黄 檗 辞 典 
HPトッフ あ~え   か~こ さ~そ た~と な~の は~ほ ま~も や~わ 凡 例

 
   
  やくせき(薬石)
    夕食のこと。 中国では昔、禅僧は朝、昼の二食生活を行っていたが、いつの頃からか「薬」代わりと称して夕刻に食事をする習慣が出来、この名称が使われ出したと言われる。
  そのいわれというは、中国では、焼いた石で腹を温め、薬代わりに用いる習慣があったといい、もともとこれを薬石と称したという。 懐石あるいは会席というのもここから出たという。 →〔林春隆著「隠元国師と禅門の食制」〕


   
   
   
   
  やま(山) 
   

   施餓鬼法要に際し、餓鬼壇の両側に、竹で編んだ籠を設え金銀、衣服等の資財に見立てたもの。
  籠にはお金や衣服を記した紙(多くは木版で刷った物)を貼り付け、上に「金銀山」あるいは「衣銭山」と記した紙牌(しはい。→)を吊した笹をさす。 この「山」は法要の終盤で「疏(しょ。→)」とともに燃すことになっているが、これは餓鬼衆に物欲を捨てるようにと、諭す意味が込められている。



   
  やまがりゅう・じんだいこ(山鹿流陣太鼓)
    儒学者であった山鹿素行は、隠元禅師と面談し、また木庵禅師に参禅したことがある。
  黄檗山に於いて、かつて聞いたことのない「七五三の刻み打ち」(→) の開枕太鼓(→)を聞き、この打ち方を陣太鼓に取り入れればきっと志気を鼓舞できるに違いないと考え考案したのが「山鹿流陣太鼓」だと伝えられている。 ただし、根拠立てるものはない。
  なお、赤穂藩の大石内蔵助が討ち入りの際に打ち鳴らした陣太鼓が、この陣太鼓であったと言われているが、今日ではそのような事実すらなかったと明確に否定されている。
  ただし、内蔵助が山鹿素行から兵法の指南を受けたのは事実であるから、山鹿素行 = → 木庵 =→ 黄檗山 = → 開枕太鼓 = → 山鹿流陣太鼓 = →内蔵助= →討ち入り、と言う図式が成り立ち、成る程と思わせるような愉快な話ではある。


  ヤンツー(楊子)
  演浄儀(えんじょうぎ。→)で用いる香讃の冒頭語句は「楊子浄水(ヤンツーチンスイ)」であり、「ヤンツー」と言えば、演浄儀のことを指すようになった。


 
   
 
  ゆいかい(遺誡)
  「宗祖真空華光大師遺誡」(→)のこと。

 
  ゆいげ(遺偈)
    禅僧が示寂直前の境涯を詩偈に託し遺した書のこと。
  宗祖・隠元禅師の遺偈をはじめ宗門僧侶の有名な幾編かを下欄に掲載する。

  ◇ 宗祖・隠元隆琦禅師
     西来楖栗振雄風 幻出檗山不宰功 今日身心倶放下 頓超法界一真空
        西来の楖栗(しつりつ)雄風を振う 檗山を幻出し功を宰せず
        今日身心倶に放下し 頓に法界を超え一真空

  ◇ 鉄眼道光禅師
     七転八倒五十三年 妄談般若罪犯彌天 優游華蔵海 踏破水中天
        七転八倒すること五十三年 妄りに般若を談じ罪犯 天を彌る
        華蔵海を優游し 水中天を踏破す

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  ゆいしんのじょうど・こしんのみだ(唯心の浄土 己身の弥陀)
    黄檗宗・宗制第一章第五条・教義の段に出てくる言葉で、「本宗は参禅を以って仏心を究明し、唯心の浄土、己身の阿弥陀仏を体得し禅教一如により転迷開悟 安心立命を期するを教義とする。」とある。
  「唯心の浄土 己身の弥陀」という言葉は、中国では元時代あたりから使用され始め、後には念仏と禅との混淆を意味し、ともすれば、禅そのものの本来的な思想内容のようにも使用されてきている。
  本来、禅は基本的に 『不立文字 教外別伝』 といわれ、禅自身の教義を簡潔に表現する言葉などはあり得ないものである。 言い換えれば、教義と言う言葉すらも無く、浄土も阿弥陀もないし、唯心も己身もないはずである。 しかし、現実の人間の一生は、生と死、喜と怒、哀と楽といった絶対矛盾にあり、またこの矛盾が即解消につながっているのである。
  つまり、この「唯心の浄土 己身の弥陀」という言葉の中には、最も禅的な「絶対矛盾の自己同一性」が認められるといえよう。 
  臨済録に言う「一刹那の間に便ち浄に入り穢に入る。」である。
  もともと文章化し難い「禅」を文章化し、教義として据えざるを得ないこと自体に無理があるが、宗教法人法で各教団の教義の明文化を求められていることによるために、敢えて用いられた言葉と理解すべきである。 
  →〔「黄檗宗宗制・教義」〕、〔「費隠禅師とその著五燈巖統」〕、ほか。


