眩暈のするような赤から、全てを飲み込むような黒へ。

 その黒で俺の意識が戻ってきた事に気付いた。
 時計を確認する。
 そんなに時間は経っていなかった。
 だけど、俺は確かに100年前の1年間を旅してきた。

「…俺、泣いていたのか…?」
 
 照れ隠しに顔をゴシゴシとこすってみた。  
 身体につけられたコードをむしりとり、ソファーから起きあがる。
 
「―――水森?」

 …周りを確認すれども、彼女の姿は見当たらない。
 もう一度注意して部屋を見渡すと、俺が『記憶を読む』前よりも部屋が整然としている事に気がついた。

「掃除でもしてたのか…?」

 そんな馬鹿げた事を呟きながら、作業机の上を覗いてみると一枚の紙切れを見つけた。
 
「手紙?」

 廻りの古ぼけた書類と違って、最近のものだろう。
 恐らくは水森が書いた俺への手紙。
 一応は遠慮しながらも、二つ折りにされた紙を開いて中身を確認する。
 
―――この研究と、全ての過去を清算するためにこの施設を燃やします。
   部屋を出て、廊下を真っ直ぐ走って下さい。非常口があります。
   わたしは先に外で待っています。火の手はすぐに上がります。急いでください。  
   
   水森綾―――


 なかなか面白いジョークだ…って
 
「マジかよっ!?」

 慌てて部屋から飛び出すと、奥の方から煙が上がっているのを確認できた。
 云われたとおり早く非常口へ…

―――全てを清算するために―――

 手紙の一文が不意に引っかかった。
 水森のことだ、まさかとは思うが…いや、違う。水森だからこそ…
 
 
「くそっ…!」

 この建物を燃やす目的だけなら、俺と一緒にここから出て、そのあとで火をつければいいじゃないか!
 それをせずに、あんな手紙を残した意味。それは…
 
「あのバカッ!!」

 何処にいるかも判らない水森に悪態をついておれは走り出した。
 広い研究所だから、火の回りはそんなに早くないとは思うが…
 煙はもう既にかなり充満している。マズイな…
 
「馬鹿っ、阿呆っ、呆けっ、何処に居るんだ! 答えないと泣かすぞっ! 靴の中に腐ったパン入れるぞっ!?」

 ……
 答えはない。
 ああもうっ! 阿呆なこと叫んでる場合じゃないっ!
 さっさと水森を見つけないと…何処だ。何処に…
 
 …
 ……
 ………
 
 そうだ。
 俺が脱出した事を確認できる場所。
 それでいて、火の回りが一番遅いと予測される場所。
 そして…あの中庭が見える場所。
 
 そこしかない。
 
 俺は屋上に向かった。
 
「水森っ!」

 ―――その場所に水森は居た。
 昔、自分の部屋からそうしていたように、屋上からは遠いあの場所を見ていた。
 でも、ここからでは木々に阻まれてはっきりと見ることはできない。
 それでも彼女は、時を越えた遠い場所を、ただじっと見つめていた。
 
「手紙―――読みませんでしたか?」
「馬鹿っ。あんな見え見えの嘘に引っかかるわけないだろ? 嘘ならもっと巧く吐けっ!」
「…今ならまだ間に合います。早く出口へ戻って下さい」
「そうだな、まだ間に合う。だから行こうっ」

 云いながら差し出したこの手を、水森は思いきり払いのけた。
 
「どうして!? わたしはあなたを、安らかな眠りについていたあなたを過酷なこの運命に引き戻したんですよ?自分の醜い我が侭のために、多くの人を殺して、汚して……!!」
「懺悔なら、ここを出てからいくらでも聞くよ。俺は神父じゃないけど、水森の話ならいくらでも聞く、いつまでも聞く。俺は神じゃないから、裁くこと…罰することも、許す事も出来ないけどさ。全部、笑って…抱きしめるから」

 言葉が溢れていく。
 俺と水森との間の、時の流れと数々の偶然によって離れた心を、言葉が繋いでいく。2度と解けないように、強く、強く。
 ああ、俺は―――本当に水森が好きなんだ。

 水森はこちらを見ずに云った
 
「あなたは…あなたの根底の知識や記憶は”神條弘耶”のものですが、あの人の人並み外れた脳情報を、未熟なその心では扱いきれていないんです。つまり、あなたは神條弘耶であって、弘耶でない。本質こそそうであれ、別物。……あなたはニセモノなのよ!」

 水森が敢えて俺を傷つけようとしているのが判る。俺に彼女を憎ませるように。
 
 ニセモノ。ツクリモノ。
 その言葉を心中で反芻してみる。

 不思議と心は落ち着いていた。
 
 この数日の間に幾つも見てきた”非現実”な景色たち。
 直面したその時こそ、気が狂いそうなくらいに混乱したけれど…
 目の前のこいつといると、そんな非現実でも手の届くところまで引き寄せられる。
 安心できる。
 
