黄檗宗・慧日山永明寺HP


 
黄檗宗の曙

この項では、黄檗山萬福寺が開創される経緯を知るための資料を読み解きます

〔凡例〕読みやすするため、敢えて原文を分割しています。


 
特諡大宗正統龍渓禅師語録巻之三 書啓



請 隠 大 師 書


〔解説〕
  龍渓性潜禅師は、妙心寺住持を二度も務めた僧です。


  その彼が、隠元禅師来朝の報に接するや欣喜雀躍、妙心寺住持に招請しようとしました。


  江戸時代初頭、京都五山は衰退し、五山十刹にすら入っていなかった妙心寺がめきめきと頭角を現していました。

  その妙心寺の住持が、何故、隠元禅師を妙心寺招請に動こうとしたのでしょうか。

  黄檗山萬福寺の開創も、黄檗宗の開立も全てはこの手書からはじまります。


  先ず龍渓禅師は妙心寺仙壽院禿翁妙宏和尚と相談し、竺印祖門を長崎に派遣しました。

  承応4(1655)年7月1日、竺印は、この龍谿の請啓を持参し、隠元禅師を普門寺に請招します。

  隠元禅師はこれを固辞したのですが、再三の懇請に大阪に向かいます。
 
  こうして渡来翌年の明暦元(1655)年9月6日、彼は高槻の普門寺に入ったのです。


〔原文1〕
  請隠大師書
  恭聞大禅師続臨済正宗董黄檗雄席平昔爲二萬指之犀顱囲繞某雖不敏竊知宇宙無雙日不意法旆忽入吾國吾國近古不聞宗師之来臨不見衲子之遠遊有志之士無不嗟嘆豈知而今法雲復古佛日囘光所謂如優曇鉢華時一現耳欣幸何量


〔和訓〕
  隠大師を請ずるの書

  恭しく聞く。 大禅師は臨済の正宗を續
(つ)ぎ、黄檗の雄席を董(とう)す。 平昔(へいせき)、二万指の犀顱(さいろ)の爲に囲繞せらる。

  某、不敏なりと雖も、竊
(ひそか)に知る宇宙に双日無きことを。 意(おも)わざりき法旆(ほうはい)忽ち吾が国に入らんとは。 

  吾が国、近古宗師の来臨を聞かず、衲子
(のっす)の遠遊を見ず。 有志の士、嗟嘆せざるなし。

  豈に知らんや、而今
(いま)法雲古に復し、仏日光を回(かえさ)んとは。 所謂(いわゆ)る優曇鉢華(うどんばらげ)の時に一たび現ずるが如きのみ欣幸何ぞ量らん。 


 〔大意〕   恭しくお聞きしています。  

  大和尚は臨済宗の正統を継がれ、黄檗山の重責を管理統括されてこられました。  

  日頃から二千人の優れた僧たちに囲まれておられたとお聞きしています。

  小衲は、浅学非才とは言いながらも、この宇宙には二つの太陽など無いことを知っています。

  想ってもいなかったことに、その大和尚が早くも我が国に来日されるなどとは。

  我が国ではここしばらく、貴国からの禅僧の渡来を聞いておりません。 

  また、日本の僧侶が中国に渡ったと言うことも聞いていません。 

  志を抱いた仲間がとても残念な気持ちになっていたことはなかったほどです。

  今こそ禅の教えを本来の以前の姿に戻さねばと思っている彼等のような仲間の存在をを、どうして知らないことがありましょうか。

  所謂三千年に一度花を咲かせるという優曇華の花に似て、大和尚渡来の好機がおとずれますように計画しないことがありましょうか。 計画しています。


〔注〕 【吾が国、近古宗師の来臨を聞かず、衲子の遠遊を見ず。】室町期以降、中国から禅を伝える唐僧の渡航も無ければ、国情で中国への渡航すらも出来なかったことを言う。


〔原文2〕
  伏願象駕早到邦畿雷化
行四裔至祝至如来普門無殿堂之説無寮舎之區破屋数椽纔庇風雨準稽古寺之風穴焉然若某等三四輩希望大法不顧躯命豈愧室廬之陋而不伸素志之誠乎伏冀尊慈昭此鄙懐速賜光臨無任激切屏営之至


