、日本からの遣唐使が立ち寄ったこともあったようです。
元が日本を攻めたときや、日本軍が中国へ進出したときにも、済州島を足場
にしました。
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第二次世界大戦の末期に、日本
軍は本土を守るための防衛基地を
建設しました。
地下壕の近くに設けられた博物
館には、戦時中に使われた様々な
物品が展示されています。
←平和博物館
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長い迷路のように掘られた地下
壕の一部が保存され、公開されて
います。
←地下壕の入り口
↓地下壕内の将校
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海際にも防空壕が掘られました。
潜水艦の基地だったようです。
ちなみに、韓国は済州島に大規
模な潜水艦基地の建設を2006
年から進めているようです。
←水際の防空壕
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飛行場も作られました。
今は畑に変わっていますが、あちこち
にコンクリート造りの格納庫が残って
います。頑強に作られているので、撤
去しきれなかったのでしょう。
←飛行機の格納庫跡
↓
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ウィキペディア辞典によれば、この格納庫には「掩体壕(えんたいごう)」
という用語が当てられるようです。⇒「掩体壕(えんたいごう)は、航空機
を敵の攻撃から守るための格納庫。」
掩体壕は日本の各地にも残っているそうです。
5.済州島4・3事件
済州島4・3事件とは、終戦後の1948年4月3日のある事件を発端と
して、数万人近い島民が虐殺された、と言われる事件のことです。
終戦に伴って朝鮮半島は南北に分断され、済州島でも左右の対立が起こりま
した。左派の一部武装蜂起を鎮圧するため、多数の島民を無差別に殺害した
事実は、長いこと公に認められていませんでした。
2003年に大統領が正式に謝罪し、1000億ウオンを投じて記念公園
が作られることになったようです。広大な敷地によく整備された施設が用意
されていましたが、訪ねた朝は濃霧で周囲がほとんど見えませんでした。
←平和記念公園の案内図
↓濃霧に包まれた慰霊塔
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慰霊塔内には、犠牲者の名前
が刻まれていました。
ひとつの村で数百人以上も犠牲
になり、住民のほとんどがいな
くなった村もあるようです。
←犠牲者の名前が刻まれた
慰霊塔
事件前に28万人いた島民は、事件後には3万人弱にまで激減したそうで
す。事件の難を逃れようとした済州島民の多くは、日本へ避難あるいは密入
国し、そのまま在日コリアンとなった人も多いそうです。
今でも島を訪ねることをためらっている元島民の在日の人が多いようです。
今回お世話になったガイドさんから、次のような話を聞きました。
「日本から来たお客さんから、ある所で景色を眺めたいので連れて行って欲
しい、と言われました。そこは景色を眺めるような所ではなく、何か様子
がおかしいと思いましたが... その人の親戚の人に出会うことができ
ました。村に一人だけ残っていた親戚で、訪ねてきた人は日本に親戚はい
ない、ということでした。」
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資料館には、事件の詳細を伝える沢山
の資料、パネルなどが展示されていま
した。
←平和記念資料館
↓事件の発端を伝えるパネル
6.済州島の陶芸
今回の旅行は、陶芸仲間による恒例の陶芸研修旅行です。
陶芸見学のひとつ目は「済州窯 火山土陶磁器博物館」でした。
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済州島は火山の島で、全島
が火山岩で覆われています。
どこでも30センチ位掘ると
火山岩が現れるそうです。
ここでは、その火山岩(小
さな軽石)を粉末にして焼き
物を作っています。
←粉砕用ローラー
←済州窯
↓温もりの感じられる作品
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ちなみに、展示棟に隣接してヨンさまグッズのお店がありました。
ヨンさまが「大王四神紀」のロケの時に愛用していたというジープが停まっ
ていました。
次に訪問したのは「済州陶芸村」です。
ここで作られた器は日本でも茶道具として愛用されたそうです。そのためか、
日本人が寛げるような雰囲気が感じられました。
←日本的な雰囲気の展示室
↓火山岩を積み上げた窯
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火山岩を使った陶器は遠赤外線を出すため、水が腐らないそうです。
←水甕などが並んでいる庭
↓
7.おわりに
済州島には大規模な「柱状摂理(ちゅうじょうせつり)」が見られます。
溶岩が急激に冷やされると、柱状に割れ目のある岩ができるそうです。

柱状摂理があるということは、済州
島が火山の噴火によって造られたこと
を裏付ける証拠のひとつです。
今回は残念ながら現場の見学はでき
ませんでした。
←柱状摂理(案内パンフから)
済州島は、三多(石と風と女が多い)と三無(泥棒と乞食と大きな門がな
い)の島だそうです。どの家も火山岩を積み上げた塀で囲まれています。
火山岩を生み出した標高1950メートルの漢拏(ハルラ)山は、韓国の
最高峰だそうです。
←空港から見た漢拏山
↓伝統的家屋(城邑民俗村)
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三姓神話を知って済州島に親近感が増しました。
仮に韓国本土の人が島民に距離を置いているとしても、日本人は親しく接し
なければなりません。かつての王国を築いたのは、日本から嫁いだ3人の王
女の子孫だ、ということですから..。
済州島出身で日本で著名な作家が何人かいますが、私が敬愛しているのは
日本に帰化した美人作家の呉善花(オ・ソンファ)先生です。先生の生地を
訪ねたいと思い、何人かに尋ねてみましたが分かりませんでした。
(散策:2009年2月24〜2月26日)
(脱稿:2009年3月31日)
<ご参考:過去の陶芸研修旅行>
・
台湾 (鶯歌)
・
ソウル(利川陶芸村)
・
釜山 (新羅窯)
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