 俺は水森をじっと見つめて、心からの言葉を投げかけた。 
 
「例え全てが偽りであっても、例え全てが狂っていても、この気持ちだけは本物だから」

 理由なんてないけれど…
 肉体が作り物に変わっても、心はあの頃と違っていても、それら全てを超越した、科学なんてモノとは程遠い次元での巡りあわせ。
 『運命』なんて言葉でさえすれチープに感じられるような。そんな深い結びつきがあるから。
 
 きっと、あるから。
 
「時が流れても、全てが変わってしまっても……あなたは…どうしていつもそんなにも優しいの?」

 『いつも』
 それはかつての、科学者であった頃の”神條弘耶”のことを云っているような気がした。
 俺はその答えは知らない。
 だけど、何か伝えようとする意思だけが、勝手に口を動かした。
 
「別に優しいわけでもなんでもなくってさ…自分のやりたいようにやるだけさ。自分の云いたい事を云って、自分の動きたいように動いて、視たいものだけを追いかけて。少しずつ、でも確実に心の隙間を埋めていくんだ。悪くないだろ?」

 もう一度水森に手を伸ばす。
 今度はその手は振り払われる事はなかった。
 確かめるようにその手を強く引き寄せる。
 
「それが俺の生きていく証になるから。痛みも、傷も、幸せも、喜びも。……この手を繋いだ大切な誰かも」
「それが―――汚れきった罪人でも?」
「知ったこっちゃない」

 そうおどけて微笑むと、水森は張り詰めていた糸が切れたように崩れ落ちて―――泣き出した。
 
「……貴方は…馬鹿ですっ…」
「…俺は、お前のことが好きだから」
「…うくっ…っ…」

 嗚咽を続ける水森を、包むように抱きしめたその時、『好きだ』と自分の口でそう告げるのは始めてだったことに気がついた。
 遠い遠い、永い永いその距離を、ずっと一緒に過ごしていたのに。

「わたしは…わたしも好きでした。昔から、本当に昔から…」

 たった一つの言葉。
 それが形を変えて、時を変え…何もかもを乗り越えて、離れていた二人を繋ぐ細い、だけど2度と切れない真っ白な糸が今俺たちの間で繋がった。
 感じたのはそんな確かな予感だった。
 
「行こうぜ。今は生きることだけ考えよう」

 そう云って、水森の瞳の雫をピッと弾いた。
 やっぱり―――水森に泣き顔は似合わない。 

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 少し離れた場所―――二人で、燃え盛る研究所を見ていた。
 全ての始まりの場所、長い時を密かに刻みつづけてきた檻は、この時その役目を終えた。
 そこに囚われていた姫君は隣にいる。
 だからもう、この場所は必要ない。燃えてしまえ。
 
「…火事にならないかな。周りはこんなに木が茂ってるし…」
「大丈夫です」
「なんで?」

 彼女はこちらを見もせずに即答した。

「そんな―――気がします」
「そうか…」

 水森の無責任な返答にも、俺は深く追求しなかった。
 火事になっても構わない。
 いっそのこと焼き尽くしてしまえ。
 この街ごと。
 この世界ごと。
 忌まわしい全ての物事を、燃やし尽くしてしまえ。 

 燃えろ。燃えろ。燃えてしまえ。
 もっと、もっとだ…早く、早く燃えろ。
 
 俺の心の声に応えるように、炎は勢いを増していく。
 全ての想いをゆっくりと巻き込みながら。  
  
「さて、終わってしまうぞ」
「終わりですね」
「―――終わりだ」

 はじまりだ、なんて云うつもりはない。
 全てはここで終わる。
 
「どうするんだーっ」
「どうしましょう」

 その場にへたり込む。
 赤く染まる夜空の向こうに星が見える。
 夜空の黒と、炎の紅がひどく不釣合いだ。
   
「わたし、嫌な女ですね」

 水森が急に呟いた。

「え?」
「色々と、嫌な女です」

 そう云って俺の横に座る。
 スカートが汚れるのもお構いなしだった。
 
「たくさんの人を殺しました」
「それは―――」
「親友を利用して、見捨てました」
「……」
「好きな人の大切な人を、見殺しにしました」
「……」
 
 その意味は判らないけど、訊きたくはなかった。

「そして―――ひとりの女性から貴方を奪いました」
「…水森」
「嫌な、女です」

 最低です、と。
 そう続けて水森は俯いた。
 泣いていたのかもしれない。
 何か云わなきゃ―――言葉を探したが出てきやしない。
 さっきは呆れるくらい、まくし立てられたのに。
 辺りを支配する沈黙。
 言葉を探さなきゃ。言葉を―――

「神條さん」

 沈黙を破ったのは、水森だった。
 
「あたしのこと、好きなんですか?」

 俯いたまま、ふてくされたように云う。
 俺に問い掛けているというより、独り言のような、そんな呟くような一言。
 だけど、寂しそうな一言で。
 俺は言葉探しを諦めて、それに答えようと口を開いた。
 答えは直ぐに出て来たから。
    
「俺は―――」
「なんでもないです」

 しかし、それは云い終わる前に打ち消された。
 また沈黙が降りる。
 仕方なく向こうでまだ燃えているあの場所をぼうっと眺めていると、

「わたしの―――馬鹿」


 そう呟いた

 やっぱり寂しそうに。

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