戸鉄紀行 No.3〜東戸棚にBaldwin機を求めて〜

12月5日午後12時。今日も絶好の撮影日和だ。

前日の戸棚機関区訪問の興奮も覚めやらぬまま、我々一行は戸棚市駅の下りホームに佇んでいた。

古典機好きのN君が東戸棚の専用線に残る古典ロコを見に行こうと誘ったのだ。

昨日の戸棚区で見た、C62やD52、D62・・・大型機の姿が未だに強く焼きついているぼくには、

オンボロ古典機なんて・・・という不満があったが、聞けばもう見学の許可と、時間まで指定して貰っているというではないか。

まだまだ本線筋で撮りたいカマは沢山有るのに・・・やや後ろ髪を引かれる思いで下り列車に乗り込んだ。

上野から来た下り鈍行の牽引機EF80が切り離される。すぐに発車するよ、という仲間の声を無視して、ぼくはカメラを抱えて先頭車輌に走った。

「59だ!」やって来たのは昨日機関区で会えなかったC5990号機。10月の盛岡電化で仙台から移ってきた2輌のC59の片割れだ。

シールドビームに火の粉止めといった、仙台時代の装備そのままの姿ではあるが、ナンバープレートは早くも戸棚区のシンボルカラー、

緑の地色に塗られている。昨日戸棚区の片隅で見た2輌の「最後のC51」を廃車に追いやった張本人でもあるのだが、今や貴重なC59である。

ぼくは夢中でシャッターを切りまくった。と、すぐさま汽笛一声。ガクンと客車が動き出した。慌ててデッキに飛び乗ったのは言うまでもない。

 

しばしC59の「走り」を堪能した後、列車は早くも東戸棚の駅に到着した。

ホームに降り立ったのは我々を含めてわずか5人。これが朝のラッシュなら工場従業員たちで埋め尽くされているところだろうが、

いかんせんそれ以外に用のない・・・周りに住宅地などない・・・駅であるがゆえ、昼間の乗降などこの程度なのかも知れない。

ホームからは広大な貨物ヤードが見渡せる。黒い貨車たちに混じって、入れ換え機が奮闘している姿が見られる。てっきり9600や8620が

主役だと思っていたが、それらの姿はなく、C11やC50、なかにはD51までもが動員されてこれらの任にあたっていた。

機関車の動向に詳しいSさんの話によれば、ここ数年で他区からの転入により以前からの「生え抜き」機関車は大半が消えてしまったのだという。

成る程、そう言われてみれば昔、田端や大宮で見たナンバーがちらほらと目に付く。各地から無煙化で余剰となった機関車がここ戸棚区に

集められ、大正以来のC51やD50、8620、9600はことごとく廃車や転属となってしまった。その結果がこの有様だという。

Sさんがポツリとつぶやいた。「ここも完全電化が近いから、いまいるカマもいつまで見られるかわからんけどねぇ。」

ED75の増備が順調に進めば、この光景もあと2、3年で見られなくなる事だろう。

 

