4.フルン部との戦い
      〜長白山、フルン、東海方面への進出〜

 ■フルンとの対立


    1591年、ヌルハチは長白山部(鴨緑江方面)に兵を進めて、その地域の住民を自領へ連行した。
 ヌルハチが満洲以外の地域へ勢力を伸ばし始めた事に、周辺の部族は警戒感を持ったのである。
 フルン(海西女真)は漢文化に近く、女真族の主という自負があった。
 フルン所属のイェヘ部は敵対心を露にする。

    イェヘの部族長ナリムブルはヌルハチに対し、エルビン・ジャクムの2地域の割譲を要求する。
 この地域は東海・長白山に通じる重要なルートだったからだ。

    当然ヌルハチはこれを拒否。
 イェヘ部は見せしめにフルン諸部(ハダ、ウラ、ホイファ)と協力して、満洲領を荒らしまわった。
 いよいよフルンとの衝突は避けられないものとなった。
  
  

 ■9部連合


    1593年9月、フルン諸部は対ヌルハチ大同盟を結成する。その陣容は以下の通りである。
 フルン4部(イェヘ、ハダ、ウラ、ホイファ)、グワルチャ部、シベ部、モンゴル系のコルチン部、長白山部のシュジュリ、ネイン。
 9部が協力する事で、成り上がりのヌルハチを一気に叩こうと考えた。ヌルハチはいきなり窮地に陥ったといえるだろう。
 
   彼らは兵3万で進軍してきた。
 ヌルハチは部下のウリカンにまず東路へ偵察に行かせた。
 彼は「途中でカラスの大群が道に拡がっていてこれ以上進めなかった」と報告した。
 こちらからの侵攻はないと考えたヌルハチは、今度は、北の河沿いジャカ方面へ偵察に行かせた。
 敵は強行軍で夜通し歩き、河沿いで野営を築いていた。「彼等の炊事の火はまるで夜空の星の様だった」と報告した。
 本来なら夜襲をかけるチャンスである。ところがヌルハチは「夜に出れば兵士が動揺する」と明朝の出発を決めた。
 敵の士気は依然高いと聞いて、躊躇したのだろう。

    明朝、出陣にあたってヌルハチは「守る事に専念せず、俊敏に動いて敵を撃破せよ」と命令を出した。
 大軍を攻める事に動揺している兵士を、ヌルハチはこう励ました。
 「敵は指揮官が多すぎ、兵は所詮烏合の衆である。統率できず、彼等は成り行きをみて行動するだろう。
  まず初戦で我等は力戦し、指揮官を狙うのだ。気力充実した我々は、遠来疲弊した敵を迎え撃つ。
  敵将の首をとれば、敵兵は恐れて自壊するだろう。我ら、兵少ないといえども、必ず勝つことができる!」

 


  ■グレの戦い


  

     サルフの戦い同様、このグレの戦いはヌルハチにとってまさに「興廃此一戦」と呼べるものであった。
  連合軍はグレ山に陣を築き、ヌルハチがそれを攻める形となった。
  山攻めは登る方が不利なのだが、ここでヌルハチは妙案を仕掛ける。

     エイドゥに100名ほどの別働隊を指揮させ、敵を挑発させた。
  連合軍はそのおとりに引っかかり、山を降りて来る。エイドゥの奮戦に敵は驚き、一旦後退した。
  再びイェヘの部族長ブジャイ、キンダイシは、モンゴルのコルチンのマングフ、ミンガンら兵を合わせて襲い掛かった。
  ブジャイはエイドゥに向け突撃してくるが、馬が木片に引っかかって転倒してしまった。
     この偶然が戦いの行方を決めた。
  ウタンなる兵卒が、倒れ転がり込んできたブジャイを倒した。
  ヌルハチの指摘通り、指揮官を失って兵士たちは逃亡を始めた。
  それを追うヌルハチの攻撃は苛烈で、敵将ミンガンは重い鎧を脱いで、裸で逃げ回るしかなかった。
     この戦いで敵4千近くを倒し、ウラ部のブジャンタイを捕虜とした。劣勢のヌルハチ軍の大勝利となったのである。

