2.ヌルハチ登場
      〜ニカンワイランとの戦い〜

■ヌルハチ登場!


   ヌルハチ(努爾哈齊)。姓はアイシンギョロ(愛新覚羅…金の一族という意味らしい)。
 高皇帝と略されるが、正式には
承天廣運聖コ神功肇紀立極仁孝睿武端毅欽安弘文定業高皇帝と言う。廟号は太祖
 1559年に生まれ、1626年に亡くなった。享年67歳
 父親はタクシ。母親は宣皇后ヒダラ氏。ヌルハチは母親のお腹に13ヶ月もいたと伝えられている
  母親は10歳の時に亡くなり、それから継母の登場でずいぶん苦労することになった
 当然、継母は我が子のみ可愛がり、前妻の子ヌルハチらを大変嫌った
 父親も継母の影響を受けて疎む傾向にあったとされている
 成長したヌルハチは半ば追い出される様にして、僅かな財産を譲り受け自立したと伝えられている
 
  それから歴史に登場するまでの間、若者ヌルハチが何をしていたかは定かではない。
 父親たちとともに農業をしつつ、交易にも加わったと言われている

 一説には商人として生計を立てていたという話もある
 人参を乾燥させて日持ちをよくしてから売りつけると言った発想はヌルハチの商人らしい一面かもしれない
 また李成梁に気に入られて、彼の家臣同然で転がり込んでいたという話もある
 おそらく、普通の人々と同じ様な暮らしをし、生活に追われていたのだろう

 

■祖父と父親の死。グレ城の悲劇。

   明側では、女真族を大まかに3つに区分していた
  一つを建州(満洲・マンジュ)もう一つを海西(フルン)最後が野人
  ヌルハチは建州出身であり、建州は金朝を立てた完顔氏の母体であった
  従って金朝の系統と称していた人々である。しかし血筋はいいのだが、力では海西に劣る
  海西女真は明と隣接していることから漢化が進み、文明化した人々であった。従って明は特に彼等を優遇している
  野人女真は明から一番遠く、名の通り「未開の…」という、侮蔑的な呼称である

   ヌルハチが登場する以前、建州にはワンカオという有力者がいた
  ワンカオは建州をまとめ上げ、ヌルハチ以前の英傑だった
  しかし明の役人を殺した事から、李成梁の報復を受け、その勢力は一気に衰退する

  ワンカオの息子アタイは復讐を誓って、周辺部族と協力して明領へ攻め入った
  懐柔にも応じないアタイを李成梁は討つ事を決意する。アタイは自身の拠点グレ城に立て篭もり、明軍を待ち構えた

   明軍はグレ城を包囲した。住民を皆殺しする雰囲気であった
  アタイの妻はギオチャンガの孫娘である
  せめて孫娘は助けたい、あるいは身内であるアタイへ最期の説得を買って出たのかもしれない
  ギオチャンガは、タクシを伴って包囲下のグレ城に入っていった
 
   このどさくさに乗じて勢力を拡大しようと謀った者がいる
  ニカンワイラン。スクスフ部の有力者であり、ギオチャンガの勢力下にあった人である
   彼はグレの人々をそそのかして、アタイを殺害させた
  人々はこれで降伏すれば助かると思ったのかもしれないが、この時とばかり李成梁は城内に突入し、住民をことごとく殺害した
  城内は大変な混乱状態であっただろう
  混戦の中でギオチャンガとタクシは捕らえられ、殺されてしまった
   ニカンワイランは、捕らえれたギオチャンガをアタイの仲間と偽って殺害させたという
  ヌルハチと弟シュルガチは兵士の間に隠れ、虐殺を免れていた
  幸い李成梁の妻が彼の特徴を偽ってくれたおかげで、その隙に彼らは逃れることができた

  その逃避行の途中で、後の功臣エイドゥに出会ったとされている
  手勢は僅か9名
  ギオチャンガ、そして父のタクシも亡くなった事で、長男の彼がニングダの貝勒の一角を担う事になったのである

 

 

 

 

 

    


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■一族との確執。周囲との戦い

    ギオチャンガは強引に勢力を拡げた様で、周囲の反発も強かった様である
  ギオチャンガが死ぬと、その遺産を奪おうと一族争いが始まった
  ヌルハチの親族ニングダの貝勒たち…特にソーチャンガ一家はヌルハチを特に嫌った様だ
  父が亡くなって、ニカンワイランへの報復を宣言するまでの数ヶ月
  この間は一族内での謀略が繰り広げられたという
  
