もりやまタイムス
3月号

平成24年(2012年)
No.142 毎月発行


発行責任者 堀井 隆彦/発行所 守山市守山二丁目1番30号

1面
約30年の野球人生を語る
「うの家」オープン
日本人と仏人の違い

守山市新年度予算案

2面 
今年、「松本清張没後20年」に思う
秀次はこんな人物
豆まきで鬼退治
献血26年の快挙
感性豊かな作品

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▼今年、「松本清張没後20年」に思う
▼秀次はこんな人物
▼豆まきで鬼退治
▼献血26年の快挙
▼感性豊かな作品

今年、「松本清張没後20年」に思う
古代史にも傾倒し、造詣も深く
邪馬台国論で疎外♀w者を批判


★松本清張が1992年8月4日82歳で亡くなって、今年没後20年になる。社会派作家といわれる清張は、古代史にも傾倒し造詣も深く「風雪断碑」や「陸行水行」「古代史疑」などに史論を展開し一つの見解を示した。しかし、学者でないため一介の小説家として疎外され、自論に甘んじたが清張説を支持する人が少なくない。同志社大学の森浩一名誉教授や国立歴史民俗博物館副館長を務めた故佐原真氏らもその人たちだ。

★特に、3世紀の日本国家成立の謎を解く邪馬台国論争では、北九州説か大和説に二分されるが、清張は小説の中で北九州に前漢鏡や博多湾の志賀島で“漢委奴国王”の金印が出土した状況から北九州説をとり、南の狗奴国を平定したあと大和に東遷したと考えた。また、中国の史書「魏志倭人伝」に記す卑弥呼の“以死”は自殺か他殺説をとり、「陸行水行」では朝鮮半島(今の京城)から邪馬台国までの総里数1万2千余里を里数放射状説を引き合いに「陸行一月」と「水行十日」を二つに区分し、独自の陰陽五行説を展開した。

★しかし、古代史学界に無視された清張は、小説「風雪断碑」の中で主人公を身代わりに「明治以来の日本の考古学は、発掘した遺物遺跡の測定、形や紋様の分類、時代の古さや新しさを調べるだけで、それを遺した人間の生活を考えようとしなかった。目的とするところは人文科学的な面で確実な資料を基に過去の文化なり社会なりを正しく復元しなければならない。その過程に人文科学的な理論を必要とする」と語らせている。

★清張の古代史観は、言語の世界にも及んだ。1962年に発表した小説「砂の器」は、現今もテレビドラマにも登場し人気を呼んでいる。核心の部分で犯人逮捕につながった東北弁。あのズーズー弁は文字通り東北地方の方言だが、この東北弁によく似たなまりを使う地域が山陰の奥出雲地方にもあった。山陰のほかに北陸や東関東でも使われることを知った。先鞭をつけた清張の社会派といわれるゆえんだ。

★東北弁は関西人にも難解だ。東北弁はどのようにして生まれたのだろう。アイヌ説がある中で、畏友の一人がいうには、歴史研究者の古田武彦氏の門下生で京都大学を卒業した女性がロシア語からきたのではないかと『簡約ロシア語=オロチ語』を研究中だという。例えば「オホナムチのミコト」は古事記や出雲風土記に出てくる有名な神。オロチ語では「ナ」は大地、「ム」は水。「ナム」は海だという。(真実の歴史学・古田武彦編集から)

★この一例をとって、ロシア語が東北弁になったと性急な結びつきは禁物としているが、東北地方とロシアのハバロフスク州や沿海州は、日本海を隔て対岸に位置する。古代から人的交流があったに違いない。今後の研究に期待したい。

秀次はこんな人物
信長マネた街づくり
作家、羽生さん講演

 近江八幡の礎を築いた豊臣秀次は、400年前の時を超えて今も市民らからまちづくりの大恩人として尊敬されている。NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」にも登場し、叔父の秀吉から謀反の嫌疑で切腹を命じられ夭折し涙を誘った。歴史評価では悪人説が多いが、果たしてそうだったのか。

  『秀次の生涯』をテーマに講演した滋賀県在住の歴史小説家・羽生道英さんは「秀吉の朝鮮征伐に反対し、関白の地位を軽んじられて対立した」とし、「八幡城でのまちづくりは、信長の政道をマネた感が強い。民(たみ)思いの人情は秀次がクリスチャンだったせいではないか 」と問題提起し注目された。

 この講演会は京都新聞滋賀本社主催の「湖灯塾」で話した。羽生さんは日本文芸家協会会員、滋賀文学会名誉会長、滋賀文学散歩の会会長。昨年8月に小説「豊臣秀次」(PHP文庫)を出版した。

