特集 −ヌルハチ挙兵!− |
1616年元日、ヌルハチは大汗となる事を宣言する。 今回の特集「後金誕生」ではヌルハチの誕生から、建国。そして明との衝突直前までを採り上げたい。
いわゆる大金の誕生の瞬間であった(ヌルハチはこの時、元号は定めたが国号は定めていない)。
これはかつて同じ女真族の完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)の作った金朝の再来であった。
歴史的に言えば、阿骨打の金に対してヌルハチのそれは「後金」と呼ばれる。
(当サイトでも後金と以後、呼称する)。
チンギスハンによる金の滅亡以降、女真族の文明は後退し、たくさんの部族に分裂する。
明朝の巧妙な分断政策により、彼らは互いに殺し合う事も増えてきた。
まさに戦国時代である。ヌルハチはそれを統一したのであった。
だが、それは単に地域を併合しただけではない。
分裂していた民族を再編成し、我々は満洲族である…と意識統一したのである。
1.ヌルハチ以前 |
ヌルハチ一族の系譜は上記の図通りである。
主に3つの時代に分けられるだろう。一つは神話の時代。次は空白の時代。そして最後がギオチャンガ以降、正史の時代である。
■神話の時代
■空白の時代
フグリヨンションの子孫はやがて横暴となり、人々の反感を買ってしまう。
やがて反乱が起こり、子孫たちは皆殺しにされる。ただ一人、幼いファンチャだけは逃がされ、殺されずに済んだという。
神話はこうして一旦止まり、数代経て英傑メンテムの登場を待つ事になる。
彼は一族の故郷オモホイへ攻め入り、再び王に返り咲いた。
やがてヌルハチのひいお爺さんにあたるフマンが登場する。
フマンと、その父親シベオチフィヤングは架空の人物と言う説もある。
代々のご先祖には始祖、肇祖、興祖…と廟号を送られているが、シベオチフィヤングにはそれが与えられていない。
しかも新清史には、図の通り親兄弟が詳細に記録されているが、フマンはフィヤングの子と記されているだけで兄弟は判明していない。
とって付けた様にメンテム一族の系譜にフマンが繋がっている印象を受ける。
メンテム、フマンの上に付いている「都督(ドゥドゥ)」は名の通り、漢語の役職名である。
女真族の有力者に対して明は「都督」などの官職を与えている。
フマンも何らかの実力で都督の位を授かった有力者には違いないが、果たしてメンテム一族の者だったかは疑問である。
おそらくフマンは、新興勢力だったのではないだろうか?
後世、ヌルハチ一族の系譜を作る際、英雄メンテム一族に連なる事で箔を付けようとしたのではないだろうか…とも考えられている。
とにかく、この時代ははっきりせず、空白の時代と言えるだろう。
■正史の時代
フマンには5人の子がいたが、それぞれ独立し城を構えた。子供たちは自身らを「ニングダの貝勒(ペイレ…貴族。この時代は部族長という意味合いが強いと思われる)」と称した。
このニングダの貝勒の中で一番強かったのが、ヘトゥアラ城のギオチャンガだった。
ギオチャンガは息子たちと付近の氏族を倒し、勢力を拡大する。
とは言え、全体としては弱い集団で、ハダ部など強力な勢力に取り入って生き延びていた。
そのヌルハチの父親をタクシという。彼には5人の子がいた。
ヌルハチ、シュルガチ、ヤルガチはいずれも同じ母親から生まれた(赤線になっている所)。
バヤラは継母の子であり、ムルハチは庶子である。
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