  ゆうせいけん(有聲軒)
  煎茶道の茶席として昭和3(1928)年、塔頭法林院住持・福山朝丸禅師(号・暁庵)の主唱によって創設された煎茶道専門のお茶室。 北向単層瓦葺。 中国風趣向の庭が設けられている。
  「有聲軒」の名称は、禅語「庭前有月松無影 欄外無風竹有聲」(事文類聚)から名付けられたもの。
  ここでは、毎月、全日本煎茶道連盟に加盟する各流派の宗匠によるお茶会が設けられている。


 
   
  ゆがえんこう・かはん(瑜伽焔口科範)
    宗門の施餓鬼法要で用いる経本名。 雲棲袾宏(うんせいしゆこう)禅師が著述した上下二巻からなる経本で、口に咒を唱え、手に印を結び、心を観相する顕密両具の法式となっている。
  全巻を厳修すると六時間近くにもおよぶ大法要であるが、今日では、大別し、大施餓鬼、蒙山(もうざん)施餓鬼の別ができ、蒙山は概ね三時間程度の内容に縮められている。 また経本版元の違いで柏巌版、華蔵版がある。 


 
  よう こうこう(葉 向高 15591627
    古黄檗重興の貢献者。 字は進卿、中国福州府福清県の人。 万暦11(1583)年、進士に及第、万暦35(1607)年、礼部省兼東閣大学士に抜擢され、翌年主輔となった。 光明忠厚な人柄と人望が厚く、万暦帝の信頼も厚かったが、万暦40(1612)年の春、進言が聞き入れられず、辞意を表明し蟄居したが、その後再び主輔に復帰した。 万暦42(1614)年2月、万暦帝の生母・慈聖皇太后が逝去され、大蔵経が全国六ヶ寺に下賜されることとなり、葉向高の努力により、その一つが郷里の黄檗山万福寺へ下賜されることとなった。 さらに彼は、黄檗山の重建、蔵経閣の建立等にも貢献した。 またこのことは、明朝政府と黄檗山万福寺とが強い絆で結ばれる機縁となった。
  その後、光帝(泰昌帝)、熹宗(天啓帝)に相次いで召され、再び主輔となったが、天啓4(1624)年致仕し、天啓7(1627)年に没した。 〔林田芳男著「明末における福州の仏教」文華第114号〕


   
  よしなが・うたろう(吉永卯太郎 1881~1964 
    黄檗宗の研究家。姓は吉永、名を卯太郎、号を禺山、雪堂という。 
  明治14(1881)年8月26日、豊前松ヶ江村吉志(現北九州市)に生誕。 明治27(1894)年私塾晩翆塾に入塾し、同30(1897)年修了。 東京へ遊学後、同37(1904)年、企救郡立馬島小学校教師となる。 39(1906)年、門司新報記者として3年在職の後、社友として活躍する。 その後黄檗宗史及び企救郡史の研究に専念した。 昭和28(1953)年、門司市嘱託となり、門司郷土叢書の著述・編纂を行うようになり郷土史研究に傾倒し、黄檗宗史や日中文化交流の史実にも没頭するようになった。
  宗門独特の建築史、絵画、書道史に精通し、全国を行脚。 その研究成果により名は宗門内外に知られることとなり、その貢献に対して大正10(1921)年7月15日、時の甘露堂四十八代大雄弘法から絡子が贈呈された。
  晩年は門司市郷土叢書の著述に専心し、福岡県知事から文化功労者として表彰されている。 昭和39(1964)年4月29日急逝。 行年84才。 全生涯をかけて収集された黄檗関係資料、文献は、一括して本山に寄付され、現在文華殿に保管されている。 著書に黄檗叢書として「黄檗の話(1)~(六)」等がある。 同世代の黄檗研究家として山本悦心(→)があり、「東の悦心 西の雪堂」として自他共に認めるところであったという。 →〔「檗林集」〕


