「大丈夫か、水森君」
「はい、すみません…」

 時は巡り、やがて春が来た。
 でもそれは暦の上の事で、実際には春ととても呼べないくらいの寒さで、
 一部では異常気象などとも云われていた。
 そんな風変わりな気温のせいか、わたしは風邪をひいてしまった。
 
「ここのところ、かなり無理をしたんじゃないのか?」

 ―――それはあなたの方だ。
 そう思ったが、黙って頷いた。
 無理、というよりもただ余計な事を考えたくなかっただけなのかもしれないけど。
 
「しばらく休んでおくといい、私も時々見舞いに来る」
「すみません」
「はは、気にしなくていいよ。ただし、私が風邪をひいた時はよろしく頼む」
 
 気をきかせたあの人のジョークに、笑顔で返事ができたなら。
 顔を緩めようとしたけれど、思ったような表情はできなかった。
 
「それじゃ、行くよ。お大事にね」
 
 退出しようとした彼の右手をギュッと握った。
 
「先生」
「ん?」
「わたし、…わたしは―――」

 何を云うつもりなんだろう。
 今更、気持ちを伝えるんだろうか?
 伝えた所で何になる?
 ここから見ていたじゃないか、この人が本当に良い顔をするのは中庭で、あの女の子の前だけで…

 わたしはただの観客なんだ。観客が舞台に上がってはいけないんだ。 
 
「…次に先生が来るまでに、笑顔の練習をしておきます」

 わずかな思考の末に、わたしはそう云った。
 その言葉が意外だったのか、彼は一瞬面食らったようにして、そして笑った。
 
「期待してるよ」

 それは…わたしが窓からずっと見ていた笑顔だったような気がした。
 瞼の裏に焼きついたその像が消えないように、わたしは目を閉じた。
 眠ってしまおう。忘れないように。
 あの笑顔が―――夢に見られたら、とても素敵なのに。

 … 
 ……
 ………

 ―――五月蝿い
 
 漸くまどろみかけた時だった。
 廊下の方が騒がしい。
 どたどたと人が走り抜ける音、怒号、悲鳴。
 行かなきゃ、いけないんだろうか。
 でも今は、寝間着のままだからみっともないし…
 やめておこう。きっと大したことじゃない。
 さっさと眠ろう。
 
 …
 ……
 ………
 
 ―――眠れない。
 
 さっきの騒ぎですっかり目が覚めてしまった。
 ―――あの人の夢を見損ねた。
 そんな下らない事がなんだか腹立たしくて、わたしは暫く意地になって瞳を閉じつづけた。
 やっぱり眠りは訪れなかったけど。
 
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 退屈だった。
 昼過ぎには、体調も大分元に戻ってしまっていた。
 元々大した風邪じゃなかったんだ。
 丸一日療養する必要はなかったかもしれない。

「…はぁ」

 やる事がないと余計な事を考えてしまう。
 研究の事、自分のこと、そして神條先生のこと。
 何か気を紛らわすものがあればいいのに、この部屋には何もない。
 仕方ないので、いつもしているように窓の外を見た。
 誰も居ない中庭を、一人でずっと眺めていた。

 どれだけの時間が経っただろうか、中庭にいつものように神條先生がやってきた。
 
「…?」

 その様子が尋常じゃない。
 あの人はいくら疲れていても、それを内面に押しとどめて隠そうとするような人だ。
 それが今はすっかり生気の抜けた顔をしている。
 まるで、絶望を見てきたかのように。 
 
 ―――あそこへ、行った方がいいんだろうか。 

 一瞬そう思って、すぐに打ち消した。
 無駄だ。
 きっともうすぐ、あの女の子がやってきて、心配そうに神條先生に話しかける。
 だからあたしは必要ない。
 ほら―――来た。 
 
 硝子の向こうに広がる綺麗な風景画。
 四角く冷たいその額縁に触ったところで、絵の中の世界に入り込むことは出来ない。
 絵なんだから。
 ただわたしは傍観するだけ。
 
 ああ―――あの娘も本当に神條先生のことが好きなんだな。
 何を話しているのかは判らないけれど、少しずつ落ち着いていく先生の表情。 
 その様子を見ていると、涙が出そうになった。
 
 なんで、わたしじゃダメなんだろう。
  
 窓の外の風景はまだ継続している。
 泣き出した女の子をいたわるように抱きしめる先生。
 そして二人は中庭を去っていく。
 何処へ行くんだろう。
 二人が向かった方向を目で追う―――そこは神條先生の部屋だった。 
 
「…最低ですね、わたし」 

 …悪趣味にも程がある。
 嫌な女だ。酷い女だ。馬鹿な女だ。愚かな―――
 
 やめよう。
 何も考えない事にしよう。
 何も見ていない。
 何も知らない。
 
 何も。 
 
 何も。
 
 何も。
 
 何も……
 
 深く布団をかぶって、わたしは必死で意識を閉じた。
 眠ろう。
 そして夢を見よう。
 幸せな夢を見よう。
 
 朝に見たあの人の笑顔を思い出そうとする。
 ―――あれ
 思い出せない。
 ―――どうして。
 必要なのは今。あの人の笑顔が今すぐに欲しいのに。
 思い出せない。
 子供じみた理由で、また泣きそうになった。
 