さて、我々は目的地である専用線を目指すべく、改札・・・と言っても、申し訳程度の大きさだったが・・・を出た。周りは線路と工場だらけ。

おまけに入れ換えが頻繁に有るとあっては、さすがに無闇に歩き回るというわけにはいかない。下手にカメラを持ってウロウロしようものなら、

途端に構内係の怒声が飛んできそうだ。目の前で貨車の列を何本かやり過ごして、ようやくN君の言う「待ち合わせ場所」に辿り着いた。

「待ち合わせ場所、と言っても、何も無いじゃないか。」

確かに、国鉄のものとは明らかに異なる、か細い線路が工場の合間を縫って、奥の方に伸びているのは見える。しかし、周りに人の気配は無い。

「まぁ、黙って待ってろって。そのうち・・・」

「ピョーッ」と、細い汽笛が聞こえた。びっくりして目を凝らすと、専用線と思われる線路の向こうから、一目でアメロコとわかる小さな機関車が

やってくるのが見える。専用線の機関車にしてはやけに立派な「3」のナンバープレートを付けた「それ」は、ぼくたち一行の目の前までゴロゴロと

転がってきて・・・止まった。

僕らがあ然としていると、機関車のキャブからヘルメットを被った可愛らしい女性がヒョッコリと姿を見せてこちらに微笑んだ。

「N様のご一行様ですね?お待ちしておりました」

彼女は「岩男産業」の社長令嬢さんだそうだ。社長が多忙な為、代理で案内役をさせて頂くと言う事らしい。

たかが一介のマニヤ連中に何という歓迎ぶりだろう、と思っていたが、N氏の一言で我々の疑問は氷解した。「ここの社長とは昔からの飲み仲間でね・・・」

N氏と令嬢さんが少し会話を交わしてから、我々はこの「列車」で専用線の機関庫へと案内して貰う事になった。「では、後ろの客車にお乗りください。」

ボールドウィン製の機関車の後ろに、一目で元電車と分かる二軸の客車が繋がっていた。どうやらこの工場の職員輸送用の様だ。我々が乗り込むと、

やおら「列車」は工場へ向けて動き出した・・・我々の乗る「客車」を前にした推進運転で。お世辞にも乗り心地は良いとは言えない・・・子供の頃のかすかな

記憶にある、戦争中に乗った有蓋貨車と大差ない・・・が、このわくわくするシチュエーションに我々の会話も自然と弾む。

僕の中にあった、戸棚市を出る時の不満はすっかり吹き飛んでしまっていた。工場に着くまでわずか数キロ、時間にして5分程の道程の専用線であるが、

周囲の景色は目まぐるしく変わっていく。建物の間をすり抜けていくかと思えば、いきなり市道を踏切で渡ったり・・・撮影のポイントには事欠かないだろう。

ここもいいね、あそこもいいんじゃない、などと話しているうちに、「列車」は専用線の終点となる工場内に到着した。

 

客車を切り離して水を飲みにいったボールドウィンの後を僕らは追った。こじんまりした給炭水設備に佇むその姿は実に絵になる。専用線の機関車と言うと

薄汚れて満身創痍、と言った感が有るが、このカマは丁寧に磨き込まれて黒光りすらしている。大正初期に武知鉄道の自社発注機としてアメリカから

輸入され活躍した後、戦後すぐにここ「岩男産業」にやって来たのだと言う。働き場としてはどうやらここが最後の職場となる模様で、国鉄戸棚工場にて

この機関車にとっては最後となるであろう甲検を受けた際、特に念入りに整備され、ペンキ書きから立派な砲金のプレートに付け替えられたのだそうだ。

ナンバープレートが緑地に塗られているのを見て成る程、と納得した。

庫の中に一台、機関車が入っている。気になった僕はN氏に尋ねてみた。「あの機関車、表に出して貰えませんかねぇ。」N氏はさっそく令嬢さんに

問い合わせると「いいですよ」と快く了解を貰えた様だ。給水を終えた3号機が貨車を一台はさんで庫内のカマを引き出しにかかる。

出てきたのは「6号機」。少し昔まで石山の東洋レーヨンに居た機関車と同系列の英国、ダブス製らしい。国鉄で働き、昭和に入って棚上鉄道に移りしばらく

走った後、岩男産業にやって来た、とはN氏の弁。小柄な体躯に空制の装備を備え、いかにもよく働きそうだ・・・と思っていたが、

残念ながら検査予備で殆ど動く事はないと言う。その横に東戸棚から貨車を持ってきた「2号機」が停められ、3号機も整列。なかなか壮観な光景となった。

2号機は汽車会社製の20トンタンク機。同型の30トン機は三井埠頭に居るのを知っていたが20トン機は珍しい。こちらは北丹鉄道で廃車になった後、

棚上鉄道に移ったが小柄過ぎて本線では使いにくいと敬遠され、ここ岩男産業に引き取られた。一応ここでは3号機と並ぶ主力機として働いているそうだ。

出自も経歴も違う三台の機関車が一同に会する姿に、我々の興奮も最高潮に達したのは言うまでもない。

 

楽しい時間はあっという間に過ぎ、ひとしきり撮影を終えた我々は令嬢さんにお礼の言葉と、N氏から社長さんへのささやかな「謝礼」としてワインを一本

(高級なものかは僕には分からなかったが)手渡して工場を後にした。最後にここの列車の走っているところを撮ろう、という事になり「列車」の中から見えた

件の踏切で待ち構える事とした。東戸棚駅へのバスの時間を気にしながら待っていると、あの「ピョー」という汽笛が聞こえ、貨車を従えた3号機が

ゴロゴロとやって来た。残されたわずかな期間の彼らの健闘を祈りつつ、ぼくはシャッターを押した。

(1965年12月5日 記)

 

岩男産業 3号機のモデル紹介へ

トップに戻る