〔和訓〕
  伏して願くは象駕早く邦畿に到り、雷化
く四裔(しえい)に行われんことを。 至祝至祷。 

  某
(それがし)が普門の如き、殿堂の設無く、寮舎の区無く、破屋数椽(すうてん)、纔かに風雨を庇(ひ)し、古寺の風穴に准稽(じゆんけい)す。 然れども某等の如き三四輩、大法を希望して躯命(くめい)を顧(かえり)みず。 豈に室廬(しつろ)の陋(ろう)に愧じて素志の誠を伸べざらんや。

  伏して冀
(こいねが)わくは尊慈、此の鄙懐(ひかい)を昭し、速やかに光降を賜い、激切(げきせつ)屏営(へいえい)の至りに任ずること無からんことを


 
 
 〔大意〕    伏して御願い申し上げます。

  大和尚の駕籠が一日も早くこの近畿に到着し、雷の如くその教化があまねく国の隅々まで行き渡りますことを。 

  その喜びの日の来ることを念じおります。

  小衲の普門寺などは禅堂等の設備も無く、本堂と庫裡との区別もない破れ小屋で、僅かに風雨を凌げる程度の古寺に甘んじています。

  とはいいながら、私たち同輩三、四人は、よりすぐれた法を得るためならば身命を顧みない気持ちですから、どうして部屋が狭いなどと言うことに恥じ、自分たちの大望を述べないなどと言うことがありましょうか。

  どうか御願いいたします。 大和尚。 

  この拙い思いを汲んでいただき、早くお越しいただき、私たちがおろおろすることのないように御願いいたします。


〔注〕 【古寺の風穴に准稽す】風穴延紹禅師の故事「碧巌録」第六十一則「風穴家国(かこく)興盛(こうじよう)・風穴若立一塵」に「建法幢立宗旨(法幢を建て宗旨を立すること)」衆生済度のために法を立てることを言う。






 
  
 
請隠大師普門開堂啓 

 


 
〔解説〕
  普門寺に入った隠元禅師は、当初軟禁状態でしたが、竺印禅師等の運動が功を奏し、京都所司代・板倉重宗の帰依も得て幕府の信任を得ます。

  その結果、明暦元(1655)年9月、普門寺晋山の許可が出ました。

  龍渓禅師は、禅堂を備える等、普門寺を整備し、隠元禅師の開堂を請拝します。


 
〔原文1〕
  請隠大師普門開堂啓
  伏以義空原始五千里外禅波乃揚明極要終三百年間祖焔無続不因西來宗匠爭得東振法幢



〔和訓〕
 
  隠大師に普門の開堂を請ずる啓

  伏して以
(おもんみ)れば、義空(ぎくう)始めを原(た)づね五千里外禅波乃ち揚る。

  明極
(みんき)、終を要す三百年間、祖焔、続くこと無し。

  西來の宗匠に因
(よ)らずんば、爭(いかで)か東振の法幢を得ん。 
  


〔注〕 【義空】平安時代前期、唐から渡来した禅僧。 嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后)により、義空のために吾が国最初の禅宗寺院として檀林寺が創建されたが室町時代に廃絶し、その跡地に天龍寺が建てられた。  【明極】明極楚俊のこと。 元の禅僧として高名な存在で、嘉暦4(1329年、天暦2) 年、大友貞宗に招請され渡来し、南禅寺等に住持した。

  〔大意〕   伏して想いますのに、義空が初めて五千里の道を渡来し、禅の波が我が国に伝わりました。

  しかし、その波も明極楚俊禅師でしめくくりとなり、三百年間祖師の炎は続くことは無かったのです。

  中国からの禅匠でなければどうして我が国の法を守り続けることが出来るのでしょうか。



〔原文2〕
  恭惟老和尚大方尊宿碩徳明耆金粟親承幾点文章成虎豹檗山久踞一条
栗定龍蛇団緇素三千聳出俊猊十五全機大用起済北築挙之風博辯宏才闡江西搊鼻之教咸謂繍口錦唇鼓吹人耳誰知釘嘴銕舌荼毒生霊語録先扶桑伝有志之徒仰景法麾果震旦離慕道之士雲臻丞相鈞旨奉延入普門仰大慈俯垂允開法會