   
   
   
  よしょくご(豫嘱語)
    隠元禅師著「老人豫嘱語」のこと。 黄檗山万福寺のありよう、歴代住持のありよう等、将来にわたる万福寺の運営管理についての規約を記したもので、檗門の基本方針となった。 後に黄檗清規(→)の末尾に編入編纂された。


  よつじゃんこん(四上供)
  上供(→)は六本を基本とするが、卓が狭いと乗せきれないことがある。 この場合は、四本として左右二本ずつでも良しとされている。


 
  よんぷくじ(四福寺)
  →(長崎四福寺)


 
   
 
  らかんほう(羅漢峰) 
    古黄檗十二峰の一。


   
  ラゴ
    羅怙羅(ラゴラ)尊者のこと。 尊者は釈迦の嫡子であったことから、宗門では転じて寺院の跡取り息子のことを隠語的に「ラゴ」と称して用いている。


   
 
  りっぱい(立拝)
  起立合掌し、低頭する挨拶方法。 袈裟を着用するときは、座具を両手親指と人差し指の間にかけ合掌低頭し、三拝ないし一拝する。 改良衣等、略衣の時は、親指と人差し指の間に朱扇を挟み礼拝する。


 
  りはくかんばくせき(李白観瀑石) 
    高士観瀑石(→)


 
  りゃくしき・しゅっとう(略式出頭)
  法要時において、役位、法階に関係無く、定められた衣体でなくとも許される出頭をいう。
  ただし、この場合にあっても和尚分上は色衣であることを原則とする。<対・正式出頭>


 
  りゃくねんきん(略念経)
  猛暑の期間中等、勤行時間を短縮する場合があり、一定の経文の誦経を割愛することを言う。


  りゃく・もくぎょ(略木魚)
  通常の三通木魚(→)に対する、二通木魚(→)のこと。


 
   
  りゅうぐうもん(竜宮門)
  黄檗山の建築様式を中国風と印象づけるうえで、中心的な役割を果たしているのが窟門と称される門であり、中でも有聲軒周辺の門は、さながらおとぎ話に出てくる竜宮の門ではないかと感ぜられることから、誰言うとなくこの名称で呼ばれている。


 
   
   
  りゅうもくせい(龍目井)
    黄檗十二景の一。 黄檗山総門前広場にある左右二カ所の井戸のこと。 寛文元(1661)年冬、隠元禅師が掘られた井戸で、自らこれを「山に宗(そう)あり水に源あり 龍に眼(まなこ)あり 古に耀き(かがやき)今に騰(あが)る 雲を興し雨を致して 以て民時(みんじ)に及ぼす 源頭(げんとう)澄徹(ちようてつ) 昼夜 間(かん)を靡(はい)し 以て民の用とするに足る故に名く」と記されている。 
  黄檗山の伽藍配置を俯瞰した場合、あたかも龍が地を這うが如くに設計されており、丁度この井戸が龍の目玉に当たるところからこの名が付けられたとの言い伝えがある。 なお、周辺の小川は口を、松は髭を、石條は背骨を表象したものとされている。 →〔渓道元著「黄檗案内」〕  
 

    

隠元禅師の序文に曰く
   龍池正脉鐘黄檗 
   豁出門頭両眼開 
   収拾森群群秀気 
   円明徹底本源来 

 龍池(りょうち)の正脉(しょうみゃく) 
       黄檗に鐘(あつま)り
 門頭 豁出(かっしゅつ)して 両眼開く
 収拾たり 森群(しんぐん) 群秀の気
 円明(えんめい)徹底 本源より来る
 


   
   
