今月の法話     5月
如来を信ぜずしては
生きてもおられず
死んでいくことも出来ぬ

                                     
                   清沢満之(きよざわまんし)文集 (法蔵館)から
Without entrusting in Amida Buddha, I am unable to truly realize the meaning of life and death.

明治36年5月も終わりを迎えるころ、清沢先生は次のような言葉から始まる短い文章を書き記しています。

 私は常々信念とか如来とか言うことを、口にしていますが、その私の信念とはいかなるものであるか、私の信ずる如来とはいかなるものであるか、今少しこれを開陳(かいちん)しようと思います。

題して、「わが信念」。自己が如来を信ずる有り様を、わが信念はいかなるものであるかを、力強く言葉に刻んでいかれました。
 そのおよそ一週間後の6月6日午後1時、先生は40年に満たない生涯を終えていかれました。「如来を信ぜずしては生きてもおられず、死んでゆくことも出来ぬ」と語る清沢先生が、如来を信ずることができた喜びの中に、激動の生涯を閉じていかれたのです。最後のご様子は、「苦笑しつつついに呼吸絶え」た、と伝えられています。
 先生は、絶筆となった「わが信念」の中で語ります。如来とはなにか。それは「私をして虚心平気に、この世界に生死することを得しむる能力の根本本体」である、と。
 如来とは「真如(しんにょ)より来生(らいしょう)するもの」を言います。この「如」とは「ごとし」とも読みますが、「あるものが真にあるものの如くある」という意味です。天気には、良いも悪いもありません。草花には、瑞草(ずいそう)も雑草もありません。天気はその日、真にあるものの如くあって雨を降らせたり、陽の光を注いだりします。草花はやはり、真にあるものの如くあって大輪の花を咲かせたり、小さく地味な花を咲かせたりするものです。そこには、良し悪し好醜(こうしゅう)の別などありません。ただ、真にあるものの如く雨降らし花咲くだけです。
 しかし私たち人間は、必ずそこに良し悪し好醜の別を立てます。天気や草木だけにではなく、あらゆる物事に良し悪しの分別(ふんべつ)を立てます。それが私たちの日常の在り方なのです。自分の人生に対しても同じです。自分の都合に合わせて、善悪や幸不幸の分別を立てるのです。
 「如来を信じる」とは、そんな私たちに、あるものを真にあるものの如くに信知する道を指し示します。それは生を生として信知(しんち)することであり、死を死として信知することです。そこには善も悪もありません。全と悪は、私たち人間の分別の側にあるのです。老も病も死も、すべて私たちがあるものの如くにある姿です。あるべきものがあるべくしてあり、起こるべきことが起こるべくして起こっているのです。むその真の如くにあるものを悪と見なし、無かったことにしてしまいたいのは、私たちの分別であり執着(しゅうじゃく)なのです。そのように執着して止まない私たちは、自分や身内の死を受け入れられず、たとえば臓器移植という形で死を生に変えようとさえします。そしてそのために、他人の死を待ちわびたりもするのです。
 如来は常に私たちとともに在ります。しかし私たちは、そんな如来を信ずることができないものとして在るのです。
 清沢先生は「虚心平気に、この世界に生死することを得しむる」根本となるものが、如来であると言います。如来を信じると、安心して迷うことができるとおっしゃっているのです。如来など信じたくない者として在る私たちが、真に如来を信じることが出来る者となった時、私たちは安心して生死する事ができる身をいただくものであると、おしえて下さっているのです
                                            (木越 康)

                     1963年生まれ。京都府在住。大谷大学専任講師

真宗教団連合発行の2001年版『法語カレンダー』 5月の法語に対し、上記、木越氏による解説。 「今日(こんにち)のことば」 東本願寺 発行 第44集 より
 


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