〔和訓〕
  恭しく惟
(おもんみ)れば老和尚、大方の尊宿、碩徳、明耆、金粟に親しく承く。

  幾く点の文章か虎豹を成さん。 

  檗山に久しく踞る一条の
(そくりつ)、龍蛇を定む。 団(だんらん)たる緇素(しそ)三千、俊猊(しゆんげい)十五を聳出す。 

  全機大用、済北築挙の風を起し、博辯宏才、江西搊鼻
(しゅうび)の教を闡(ひら)く。 

  咸
(み)な謂(い)う繍口錦唇、人耳を鼓吹すと。 

  誰か知る釘嘴銕舌、生霊を荼毒
(とどく)することを。 

  語録先ず扶桑に伝わり、有志の徒仰景す。 

  法麾果たして震旦を離る。 慕道の士雲の如くに臻
(い)たる。 

  丞相の鈞旨を奉じ、延いて普門に入る。 

  仰ぐらくは大慈俯垂し、允
(まこと)に法会を開かんことを。 


  〔大意〕   恭しく想いますのに、大和尚、多くの高僧、高徳、経験豊富な方々が金粟山廣慧寺に集まったと聞きます。

  いくつかの詩偈が優れた禅匠を生み出しました。

  黄檗山には一本の杖が長らく龍蛇のように踞ったままで、3千人の僧たちと団欒を囲み、優れた弟子を十五人も輩出したと聞いています。

  臨済義玄禅師が済北に於いて大いに宗風を振るわれ、馬祖道一禅師が江西で鼻をつまむ教えを広げられた教えを開かれました。

  皆が言っています。 その巧みな詩作ぶりで、皆を奮い立たしておられると。

  その言葉が人民を苦しめ虐げるなどと誰が想いましょうか。だれも想わないでしょう。

  語録が先ず伝わってき、私たちの仲間は歓迎して読みました。 

  そうして、大和尚が渡来され、間違いなく禅の法が中国を離れて我が国にやってきたのです。

  道を求める僧たちがどんどんやってきました。

  将軍の命を受けられ、普門へお入りいただいたのです。 

  敬って申し上げますが、どうか開堂の法会をお開き下さい。

〔注〕 【済北】臨済義玄禅師は直隷省鎮州城東南隅の滹陀河畔の臨済院に住した。 院はその河の済(渡し場)に望むが故にその名を得たという。 即ち臨済は済北に於いて大いに宗風を振るった。 【江西】長江の西の地方のこと。 馬祖道一がこに禅を挙用して以来、石頭希遷の住んだ湖南と並んで禅の本場とされた。 【搊鼻】碧巌録第五十三則「百丈野鴨子」の故事をさす。馬祖が百丈の鼻をつまんだこと。
〔原文3〕
  願展断際一雙無事手振起空門下衰早鞠趙州六十華甲躬祝延邦国鞏祚唯冀即臨猊座一会儼然艸木以均沾得曷勝感戴之至謹啓
 


〔和訓〕
  願くは断際一雙無事の手を展べて空門の下衰を振起し、早く趙州六十華甲の躬を鞠(きく)して邦国の鞏祚を祝延せんことを。 

  唯冀
(ねがわ)くは即ち猊座に臨み、一会儼然として艸木以って均しく沾うことを得ん。 

  曷
(な)んぞ感戴の至りに勝(た)えん。

  謹んで啓す。


 
 〔大意〕    願わくば、断際禅師とともに手をさしのべていただき日本の禅門の衰えを止め振興していただきたいのです。

  趙州従諗禅師にも似て六十一才の身体を押して一日も早く我が国の仏法の基を固めお祝いしていただきたい。

  唯、御願いするところは猊下の座に登っていただきたいということです。

  そうすれば、草木全てが確かに潤うことが出来るでしょう。どうして感激しないことがありましょうか。

  謹んで、申し上げます。

〔注〕【華甲】六十一歳のこと。 この時、隠元禅師は65才であった。



 



 
 

  請開山老和尚開堂啓  

〔解説〕

  宗祖は、四代将軍家綱公から宇治に寺地を賜り黄檗山萬福寺を開創されます。

  寛文元(1661)年閏8月29日晋山されましたが、この時点では、まだ円通殿(のちの法堂)の建設にとりかかったばかりでした。

  龍渓は法堂の開堂を待つばかりとなり、祝国開堂式を挙行するよう招請します。 それがこの請啓文です。

  寛文2(1662)年1月15日祝国開堂が厳修されます。

  龍渓性潜禅師等の努力によって、遂に五山格の黄檗山が開創されたのです。


 
〔原文1〕
  請開山老和尚開堂啓
  伏以創蕭寺而作解脱場無加中和皇后之遺趾築檗峰而割膏腴地不譲裴休相公之帰崇正宣出世宗師首為開山鼻祖恭惟老和尚名邦尊宿法海津梁発揮大用大機續臨濟四八世之系統罵倒半行半坐起扶桑三百年之頽風當稱從上正傳豈比今時監習