 講演の中で、羽生さんは天正13年(1585)、秀次18歳のときに43万石の八幡城主となり、その際、安土城下の領民を八幡に移し、まちづくりをした。町名も安土時代の小幡、鉄砲、玉屋、鍛冶屋、仲屋などを使った。まさに現代版「安土町・近江八幡市」の合併を思わせる。秀次は本能寺の変で亡くなった信長に憧れ、八幡城下に信長のような“理想都市”をつくろうとした。例えば楽市楽座による商人の町にし、諸役免除や西の湖を港にし、琵琶湖を通る商船は必ず立ち寄るようにしたと説明した。

 また領民を大切にする町にと『八幡山下町十三ヵ条控書』を公布した。「楽市を行う者は組合を作ることも出来るし、税と夫役を免除し訴訟を起こす特権も付与する」(第1条)など。この掟書は信長公布のものとほぼ同じ。諸役免除は秀次独自のもので、八幡町では明治時代までの300年も続いたという。現代では観光拠点として全国から多くの観光客を集めている。

 秀次のクリスチャン説は、無神論者で知られる信長がキリスト教だけは認め、教会や神学校セミナリヨを建てるなど布教に尽くした。羽生さんは「信長公の思いを継げることは、わしの日本一の幸わせ者といえる」と八幡山から町を見下ろした時、秀次はそう思ったと小説の中で書いている。また“殺生関白”といわれる秀次の行動は、権力者によって作られたものとし歴史評価について、宣教師フロイスの日本史を引用し「深く道理と分別をわきまえた人だった 」と秀次善人扱いしている。

豆まきで鬼退治
節分で無病息災祈る
カナリヤ保育園

 3日は節分。守山二丁目のカナリヤ保育園(堀井節子園長)では「節分行事」が行われ、園児は豆まきなどで魔を退治し一年間の無病息災を祈った。(写真)



 午前10時、園庭に集まった園児たちは保育士さんらが炭火コンロで焼くイワシを見学した。しばらくすると立ち上る煙りから香ばしいにおいが立ち込め「おいしそう」「早く食べたい」との声が。

 このあと部屋に戻って「豆まき」。鬼に扮した男性の保育士さんが登場すると豆鉄砲。「鬼は外」「福は内」と豆を放った。鬼が発する「 ウォー」の声に泣き出す園児も。「いい子になります」「お母さんのいうことを聞きます」 。 鬼もこの言葉に園児の頭をなぜて退散した。

 汗をかいたあとは楽しい給食。焼いたイワシの蒲焼をメーンに「 お浸し」や「から揚げ」「汁物」などに舌鼓。福豆とアンパンソフトせんべいをおやつに食べた。

 前日に園児たちは、節分の由来について話を聞いた。季節の変わり目には邪鬼( じゃき)が入りやすく鬼となって表れ病気や災難を引き起こす。魔を豆で放ち厄払いするという話しに耳をかたむけていた。

献血26年連続の快挙
近江守山LC
 
 近江守山ライオンズクラブ(小林久純会長 )は、2月12日守山市今浜町の大型商業施設・ピエリ守山で行った献血活動で、昨年7月から実施してきた献血量が100万ミリリットルに達し、26年間連続の快挙を成し遂げた。

 この日、ピエリ守山正面玄関に設けられた滋賀県赤十字センターの献血車に、買い物途中の市民らが制限の一人約400ミリリットルを献血し、午後1時半すぎ100万ミリリットルに達した。達成者の彦根市の会社員岩崎健祐さん(25)に記念の花束と卵(箱詰め)が贈られ大喜び。岩崎さんは「サイトを見て彦根からドライブがてらに来ました。私が当たるなんて驚きです」と笑顔で話した。

  県赤十字血液センターの辻隆一渉外課長は「 昨年に比べ約4ヵ月も早い目標達成で市民やライオンズ関係者のお蔭です。感謝したい」と話していた。

感性豊かな作品
私立保育園絵画展
 
 守山市内の私立保育園・こども園に通う5歳児の園児が描いた「 滋賀県守山ブロック保育園児絵画展」が2月16日から4日間、ららぽーと守山一階セントラルコートで開かれた。参加園は、ひなぎくこども園、はすねだこども園、カナリヤ保育園、若鮎保育園、カナリヤ第二保育園、速野カナリヤこども園の6園。滋賀県私立保育園連盟の主催。

 会場には、節分行事を絵にした「鬼とたたかうようす」や「イワシをやいて、たのしかった情景」 「おとなになったら、ドーナツやさんになりたい」など園や日常生活を絵に表現していて、見る人の心をとらえていた。

 初日に訪れた若鮎保育園の園児たちは、自作の展示絵に大喜び。土田沙耶未保育士さんは「絵には子どもたちの豊かな感性が伝わり、興味深いですね」と話していた。



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