     その後、攻勢に転じシュジュリ・ネインを併合。
  モンゴルのコルチン部の一部がヌルハチへ関係改善を求め、以後、モンゴルとの修好を深めた。
  ヌルハチは明から竜虎将軍の地位を授かり、名実ともに支配者としてのし上がって来たのである。 

  

    ■ハダ滅亡

 
     1597年、フルン4部は連れ立って先の戦いを詫びるため、ヌルハチの元を訪れた。
  ヌルハチも彼等の謝罪を受け入れ、友好ムードが高まるかと思われた。
  しかしイェヘはすぐ離反し、周囲もそれに流されてしまった。

     1598年、ハダ部をヌルハチは吸収する。きっかけはイエヘ部の侵攻であった。
  ハダ部長のメンゲブルはイェヘ部の攻撃を支えきれず、ヌルハチへ我が子を人質に送る代わりに援軍を要請した。
  フィオンドン、ガガイを救援に向かわせるが、それを知ったイェヘ部はハダ部に擦り寄る。
  「油断した敵将を捕らえて、満洲の連中を殲滅しよう。汝の娘を我妻にして、昔のよしみを取り戻そうではないか」
  愚かにもメンゲブルはそれに従い、その企みを漏れ聞いたヌルハチは激怒。自ら出征し、メンゲブルを捕らえたのである。
  ヌルハチはメンゲブルを一度は許したものの、翌年、彼はガガイと供に反逆を企てたとされ処刑されている。
  
     ハダ部は単なる一部族ではない。明は一番友好的な彼らを監督役にして指名していた。
  今まで築いてきた統治システムが、ヌルハチによって崩壊させられた。
  彼らはこの頃から、ヌルハチに警戒心を持ち始めた。
  明当局はメンゲブルの処刑に乗じて、「どうしてハダを滅ぼしたのか!彼の子ウルグダイに領地を返してやれ!」と強い口調で迫った。
  大国の意にはさすがのヌルハチも逆らえず、ウルグダイとその住民をハダに帰したのであった。
  
     ところが、それを見ていたイェヘ部がモンゴルと結託して急遽介入し、ハダを荒らしまわった。
  土地が荒れハダの人々は餓死寸前となった。イェヘの蛮行を明は黙認し、飢えて死にそうという悲痛な声も無視した。
  明としては弱いハダに見切りをつけ、代わりにイエヘに期待し始めたのかもしれない。
  ここに至って、ハダの人々はヌルハチに保護を求めたのである。
     かくして女真族の頂点に君臨したハダ部は滅亡した。

  

   ■ブジャンタイの造反

 
     部長の息子ブジャンタイが、グレの戦いで捕虜になったのは前述した通りである。
  ヌルハチは礼節を持って遇し、ブジャンタイ自身も虜囚の身ながらそれなりに生活を楽しんでいた様である。
  グレの戦いから3年後、父親が殺害され、その後を継ぐ為に彼は解放された。1596年7月の事である。
 
     ヌルハチには、フルン部内に親満洲派を造る狙いがあったのかもしれない。
  しかし、満洲での生活を楽しんでいた様に見えて、ブジャンタイの本心は別にあったと思われる。
  ブジャンタイは当初ヌルハチ派だった様だが、解放されて間もなく敵対政策を執り始めた。
  優柔不断な彼は以後、反発と服従を繰り返し、いたずらにウラ部を力を弱めていく事となる。
  
     ブジャンタイはイェヘ部にそそのかされ、東海ワルカ部に属するアンチュラク方面に兵を進める。
  長白山部がヌルハチの支配下にあり、朝鮮方面へ手を出そうと考えればアンチュラク方面を押さえる必要があった。
  ヌルハチも当然、その地域を狙っており、ブジャンタイに先を越される形となった。
  翌年、ヌルハチは息子チュエンやフィオンドンらを派遣してアンチュラク奪回させる。
  ヌルハチの怒りを知ったブジャンタイは慌てて自ら謝罪に向かう。
  彼はこれを許してシュルガチの娘を妻とさせ、さらに鎧や交易の勅書をまで与え優遇した。
  まだ、ヌルハチはブジャンタイに対し望みを棄てていなかったのだろう。
   
