1.はじめに
陶芸仲間と陶芸研修旅行に出かけました。
恒例の海外旅行ですが、今回はパスポートの要らない海外旅行!で、行先は
沖縄本島です。
レンタカー乗り放題の3泊4日の旅でした。
出かける前に決めていたのは宿泊ホテルだけで、どこを訪ねるかは現地につ
いてから決めよう、といういい加減なフリープランでした。

参加者は9人で、レンタカー2台に分
乗しました。
頑固な年寄りばかりのグループですか
ら、行先を統一するのは期待できません。
陶芸研修だけは全員で行動し、それ以
外は別々でもいいことにしよう、と決め
ました。しかし、ほとんどが脳力に不安
を感じているためか、結果としては全コ
ースを全員で移動しました。
訪問先は左図に記した通りです。
2.陶芸
到着した日の夕方から、早速陶芸の研修です。
ホテルへ行く途中、那覇市内の壺屋焼の一帯を訪ねました。壷屋焼(つぼややき)
は、17世紀末(1682年)に琉球王府が3カ所の地方窯を壺屋という地区に
集めたのが起源だそうです。
←石畳の通りが続く壺屋地区
↓赤土を焼いたシーサー
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沖縄の焼き物に使う土は、鉄分の多い赤土が主流のようです。
赤土に釉薬をかけるのと、白化粧を施した上に釉薬をかけるものとに大別さ
れるようです。
←壺屋焼の商品と製作工房
↓
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壷屋地区は那覇市の繁華街に近い場所にあります。
壺屋陶芸会館の近くに車を停めて15分ほど歩き、繁華街の国際通りに出て
沖縄料理を堪能しました。
翌日、読谷村(よみたんそん)の窯元を訪ねました。
嘉手納基地の北に隣接する陶芸村です。大きな窯元が数軒あるようです。
現在の壷屋は市街地となって薪を燃やす穴窯は焚けなくなっていますが、こ
こではゆったりと焚けるようです。
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大きな登り窯がありまし
た。現役だそうです。
←登り窯
壷屋からこちらに移ってきた作陶家もいるようです。
たまたま、伝統的な形にとらわれない作品に取り組んでいる作家さんに出会
いました。大変ユニークで柔軟な思考のお話を拝聴することができました。
←乾燥中の作品
↓ギャラリーから見た外の景色
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折角沖縄に来たのだからシーサーを作ってみたい、と思いました。
やってみよう、という同行者が少なかったのが意外でした。いずれ、形にと
らわれない自分なりのシーサーを作ってみることにします。
3.世界遺産
沖縄の世界遺産を訪ねました。
沖縄には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」という文化遺産があります。
グスクとは、御城のことだそうです。(スク=城)
世界遺産に取り上げられているのは次の通りです。(青色が今回訪問)
・
今帰仁城跡(なきじんじょうあと) ・座喜味城跡
(ざきみじょうあと)
・勝連城跡
(かつれんじょうあと) ・中城城跡
(なかぐすくじょうあと)
・
首里城跡(しゅりじょうあと) ・園比屋武御嶽石門
(そのひゃんうたきいしもん)
・玉陵
(たまうどぅん) ・識名園
(しきなえん) ・
斎場御嶽(せーふぁうたき)
まず、首里城跡を訪ねました。
今回泊まった豪華ホテル!からは、坂道を15分ほど登った所にありました。
←正門への石段
↓
←首里城本殿
↓整列する臣下たち(模型)
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石の階段と本殿の石垣に、六角形の石が使われていました。
数年前に来たときは気にしなかったのですが、今回はこの形状が気になりま
した。
↓石段 ↓石垣
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柱状節理の形状を思い出したためです。
火山の噴火による溶岩が急速に冷やされるとき、柱状に固まるそうで、柱状
節理と呼ばれています。柱状節理は五角柱状や四角柱状のものもありますが、
六角柱状のものが多いようです。

もしかしたら、首里城で六角形の石
が積まれているのは、柱状節理にヒン
トを得たのかも知れません。
ネットで調べてみると、沖縄でも
柱状節理を見ることができます。
←奥武島の畳石(沖縄県久米島町)
(Wikipediaの「柱状節理」より)
ご参考;私が柱状節理を追った記事 ⇒ ・
山口県 ・
済州島
次に、今帰仁城跡
(なきじんじょうあと) を訪ねました。
今帰仁城が築かれた時代は明確ではないようですが、14世紀〜15世紀初
めにかけ、島の北部を統治する城として使われたようです。
長い石積みの城壁が連なり、その一部には万里の長城に似た通路が設けら
れていました。
←長い石積みの城壁
↓
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城は海抜100m位の丘の上にあり、一方は深い谷に面しています。
彼方には青い海を見下ろすことができます。
←遥かに海を見下ろす
↓
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城跡一帯が絶え間のない音に包まれていました。
