…
 ……
 ………

 いつものように白衣に袖を通す。
 染みついた消毒液の臭いがつんと鼻をつく。
 その裏側に潜む血の匂い―――死の匂い。
 慣れたはずの匂いなのに、嫌悪感は拭いきれない
 わたしは一つため息をついてロッカーを閉めた。
 
 襟を整えながら仕事机に向かう。
 散らかった書類に書かれているのは研究のレポート。
 ―――「永久機関」
 誰がそう名付けたのか、大層なその研究にわたしは携わっている。
 どこかの誰か、恐らくは途方も無い力の権力者―――馬鹿は探せば居るものだ。
 その馬鹿が命じた背徳の所業、人類最高の挑戦。
 いわゆる『永遠の命』の研究。
 
 朽ちない肉体、衰えない脳。
 『永遠の脳』はもう既に完成している。ある一人の天才が完成させたシステム。
 脳の信号を電気化し、人の記憶や知識を『データ』として保存するというものだ。
 
 そして今、もう一つの課題『永遠の肉体』の開発がこの施設で行われている。
 『実験素材』として、多くの人々を虫けらの様に殺しながら。
 
「あまり根を詰めないほうがいいよ、水森君」

 突然後ろから声が聞こえ、わたしの机に小さめのコーヒーカップが置かれた。
 
「―――神條先生」
「うぅむ、先生はやめてくれたまえよ」

 そう云った男性は困った顔で、私の後ろに立っていた。
 永久機関研究施設主任、神條弘耶。
 
「先生は先生です。主任とかリーダーとか、どうにも愛着がわかなくて」
「なんだねそりゃあ…」
「気持ちの問題です」
「はぁ…」

 彼は困ったように髪をかきあげる。
 まるで少年のようだ。
 彼の立場からしてそんなに若くはない筈なのに、矢張りそんな印象を受けてしまう。
 前にそれを彼に告げた時、苦笑しながら実年齢を教えてくれた。
 聞いて、とても驚いた覚えがある。

「まぁ、呼び方はさておき、コーヒーでもどうだね?私の特別ブレンドだ」
「ありがとうございます」

 熱さに注意しながら、置かれたコップを持ち上げて軽くすする。
 香ばしい匂いと一緒に流れ込んでくる苦味のある液体が、胃の中へゆっくりと落ちていく。
 ぼんやりとしていた頭が、覚醒して行くのを感じる。
 
「美味しいです」
「ありがとう、すこし薄めじゃなかったかい?」
「特に感じませんでしたね。香りも損なわれていませんし、味も十分に深みがあって良いと思います」
「ならよかったよ」

 お世辞じゃなく、この人の淹れるコーヒーは本当に美味しい。
 本人曰く『仕事の能率を上げるために飲んでるうちに、かなり種類など詳しくなってしまってね』らしい。
 そう云ってこだわり派ぶっている割に、缶コーヒーが机の上に並んでいる事を私は知っているけど。
 
「先生」
「ん? 
 
 白衣の内側に手を伸ばしかけた彼を、私は強めの口調で呼びとめた。
 
「女性の前での煙草は嫌われますよ」
「むぅ……」

「嫌いかね? 煙草」
「わたしは嫌いじゃないですけど、一般的なマナーの話です」
「君に嫌われなければいい」
「……またそんな心にもないことを云うんですね」

 そうあしらうと、彼は困ったように肩をすくめる。
 そして煙草の変わりにと、机に置いた自分専用のカップに手を伸ばして云った。

「水森君は、いいな」
「え?」

 壁に寄りかかってコーヒーを飲んでいた彼が、突然そんなことを云い出した。
 この人の事だから、どうせ深い意味はないのだろうけど、判っていても動揺してしまう自分がいた。
 
「ここで働く人間には、人間味のないのが多くてね。そりゃあ人間だから笑いもするし怒ったりもするが、その動作に温かみがない。まるでそう決められたからその命令に従っている、そんな印象を受ける」
「…そうでしょうか」
「ああ、少なくとも私はそう感じる。だがその点で君は良い。言葉の一つ一つに温かみがあってね」
「そんな事はないです」

 謙遜でもなんでもなく、本心だった。
 面白いジョークも云えなければ、笑顔が可愛いわけでもない。
 『温かみがある』なんて云われるとは思わなかった。
 
「少なくとも、君との会話は私にはすごく心地よい」
「そう云っていただけると嬉しいです」
「願わくば、君の笑顔が見たいね」
「…キザですね」
「はは、自分でもそう思うよ」

 笑顔。
 わたしの笑顔。
 そういえば、ここ数年笑った事なんてなかった気がする。
 もう顔の筋肉が笑うという形を忘れてしまった気さえする。

「さて」

 わたしの思考を立ちきるように、彼は手をパンと打ち鳴らして壁に寄りかかっていた身を起こす
 
「時間だ。私は行くよ」
「今日は何を?」
「いつも通りさ、解剖だよ」

 明るくそう云った先生の表情ではここからでは見えなかった。
 『永遠に老朽化しない肉体』を造るために、人を切り捌いて、組み立てる。
 悪魔の所業、と誰かが云っていた。神への冒涜、とも。
 そして、神條先生はそんな行為をずっと繰り返している。
 いつも笑顔で『行ってくるよ』なんておどけているけど、いつもそれが終わった後に休憩室で泣きそうな顔をしているのをみたことがある。
 
