育ち合う教育学研究室の基本理念

SKIPします。
1.学校 2.子ども 3.教職員

1.学 校

子どもたちは学ぶために学校へやってきます。

私たちの国、にっぽんのことばである日本語を学び、その日本語を使って私たち人類が何千年もかかってつくりあげてきた文化や、ものの見方、考え方を学び、そして、よりしあわせな未来と世界を作り上げるために子どもたちは学校へやってきます。

学校には教職員がいます。

教職員はかしこくて、やさしくて、たくましい人間を育てるために、私たちの社会と国と人類がもっとしあわせになるために、私たち大人を乗り越えて進んでくれる子どもを育てるために学校にいます。

学校は日本社会のなかで、もっとも希望にあふれ、自由と民主主義が育てられ、保障される場所です。そのような場所であるからこそ、どの子にも、豊かで全面的な発達を保障することができるのです。文部科学省や教育委員会は、そういう学校になるためのさまざまな条件を整えられるためにつくられた役所です。

こうした教育基本法の理念のもとに出発して63年、日本の学校は、今、どうなっているのでしょうか。

学校での「いじめ」を苦に自殺する子どもが、勉強や進路、人間関係に不安を感じ、自殺する子どもは学校に行きたくとも行けない、不登校、登校拒否児童・生徒が13万人を超えています。 これらに象徴される異常な事態は、子どもにだけあらわれているのではありません。教職員の超過労働時間は過労死ラインに迫っているという調査結果や、教職員の精神性疾患の増加が顕著になってきています。

いまや学校は、教職員と子どもが教え、教えられ、学び、学び合う中で、お互いがより豊かな人間形成をしていく場ではなくなりつつあります。

こうした状態は、学校が次第に国民のものではなくなりつつあるということです。

私たちは、どんなに苦しく、つらくても、けなげにがんばっている子どもたちのために、現在のこうした状態を断ちきって、国民の教育権を回復し、学校を真に国民のものにしていく努力をしなければなりません。

2.子ども

教室は、「主権者を育てる」場です。その教室は今、どうなっているのでしょうか。

教室の中は、何事につけ「できる子・できない子」「早い子・遅い子」などという価値基準が優先され、競争原理で動かされています。

 

子どもたちは、そんな教室は「おもしろくない」し「おかしい」「いやだ」と思っています。しかし表向きには不満があってもあきらめ、教師や親や周りのものと規則に「従順」で「無批判」な子どもにさせられています。こんな子どもが管理教育のもとでは、「よい子像」となり、教師と親、大人社会が無意識のうちにそれを押しつけています。儲け主義の企業と学歴社会をおおう競争原理・能力主義と管理主義が教育の世界に浸潤してきた結果だといえます。「いじめ」問題、不登校・登校拒否などの現象は、子どもたちのそれへの無言の反発、抵抗、人権を要求する抗議だともいえます。

教育が子どもたちの行動や、ものの見方、考え方までもしばり、教室が受験学力のための知識の「伝達」の場になれば、子どもたちの主体的な活動は保障されず、活動のエネルギーは萎えさせられ、創造力もすり減っていくに違いありません。このような教室は、「主権者を育てる」場とはいえません。

 

これに対し、一面的な「学校的価値」に支配されず、一方的な「価値の押し付け」のない、自由で自主的、民主的な教室を子どもたちは望んでいます。そうした教室をつくっていくために、教師と子どもたち相互が積極的に働きかけ、問題意識を誘発し合い、相互の援助と協力によってお互いの可能性を最大限に伸ばしていくための創造的な教育活動が求められています。

人間的成長を願う教育ならば、一日も早く管理教育がつくりだした「よい子像」からぬけだし、教育を「管理・伝達」の場から「創造」の場に転換していかなければなりません。そうした教室の中での生活と学習が、人権認識を形成し、主権者を育てる教育実践の基礎・基本です。

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3.教職員

今日の、教育の危機的な状況は、日本社会の危機の反映であるといえます。直接的には文部科学省の教育政策に起因することは明らかです。それは、学習指導要領が改訂されるたびに、教育の自由が奪われ、子どもたちが希望をなくしてきた様子からも容易に理解できることです。 とりわけ、「落ちこぼれ」という言葉に象徴される、子どもたちの学力低下が社会問題となって以来、教職員は、今まで経験したことのない、子どもの「崩れ」に直面することになりました。

子どもたちの「崩れ」によるさまざまな否定的事象の大きな原因は長期にわたる政治的、社会的諸矛盾の加速度的な進行がもたらしたものであることは明らかです。財界がつくりだした日本社会の「競争原理」と「管理主義」を教育に持ち込んだ「中教審・臨教審路線」、そこからうみだされた人間疎外状況が子どもたちの心と体を侵食しつづけてきたのです。こういう悪条件が程度の差はあってもすべての子どもの上におおいかぶさって、さまざまな発達の「おくれ」や「ゆがみ」、つまり「崩れ現象」をもたらしているのです。

しかしながら、そうだからといって、私たち教職員は、学校がかかえる矛盾や困難、特に、子どもの学習と生活指導にかかわる問題については、教育政策の誤りとして責任を回避することはできません。困難ななかでも、いや困難だからこそ「子どもを守り、すべての子どもを主権者として育てる」ことが重要になります。

なぜなら、日常的に子どもたちに接しているのは私たち教職員です。私たちこそが子どもを歪んだ教育政策から守ることができる存在であるからです。「子どもを守り、すべての子どもを主権者として育てる」ということは権力主義的な上からの支配を子どもにおよぼさない教育活動を進めていくことを意味します。

これは容易なことではありません。とりわけ、学校5日制の下での多忙化は、教職員相互が支え合う関係をつくりにくくしています。民主的な教育実践を進めるための教師集団、・教育集団づくりが極めてむずかしい状況になっています。教育行政は、教育実践にまで管理・統制を強めています。さらに、教師の世界は、一般的に「あらねばならない」「しなくてはならない」という規範性の強い社会です。企業社会化傾向が強まる教育現場のなかで、要領よく無難に、という教職員の志向も増幅させられています。

こうした困難な状況の中でも、私たちは「はじめに子どもありき」を合言葉に、教職員集団の共同した実践と研究をすすめてきた経験と成果をもっています。

教職に生きる私たちは、今一度、この「はじめに子どもありき」を胸に刻みながら、私たちの本来の役割を仲間や父母とともに知恵と力を合わせて果たしていかなければならないと考えます。

  
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