  りょうおうぜんじ・さんか(了翁禅師賛歌)
    了翁禅師賛歌は、相撲甚句で、相撲ファンである了翁禅師研究会事務局次長・高橋三男氏が作られたもの。 平成二十年、来山の際に披露されたもの。
  【前唄】
   √アー ドスコイー ドスコイ
       咲いてヤー  牡丹と 言われるよりも 散りてヤー 桜と わしゃ言われたい
  【本唄】
   √アーアーーーエ  名僧 了翁さんを 甚句に詠めばヨ
   √アーアー  時は 江戸期の初め頃  寛永・宝永年間 生を受けしは出羽湯沢
      八幡時代は孤児となり  めげず出家し大望抱き
        修行行脚の寺々は 北は秋田の天徳寺 南は長崎崇福寺
       隠元禅師に参禅し 黄檗禅をば学び居り 我が身傷つけ荒行苦行
         霊薬妙薬発明し 「錦袋円」の店構え 上の池之端大賑わい
           手にした金子は経典と 慈善事業に注がれる
        仏陀の教えの菩薩行 ひたむき一途に勤め行く 勧学院の学問所
          併せて広く図書閲覧 これが日本で初めての 公開図書館と讃えられ
            歴史に刻む所以なり  さらに仏典「大蔵経」 お経の中のお経を集め
           天台・真言・禅宗の 宗派を超えての寺と寺 納経すること二十一
             仏陀のみ教え 人々の 糧とすべきとひたすらに  願い続けた七十八年
   √これぞ了翁さんの ヨー ホホイ  アー 業績 ヨー 


  りょうけいしょうせん(龍溪性潜 1602~1670)
 
  道号は龍溪(溪は谿とも。 旧号・宗琢。 法諱は性潜(旧諱・宗潜。臨済正宗第33世)、如常老人とも称す。
  慶長7(1602)年7月30日、京都に生誕。 俗姓は奥村氏(父・奥村清一郎)。 摂津・普門寺筹室玄勝について得度、臨済宗妙心寺霊雲派僧として、紫衣事件では難派・伯蒲慧稜の懐刀として活躍した。 慶安4(1651)年と承応3(1654)年の二度にわたり妙心寺住持に就いている。
  隠元禅師の渡来後、はじめ妙心寺への招請に動いたが果たせず、その在留に奔走し、隠元禅師のための新寺建立に献身した。 その結果、黄檗山萬福寺の建立に結実し、この龍溪禅師の「黄檗山造営事業」は、鉄牛の「椿沼干拓事業(→)」、鉄眼の「一切経開刻事業(→)」、了翁の「図書館開設事業」とともに「黄檗四大事業」として賞讃されている。
  その後、寛文4(1664)年、隠元禅師の法を嗣ぎ、隠元禅師最初の和僧法嗣となった。 
  一方、後水尾法皇と親交があり、法皇のために碧巌録の進講を行い、その内容は『請益録』(しんえきろく。のちに『御版宗統録』と改称。)としてまとめられ、寛文9(1669)年に後水尾法皇から
『大宗正統禅師』号の謚号を授与された。  
  龍溪と鉄牛の二人は、宗門内で「禅師」号を下賜された特別な存在であったことから、後に「二禅師」と称されている。

  龍谿禅師は実に宗門確立の第一功労者であり、黄檗山住持となることはなかったものの、準世代に列挙されている。 また、塔頭萬松院を開き、萬松派開山としても宗門拡大に貢献した。
  寛文10(1670)年8月23日示寂。世寿69才。 遺偈 『三十年前恨未消 幾回受窟爛藤条 今晨怒気向人噀 喝一喝 却倒胥江八月潮』 。
  塔所は塔頭・万松院(天光塔)。 住職地は高槻・普門寺、資福寺、滋賀日野・正明寺等。嗣法者は円浄道覚(後水尾法皇のこと)、光子内親王等。著書に『龍溪和尚妙心普門二会語録』1巻、『特謚大宗正統龍溪禅師語録』3巻、(原名『法輪請益録』)、『般若心経口譚』がある。 参考書として中尾文雄著『龍溪禅師の生涯と思想』九島院蔵版等、多数。


   
  りょうげいん(龍華院) 
    妙心寺塔頭の一院。
  隠元禅師渡来時に、その入国のため奔走していた妙心寺派僧・竺印祖門が、その方途について直訴し、幕閣と協議していたところ、「智慧伊豆」と称された老中松平信綱が「あなたの住持する寺はどこか。 無ければ話も進まないからすぐ建てよ。」と助言したという。

  竺印祖門は、この助言によってすぐ塔頭を建てたといい、これが龍華院である。
  黄檗外記に記載されている逸話である。


 
  