   しばしばヌルハチは命を狙われる
  ある夜、ヌルハチを暗殺しようとして一人の男が捕らえられた
  しかしヌルハチは、「自由にしてやれ。遺恨を残してはならない」と解放し、それ以上追及しなかった
  犯人を特定すれば戦わねばならない。まだ彼は駆け出しで、力もなかった
  ヌルハチは余計な争いを避けようとしたと考えられる
 
   明に使者を送って「あなた方の国は罪のない祖父らを殺害した」と抗議した
  李成梁もその誤りを認め、2人の遺体を返還し、さらに朝貢を許すなど賠償を支払った

   それからしばらくして、さらに今度は黒幕ニカンワイラン逮捕を要求した
  相次ぐ要求に明側は、さすがに不快感を露にした
  「誤りだったからこそ、充分な礼節を持って謝罪した。それなのに今また要求してくる
   我々はニカンワイランがギヤバンに城を造る事を援助するそして彼をお前たちの主に任命する」
  何かとうるさいヌルハチより、ニカンワイランの方が扱い易いと考えたのであろう
  明からその旨が発せられると、人々はこぞってニカンワイランに帰属した
  そしてニカンワイラン自身、ヌルハチへ従う様に迫ったのである
  
   孤立無援であったが、祖父・父を殺した男に跪く事など出来るはずもない
  ニカンワイランを何としても撃つ事を決意した
  武器と言っても父が残したのは、僅か13あまりの鎧であったとされている
  彼の生涯は殆ど戦闘に明け暮れたが、こうして第一歩が始まるのである。この時、ヌルハチ25歳であった
  

 

■ニカンワイランとの戦い

 
   ヌルハチがニカンワイランへの復讐を誓うと、ニカンワイランに敵対的であった人々が協力を申し出た
  サルフのノミナ兄弟や、ギヤムフのガハシャンハスフ、ジャン河砦のチャンシュ兄弟らは真っ先にヌルハチ側へ付く事となった
  1583年5月、ヌルハチニカンワイランの城へ討ち入る
  兵はわずかに百名。武装したのはたった30名だった。戦というより、殴りこみと表現すべきだろう
  本来はノミナと兵を合わせて攻め込むつもりだった
  しかし親戚ロンドンの陰謀で、両者を引き離され、合流する事が出来なかった
  その間にニカンワイランは逃げてしまったのである
  
   同年9月、再びニカンワイラン討伐に向かうが、ノミナが寝返り、ニカンワイランに進軍の一報を告げる
  ニカンワイランは再び逃亡し、明へ亡命しようとしたが、明は彼を受け入れなかった
  明当局は兵を使って、ニカンワイランを国境外へ追い出そうとする
  その光景を遠くで見ていたヌルハチは、勘違いしてしまった
  ニカンワイランへ明の援軍が集まっている−−−。彼はそう考えたという
  こうしてヌルハチが様子を伺っている隙に、またしてもニカンワイランは逃亡

   逃げられた悔しさから、寝返ったノミナを捕らえ処刑した
  逃亡を繰り返すニカンワイラン。勢いづくヌルハチ
  人々がどちらを選ぶかは言うまでもない。次々にヌルハチへ帰属した
  追われるニカンワイランは、遠くオルホン城に保護を求めた
  
   1586年7月、ついにヌルハチはオルホン城まで勢力を伸ばし、その城を占領した
  陥落直前、ニカンワイランはごく僅かな手勢と共に逃亡
  彼は明領内へ逃げ込んでしまった
  ヌルハチはジャイサに40名の兵を与えて明領へ向かわせ、身柄引き渡しを要求した
  明もここに至って、勢いを増すヌルハチをリーダーと認めざるを得なかった
  それに配慮して、明はニカンワイランを捕らえてヌルハチに送り届けた
  
   こうして旗揚げから3年後、ようやく仇を討ったのである
  またこの時、明は先の誤殺を再び謝罪し、毎年お金を払う事を約束した
  これがヌルハチに力を与える事となり、結果的に明を苦しめる事となったのは言うまでもない
       


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