     だが、ブジャンタイの牙はまだ折れていなかった。
  1607年正月、ヌルハチは弟シュルガチ、息子ダイシャン・チュエン、武将フィオンドン、フルガンらに命じてカルカ部へ兵を送った。
  カルカ部のフィオ城城主ツェムテヘは度々、ブジャンタイの暴虐に悩まされていた。
  そこでいっその事、住民挙げて満洲領内へ引っ越そうと考えたのである。
  その要請を受け、シュルガチらは住民の護送に派遣された。
      フルガンが300名の兵を率いて500世帯の住民を護送していた時のことである。
  ウラは1万の兵を率いて移民を阻んできた。
  フルガンは隠れ、翌日には増援がかけつけ、ウラ軍を殲滅した。
  この戦でウラは指揮官ボクドとその息子を失い、チャンジュやフリブといった貝勒が捕虜となった。全体としては兵3千、鎧3千を失ったという。
  大打撃をこうむったものの、ウラの力はまだまだ侮れない。  

     同年9月、しばしば盟約に背いたフルンの一角ホイファ部をヌルハチは滅ぼしている。残るはウラとイェヘのみとなった。
 

 

  ■ウラ滅亡

      翌年3月、態度を改めないブジャンタイに対し、息子チュエンと甥のアミンに兵を与えてウラ討伐に向かわせた。
  ヌルハチの侵攻に恐れをなしたブジャンタイは、再び和平を請願した。
  彼はイェヘの使者をヌルハチ側へ売り飛ばし、「イエヘとは完全に縁を切りましたので許してください」と願い出た。
  こうして一旦、ウラの滅亡は回避される。

   ウラが東海方面に手を出せなくなると、ヌルハチはこの頃から毎年の様に東海方面に兵を派遣する。
  エイドゥ、フルガン、アンフィヤングらの活躍で東海北部もことごとくヌルハチの勢力下となっていく。



    
    1612年、ブジャンタイは再び和約を破棄する。
  東海方面がヌルハチの傘下となり、このままでは、いずれにせよ滅ぶと考えたのかもしれない。
  9月、ブジャンタイはフルハに兵を送り、イェヘに擦り寄り、またヌルハチとの婚儀も流してしまった。
  度々の旗を翻す事に激怒したヌルハチは、自分の手でブジャンタイを討伐するのだった。

     10月、ヌルハチはウラ城から北に3日進んだ所に陣を敷き、天にウラの非道を訴えた。
  両軍は河を挟んで睨み合う。ブジャンタイは昼は城を出て河沿いに陣を敷き、夜は城に籠もって守りを固めたという。
  息子のマングルタイやホンタイジは「一気に河を渡って滅ぼしましょう」といきり立つが、ヌルハチはそれを許さない。
  敵兵はまだ多く残っており、戦えば犠牲が多く出る事を恐れたのだろう。
  周辺の支城を落とし、兵糧を焼き払い、ウラ城を孤立させ、ブジャンタイを降伏させようと考えた。
  荒らしまわって退いて行くヌルハチを見てブジャンタイは慌てて船を出し、河の中間辺りから土下座をし許しを乞うた。
     ヌルハチは彼の非道を厳しく責め、人質を出す事で許したのである。
  近隣の城に兵を駐留させ、ウラを監視し、またしても滅亡は回避されたかと思った…。
 
     翌年、ブジャンタイは性懲りも無く、ヌルハチにまた背く。
  人質をヌルハチに送らずイエヘ部へ送り、あろう事か自分の妻(ヌルハチの姪)を幽閉してしまった。
  何度許しても無駄だと諦めたのか。
  それを聞いて、さすがのヌルハチも犠牲を躊躇する事なく、ウラ討伐に向かう。
  ブジャンタイは兵3万を用意してフルハ城にて待ち構え、両軍は間もなく激突した。
  ヌルハチはこの戦いでも自ら先陣に立つ。息子や武将たちも奮戦し、激戦の末、ついに城を落とした。
  満洲の旗が城に上がったのを見て、ブジャンタイは密かに撤退。ダイシャンの追撃を身一つでかろうじて逃れ、イェヘ部へ亡命した。
 
     ブジャンタイを取り逃がしたものの数え切れない程の鎧や馬を抑える事が出来た。
  ウラに属していた町や村はブジャンタイの逃亡でことごとく降伏した。
  ここにウラ部は滅亡したのである。
 
     このブジャンタイの亡命が後のイエヘ部滅亡に繋がっていくのである。
 


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