  りょうごんしゅう(楞厳咒)
  「大仏頂如来密印修証了義諸菩薩万行首楞厳経」第七巻末尾に収録されている陀羅尼である。
  宗門の日用勤行集である「禅林課誦」には「大仏頂首楞厳咒」という名称で収録されている。
  黄檗清規には、毎朝勤行で唱えるようにと書かれているが、時間がかかることから、今日では、宗祖忌に唱えられる程度になってきている。
  現代語訳や解説を記した書として、木村得玄著「楞厳咒」(春秋社発行)がある。


  りんがい(輪外)
  輪流十三院(→)以外の塔頭のこと。


  りんざいしゅう・おうばくは(臨済宗黄檗派)
  隠元禅師が唱道した教えは、歴とした臨済禅であったが、旧来の臨済宗と区別するためにこの名称が使われだしたという。
  ただし、この言葉を最初に使い出したのが、檗僧自身であったのか他の臨済各派からであったのかは判然としていない。


  りんざいしょうしゅう(臨済正宗)
  黄檗宗が、臨済宗の本流、即ち臨済義玄禅師の宗旨を正しく伝える宗派であることを内外に明らかにするために、この呼称を用いたとされ、宗祖はじめ、宗門僧の墨跡の冠帽印にはこの呼称が用いられた。
  しかし、幕府がこの呼称を認めていたかどうかは疑わしい。
  費隠禅師が『五燈巖統』(→)を出版し、また黄檗派が新たに『黄檗宗鑑録』(→)を発行したのも、この来歴を明らかにする事にあったと言える。


  りんのう(臨黄)
  臨済宗と黄檗宗のこと。 この名称が使われるようになった時期は定かではない。


 
  りんる・じゅうさんいん(輪流十三院)
    隠元禅師没後の寛文13(1673)年、法孫が議定し、禅師の隠居所である松隠堂(「別院」、当初「開山塔院」とも称されていた。)は、塔頭の内から特定の塔頭(→)十三院が輪番制で管理することを決定した。 この塔頭名を総称してこう呼ぶ。 「輪中十三院」と呼ぶこともある。
  十三院とは、瑞光院(→)、萬松院(→)、東林庵(→)、華蔵院(→)、漢松院(→)、法苑院(→)、慈福院(→)、法林院(→)、紫雲院(→)、宝蔵院(→)、景福院(→)、華厳院(→)、宝善庵(→)の十三院をいい、万寿院と獅子林院は特別扱いされ、当初から除外されていた。
  これら十三院の塔頭が、特に開山堂護持の中核的重責を担わされていたとされ、これらの住職のみに二枚円座が許されていたのである。 また、彼らにのみ塔主(たつす。→)となる資格が付与されていたものである。
  塔主の交代時期は、「黄檗清規」により毎年7月19日と規定され、一年交代を基本としていたが、いつの頃からか二月末の交代に変更され、現在もこの制度が存続されている。
  なお、塔頭は、本山創建時から徐々に増え、最大時には三十三ヶ院有ったとされ、これら十三院以外の塔頭は、輪外と呼び区別された。 漢松院、法苑院、景福院、華厳院は現存しない。→〔坂本博司著「万福寺の塔頭に関する覚書」文華118号ほか〕



   
  ルーヒャン(爐香)
    最もよく用いられる香讃(→)の一種。 「爐香讃」と称されるもので、出だしの言葉をタイトル代わりの呼称としている。


  るりとう(琉璃燈)
   ① (灯具) 六角形をした中国製吊灯籠。周りを薄地の絹や繻子、絽を張った木枠で囲み、灯具本体が消えないように瑠璃(ガラス)製の覆いで覆っているのでこの名がある。 常時吊り下げ式の固定型と必要の都度、随時組立る移動型とがある。

  右図版は法具として清規に掲載されている琉璃燈。

  
② (書名) 宗門布教師会が発刊する法話シリーズの冊子の題名。


 

 
 
 
  れっぱん(列班)
    法要時等、雁行する際に、法階(→)順に東序、西序別(両序→)の二列に並ぶこと。 この場合、先頭に向かって右側を東単側(→)、左側を西単側とよび、法階上位を先頭に並ぶ場合を上首先行(ジヤンシユセンヒン。→)と言い、下位から並ぶ場合は末位先行(マウイセンヒン)(→)などと呼びならわしている。
  なお、この並び方は、中国古来の思想に大きく由来すると考えられている。 つまり、天子南面の思想が先ず有り、天子から見て左が上位(天子に向かっては右、つまり東側上位)の考え方である。