蝉の鳴き声だそうです。ケンケンケンというような、やや金属音に近い感じ
の音でした。奄美大島に多く生息するツクツクボウシ属のオオシマゼミで、
沖縄本島では北部だけに生息するそうです。10月に最も多く現れるという
ことでした。
←オオシマゼミ
↓中城城跡(車窓から撮影)
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琉球王国(1429年〜1870年)は祭政一致の国だったそうです。
国王による統治と並び、聞得大君(きこえおおきみ)という神女で運営され
たようです。聞得大君は王国を霊的に守護する神事を担う最高権力者でした。
琉球王国を舞台にした時代劇「テンペスト」というNHKのドラマでは、王
に並ぶ聞得大君の存在が描かれていました。
島の南東部に琉球王国の聖地があります。
斎場御嶽(せーふぁうたき)という、琉球王国最高の聖地だそうです。
←斎場御嶽
↓斎場御嶽近くの通路
4.戦跡
那覇空港の東、直線距離で3Kmほどの位置に海軍壕公園があります。
標高74mの丘の地下に、大日本帝国海軍が築いた地下壕が残っています。
第二次世界大戦で日本の敗色が濃くなった1944年(昭和19年)、沖
縄の小禄飛行場(後の那覇空港)を守るための防空壕が建設されました。
←海軍慰霊之塔
↓那覇方面を見下ろす
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司令部壕は1944年8月10日に着工され、同年12月に完成しました。
海軍第226設営隊の約3,000名が設営にあたり、ほとんどの工事はつ
るはしなどを用いた手作業で行われたそうです。海軍司令部壕は最高軍事機
密であったため、工事は軍隊の手のみによって行われたそうです。
坑道は全長450mで、現在300mが公開されています。
←手掘りの跡が残っている通路
↓部屋
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1945年(昭和20年)6月、司令部壕は陥落しました。
←司令官室
↓自決に使った手榴弾の跡が残る
幕僚室
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陥落を目前にして、太田司令官は「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を上奏し
ました。戦争に巻き込まれた人々の惨状を細かく述べた上で、「県民ニ対シ
後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結んでいます。
5.美ら海
沖縄へ行くからには、澄んだ海を眺めたいものだ、と願っていました。
残念ながら、台風が近づきつつあったため、曇りがちの日ばかりで青い海を
堪能することはできませんでした。
それでも、青く澄んだ海を少しは眺めることができました。
←古宇利島にて
↓
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島の南東部にある斎場御嶽を訪ねたとき、澄み切った知念の海を眺めるこ
とができました。高台のレストランから見下ろした海もきれいでした。
←知念の海
↓
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青い海は、島で起こった出来事も時間も、全て飲み込んでしまっているよ
うに穏やかです。戦争の犠牲になった沢山の人たちの声は、どこに行ったの
でしょうか。
5年前に訪ねた時の句:
わだつみの声を沈めて春の海 てる爺
6.おわりに
沖縄から帰宅した夜、国際通りの今昔を紹介するテレビ番組を見ました。
廃墟と化した那覇を復興する工夫として、映画館を建設して人を集めようと
考えた人がいたそうです。映画館は「国際劇場」と名付けられ、これが「国
際通り」という名称を生んだそうです。
国際通りに近い楽器屋さんで、沖縄独特の横笛を見かけました。
篠笛や龍笛などの横笛は、歌口と指穴が一直線上に配置されています。それ
が当然と思っていましたが、見かけた横笛は一直線上に並んでいませんでし
た。閉店間際だったので、もう一度国際通りまで足を延ばしたい、と思いま
したが、結局行けませんでした。
今回は慣れない土地をレンタカーで動きました。
いい歳こいて、と笑われるような事故はなく、無事に帰国?できたのは幸い
でした。朝散歩に出かけたグループが道に迷ったり、高速道路では出口を間
違えたり、履いてきた靴の色を忘れた者がいたり、などのハプニングがあり
ましたが、これは思い出作りのためのご愛嬌でした。折角だから1か月位泊
まって来なさい、と奥様に申し渡された仲間がいましたが、世話をしてくれ
るオンナが見つかるハズもなく、うつむきながら帰ってきました。
(散策:2012年10月9日〜10月12日)
(脱稿:2012年10月25日)
参考図書・
琉球王国
高良 倉吉 岩波新書
・
図説 沖縄の戦い
森山康平 河出書房新社
・
沖縄県民斯ク戦ヘリ―大田實海軍中将一家の昭和史
田村洋三
光人社NF文庫
・
沖縄の島守―内務官僚かく戦えり
田村洋三 中公文庫
・
沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実
曽野綾子 WAC
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