〔和訓〕
  開山老和尚に開堂を請うの啓

  伏して以
(おもんみ)れば、蕭寺(しようじ)を創めて解脱の場と作す。 

  中和皇后の遺趾に加
(し)くは無し。 

  檗峰を築いて膏腴
(ごうゆ)の地を割き、裴休(はいきゆう)相公の帰崇に譲らず、正に宣しく出世の宗師、首(はじ)めて開山鼻祖と為るべし。 

  恭しく惟
(おもんみ)れば老和尚、名邦の尊宿、法海の津梁、大用大機を発揮して、臨済四八世(しはっせい)の系統を続ぎ、半行半坐を罵倒して扶桑三百年の頽風を起こす。 

  当に従上の正伝と称すべし。 豈に今時の監習に比せんや。


  
〔大意〕   伏して想いますのに、将軍の尊崇を得て寺院を開創され解脱の場としていただくこととなりました。

  中和門院がお住まいをされた跡地ほどふさわしい場所はありません。

  黄檗山という山を築くために肥沃な土地が開かれ、黄檗希運禅師を支援された裴休相公の帰崇に勝るとも劣りません。

  まさに進んで開山鼻祖となられますことを。

  恭しく想いますが、老大和尚は、この国の重要な尊宿でおられますが、仏教会の橋渡し役でもおられます。

  禅の働きを発揮され、臨済三十二世の法系を嗣がれ、未熟な禅修行を罵倒していただき、日本禅界の怠惰な風潮を奮い起こしてくださいました。

  正に臨済の正伝にふさわしいと言えます。 

  どうして今日のしきたりに配慮しないなどと言うことがありましょうか。


〔注〕 【臨済四八世】四掛ける八、つまり隠元禅師が臨済義玄禅師から数え、第三十二世を嗣いだことを指す。 【扶桑三百年之頽風】日本伝来禅宗二十四派が伝わったのは、この手紙が書かれた三百年以上も以前のことで、以降、大陸からの禅の伝来は途絶え、崩れすたれた禅界の状態を憂え、それを立てなおして欲しいことを言う。 


〔原文2〕
  
西嶺月東嶺日日月相望而證明上元開堂北山雨南山雲雲雨奔騰而助揚初會説法直得萬松止響雙鶴遙聞門臨万福之星天降五雲之慶惟祈法眼遐瞻早應東君之鈞命慈心不捨
垂一衆之葵忱臨楮惶曷勝景仰謹啓



〔和訓〕
  西嶺は月、東嶺は日、日月相い望みて上元の開堂を證明す。 

  北山は雨、南山は雲、雲雨奔騰して、初会の説法を助揚す。 

  直に得たり、万松響きを止め、双鶴遙かに聞くことを。 

  門は万福の星に臨み、天は五雲の慶を降す。 

  惟
(た)だ祈る。 

  法眼遐瞻
(かせん)して早く東君の鈞命に応じ、慈心を捨てず、(ちよう)して一乗(いちじよう)の葵忱(きちん)を垂れんことを。

  楮に臨み恛惶す。 曷んぞ景仰に勝
(た)えんや。 

  謹んで啓す。


 
〔大意〕    月は西に、日は東にと言いますが日月ともに相和すが如く、日中呼応して一月十五日の開堂を確認いたしましょう。

  北山には雨が、南山には雲が湧き起こり、大和尚の開堂の説法を支えています。

  たちまち分かるでしょう。

  境内の松が騒ぐのを止め、大和尚をお迎えした二羽の鶴も遙か向こうで聞き耳を立てています。

  門は萬福の星に向かって開かれ、天は五色の色で喜びを表しています。

  唯祈るばかりです。

  法眼を大きく上に向けて開かれ早く将軍の命に答えられ、慈悲心を捨てずに真心を述べてくださいますことを。

  この書を書くに当たって心が落ち着きません。

  どうしてこの喜びに堪えることが出来ましょうか。

  謹んで申し上げます。 


〔注〕 【西嶺は月、東嶺は日】「西嶺は月」は古黄檗を指し、「東嶺は日」は新黄檗を指す。



 

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