  れん(聯)
    建物入り口の両側の柱に掛ける対句の詩句を書いた柱飾り。
  黄檗山の聯は、質、数ともに他の禅宗寺院をはるかにしのぎ、聯44対、額40枚が昭和34(1959)年12月18日付けで国重要文化財に指定されている。 
  昭和14(1939)年10月24日、秋艸道人(しゆうそうどうじん)こと会津八一は黄檗山に参詣し 『わうばくに のぼりいたれば まづうれし もくあんのれん いんげんのがく』 の一首をしたためている。

  聯の鑑賞方法は人それぞれである。 字の書体に想いを致す人もあれば、その作詩の魅力に惹かれる人もあろう。
  右の図版は、黄檗山総門(漢門とも言う。→)にかかっている、参詣者が最初に目にする聯の臨書である。

  右の聯には 「宗綱済道重恢廓(宗綱(しゅうこう)済道(さいどう)重ねて恢廓(かいかく)」し ・・・・吾が宗門の大切な臨済禅の教えが、ここに再び重ねて広く唱えられ)」と書かれ、左側には 「聖主賢臣悉仰尊(聖主(せいしゆ)賢臣(けんしん)悉く仰尊す ・・・・この教えを聞かれた天皇をはじめ、優れた臣下の方々が皆、心から仰ぎ尊んでいる)」 と書かれている。
  この聯の文字は、万福寺第五代住持・高泉禅師の筆になる。 高泉禅師は、第一義(→)の項でもふれた様に、詩偈に優れたうえ能筆家でも知られた方である。 是非、現地で直に目に触れていただきたいものである。 →〔中尾文雄著「黄檗山の聯と額」、福山朝丸著「聯額集」、「黄檗山の聯と額」禅文化第18号〕
  


 
  れんとうどう(聯燈堂) 
    本山堂宇の一。


 
  れんとうどう・ぎん(聯燈堂銀)
    聯燈堂が建設された寛政元(1789)年、本山当局は将来の維持に供え全国末寺から「香燈銀」と呼ばれる経費を献納させ、また顕法者からも納金を求めた。
  この聯燈堂香燈銀は、聯燈堂の法要はもとより香燈の経費として使われることが建前であったが、本山堂宇の修理費が嵩み、天真院納金に依存することが出来なくなってきたので、新たな財源として使われることとなったという。 →〔平久保章著「江戸時代に於ける万福寺の修理費について」〔近世仏教史料と研究〕8号〕



       
       
       
       
   
  ろうじん・よしょくご(老人豫嘱語)
    「老人」とは言うまでもなく「開山老人」即ち隠元禅師のことである。
  宗祖が松隠堂に退院され間もない時期に、黄檗山万福寺のありよう、歴代住持のありよう等、将来にわたる万福寺の運営管理についての規約を記されたもので、「予嘱語」と略称される。 これが檗門運営の基本方針となった。
 なお、この中で、宗祖は、酒井忠勝公から「かつて多くの唐僧が渡来したが、二、三代で後継者が絶たれている。 新寺の住職は、唐僧が代々嗣ぐように」との助言を得ていたことを記し、歴代住職は唐僧が就くようにと記している。
 この遺命によって、黄檗山の歴代は130年の長期間、唐僧が就任し、これによって、黄檗文化(→)が発信され続けた。
 後に黄檗清規(→)の末尾に編入編纂された。


   
  ろくふざ(六扶座)
    施餓鬼法要に於ける導師を補佐する6人の役僧をいう。 即ち、大扶座(維那)、向扶座、相扶座(悦衆)、相扶座(副悦)の四扶座に繞鉢2名を加えた6人を言う。 なお、香燈士(ヒャンテンス)は、趺坐には加えない。 →〔名数〕


  ろく・コンヤン(六供養) 
    なまって、「ろっこんやん」と称される、施餓鬼法要における、六波羅蜜を表現する密行印のこと。 花(ファー)、香(ヒヤン)、灯(テン)、塗(トー)、果(コー)、葉(ヨー)を言う。 なお他宗と同様に、指の組み方については伝授により違いがある。  →〔名数〕


  ろこうさん(爐香讃) 
    ルーヒャン(「爐香」。→) 


 
  わそう(和僧)
    唐僧(→)に対して、日本人僧のことを言った言葉。


   
  ワンペェ(黄檗)
     「黄檗」の唐韻(→)読み。 近年ではほとんど使われなくなったし、また知っている僧も減少しつつある。



   
   
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