「頑張って、ください」

 わたしは何を云ってるんだろう。
 もっと気の聞いた事は云えないのか。
 『頑張って』なんて安易な言葉で気持ちが安らぐのなら医者やカウンセラーは要らない。
 でも、きっとこの人は笑顔で云うんだ。

「ありがとう、頑張るよ」
 
 軽く手を振って部屋の外へと向かう。
 ドアを開けて、廊下に出る前にこちらを向いてわたしに云った。
  
「君も頑張って」 
 
 …
 ……わたしの心の固い部分がゆっくりとほぐされていくような感じ。
 この人は―――医者かカウンセラーになるべきじゃないだろうか。
 
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 今日わたしがやる事は書類整理だ。
 いままでに出た研究の結果をまとめていく。
 細かく書き記すべき所は細かく。そうでないところは簡潔に。
 しばらく、部屋にはボールペンを走らせる音だけが響いた。

「ふぅ…」 
 
 いつの間にかその作業に没頭している自分に気付く。
 わたしがまとめたこれらの書類は誰のためのものなんだろう―――なんてことを考えると途端にやる気が失われる。
 時計を見ると丁度切り上げてもよい時間帯だった。多分、もうしばらくしたら勤務時間終了のブザーが鳴るだろう。
 わたしは書きかけのページを雑にまとめて、机の端に置かれたコーヒー。その残りに口をつける。
 すっかり冷え切っていて、美味しくなかった。
  
   
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 ―――神條先生はどうしているだろうか。

 研究室から、施設内にあてがわれた自分の部屋に戻る途中でそんなことが頭を過った。
 いつも『解剖』のあとには辛そうな顔をしているあの人に、わたしは何か出来ないだろうか。
 そんなことを考えながら、休憩室に向かった。
  
 スライド式のドアを開けると、他の部屋とは少し違った空気に包まれる。
 広めに取られた部屋に置かれた木彫りのテーブル、洒落たデザインのカウンター。
 喫茶店、と表現すればピタリと当てはまる気がする。
 殺風景な他の部屋とは一風変わったこの部屋もこの時間は誰も使っていない。
 ゆっくりと部屋を見まわして神條先生を探す。
 ……
 ………見当たらない。
 
 いつもは部屋の隅のテーブルや、カウンターで一人ぼうっとしているのに。
 もう一度室内を見渡して、再度居ない事を確認すると、わたしは身を翻して部屋を出た。
  
「…はぁ」

 夏だというのに、この廊下の空気は冷える。
 休憩室で何か飲んでいけばよかったかもしれない。
 どうでもいい後悔を胸に抱きながら、心当たりのある部屋を探してみたが
 やはりあの人は見つからなかった。
 
「…はぁ」

 何やってるんだろう、わたし。
 疲れて部屋に帰ったんだろう、きっと。
 それならわざわざ部屋まで押しかけるのは無礼というものだろう。 
 …わたしも部屋に戻ろう。
 何度目か判らない、大きなため息をついた。

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 部屋に戻ってベッドに身を投げ出すと、疲れが一気に押し寄せてきた。
 目を閉じれば眠ってしまいそうだ。
 今日したことといえば、書類整理と人探しくらいなのに。
 まだ眠るわけにはいかないので、無理矢理に重い身を起こす。
 …空気の入れ替えをして目を覚まそう。
 そう思って窓の鍵に手をかける。
 窓から見える外の景色は、咲き誇る花と白いベンチ、単調に水を踊らせ続ける噴水。
 気持ち悪いくらいに整えられた”綺麗な景色”に嫌気がさして、眼をそらそうとした時、白いベンチの上に、さっきまで探していたものを視界に捉えた。
 
「神條先生…」

 思わず口に出していた。
 あんなところで何をしているんだろう、そんな疑問より先に別の疑問がわき上がった。
 
―――あれは、誰?

 あの人の目の前に立っている女の子。
 肩までくらいの長さで少しハネた髪。
 全体的に暗くまとめられた、やや地味な衣装。
 でも、遠めに見ても綺麗な顔をしているのは判る。
 ―――部外者、だろうか。
 少なくとも研究員でない事は確かだろうけど。
 私はしばらく二人の会話を見ていた。
 …
 何を喋っているのかは判らないけれど、神條先生はとても安らいだような顔をしていた。
 いつもと全然変わらないようで、どこか違う顔。
 ああ、わたしの見たことのない表情ばかりだ。
 ……
 なんだろう、この気持ち。
 
「…はぁ」

 わたしはまた大きくため息をついて、カーテンを閉めた。
 もう一度ベッドに身を静め、目を閉じる。
 待っていたかのように浮かんでくる、さっきの景色。 
 わたしはそんなもの見たくないのに。
 早く眠ってしまえ。忘れてしまえ。
 なのにちっとも眠れやしない。身体は疲れているはずなのに。
 多分…いやきっと―――コーヒーのせいだ。
 
 あの人が淹れた、コーヒーのせいだ。
 
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