……
………

 その夜、わたしの眠りを妨げたのは、神條先生が施設の屋上から飛び降りたという連絡だった。
 
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 判らない。
 
 何も判らない。
 どうして、どうして…
 
 目の前が真っ暗になる―――そんなことは本当にあるんだ、なんて思った。
 
 ―――『また見舞いに来る』って行ったじゃないですか。
 ―――わたしは『笑顔の練習をしておく』って云いました。まだ見てもらっていませんよ…? 
 ―――先生。
 
「うそつき」

 憎みたいわけじゃなかったのに、そんな悪態しか出てこない。
 理由もわからない飛び降り自殺。
 
 わたしにはそんな自体を避ける為の何かはできたんだろうか。
 わたしのせいじゃないんだろうか?
 何も考えたくないのに…
 脳は主人の意思を無視して勝手に働き続ける。
 
 先生…
 
 せんせい……

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 あの夜から何日が経っただろう。
 
 わたしは風邪を理由にずっと部屋に引き篭もったままだった。
 食事もずっと摂っていない。 

 ―――何をやっているんだわたしは。

 わたしが今やりたいこと、やるべきこと。
 何もかもが見つからない。
 だから今も探し続けている。
 だけど見つからない。やりたいことなんて存在しないのかもしれない。
 
 今もひたすら巡り続ける思考に苛立ちながら、わたしはベッドから起きあがった。
 久しぶりの歩行に、足の骨が軋むのを感じた。
 感覚を取り戻すため、しばらく歩行を繰り返した。
 歩くことすら久しぶりなことがひどく可笑しくて、わたしは少し笑った。
 その場に膝をついて、笑い転げた。
 ちっとも素敵じゃない。卑屈な笑いだったけれど。
 
 内線のベルが鳴った。
 面倒だけど……何もしないよりはマシかもしれない。
 
「はい、水森です」

 ………
 ………
    
「はい…それで、はい。…判りました」

 ………
 ………
 
「………では、そちらに向かいます。はい」
 
 ガツッ
 受話器を壁に叩きつける。
 
 頭が…熱い。
 わたしの中の何かが狂い始めた。
 脳内の、かろうじて冷静さを保っている部分で、今電話で聞いた内容をもう一度思い出す。
  
 神條弘耶の死は、すぐにこの施設の出資者の耳に入った。
 彼の頭脳なくしてこの研究の続行は不可能だと判断した出資者は、この計画を断念するように通達した。
 次々と辞めていく研究員。この施設が寂れるのはあっという間だった。
 
 それでも何人か―――本当に数えるほどの何人かは、この研究を諦めきれない愚か者がいたらしい。
 彼等は一つの判断を下した。
 
 ―――神條弘耶なくして研究の続行は不可能。
    ならば、彼を甦らせればいい。永久機関を使って―――
 
 馬鹿は探せば居るものだ。      
 確かに、本人の頭脳は知識方面のバックアップテストを兼ねた実験で保存されている。
 復元には全く支障はない。
 だけど… 

 わたしはそんなもの認めたくはなかった。
 許したくはなかった。
 
 部屋に脱ぎ捨ててあった白衣に袖を通す。 
 ポケットに一本のメスと、両手に抱えきれないほどの殺意を抱いて
 わたしは殺風景なこの部屋の扉を開けた。
 
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 赤く、赤く、赤く、赤く。

 目の前がただ一つの色に染められていく。

 赤く、赤く、赤く、赤く

 世界から色という概念が喪われ、その隙間に赤があてがわれていく。

 赤く、赤く、赤く、赤く

 何も見えなくなっていく、何も感じられなくなっていく
 足元に何かが転がっている。
 さっきまで息をしていた。動いていた。
 実験素材と称して生きた人間を切り刻んでいた。それが今こうして切り刻まれている。

 これほど滑稽な事はない。
 
 何も知らないあなたたちが
 
 わたしの好きな人を勝手にかきまわさないで。
 わたしの好きな人を道具のように扱わないで。
 わたしの好きな人を……わたしに返して……

 わたしは本当にこの人が好きだから。
 

 だから、この人を甦らせるのはわたし。


 わたしはこれからこの人と二人で生きていくから。


 わたしが永遠の命を完成させて、永久に二人で生きていくんだから。


「―――邪魔をしないでください」
 
 絞り出した声は情けないくらいか細い声で。 
 
 赤く、赤く、赤く、赤く
 
 もう動かなくなった肉塊さえも、わたしは刻み続けた。
 わたしの心を縛り付けるものに刃を立てるように。
 
 
 やがて赤さえも世界からは喪われ、何もかもが真っ黒に染まった。 


 
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