黄檗宗・慧日山永明寺HP

 
黄檗宗慧日山永明寺沿革 


 地元の人も知らない 滋賀県内屈指の 明朝風禅宗寺院

 
 

   山   号    慧日山 ( えにちざん ) [ 当初は萬松山 ( ばんしょうざん ) ]

 

   寺   号    永明寺 ( ようめいじ )

 

   宗   派     黄檗宗 ( おうばくしゅう ) [ 禅宗の一派 ]

 

   御 開 基 
          
巖佐九兵衛直次   山根孫六郎由茂   岩佐忠五郎直廣
 〔参考〕  巖佐家は、全国巖佐(岩佐)姓の三大ルーツの一とされています。 巖佐家、山根家とも、名  字帯刀を許された家柄でした。 もともとは、武士の身分だったようで、特に巖佐家の始祖は西行法   師と従兄弟の間柄にあったことが記録に残されています。 なお、山根家は後に分家し、それ以降、   四檀家と称しています。


 
   御 開 山



勧 請 開 山    鉄牛道機禅師
  (左写真・当山蔵、乾漆像)


開山(第二代)  独心元寂禅師

 
    歴  史
  寛文4(1664)年、当山は現在地より約2キロ東の酒塩谷(さかしおだに)に建立されました。 しかし山津波のために14年後に倒壊し、中山道の街道筋に移転をしました。ところが、ここは俗塵に近すぎることから、また発生した水害を機会に現在地に移転しました。 寛延元(1748)年のことです。
  移転したものの本堂は手狭なことから、天明6(1786)年、新たに本山である黄檗山万福寺にならった明朝風の現本堂を建立し、先に移転した本堂はその後、書院や庫裏として使用されています。
  [参照] 当山の詳しい歴史を知りたい方は、別頁 「当山の歴史」 をご参照ください。


 
    大 雄 宝 殿
    黄檗宗では、本堂のことを大雄宝殿(だいおうほうでん。→)または大殿と呼び慣わしています。
  現本堂は天明6(1786)年に落成しました。
  本山の黄檗山(宇治市)にならい黄檗様式(明朝風)の構造です。

  総欅作り、屋根は重層構造、扇垂木、本葺きで、内陣は、漆喰土間です。
 

 

    御 本 尊
        釈迦三尊像           
   
 


↑ 本尊・釈迦如来
 


脇侍 左・阿難尊者
 

↑ 脇侍 右・迦葉尊者
 

    住  職
  当山は、開山が 鉄牛禅師 であることから、その法系(長松派下)の僧が名を連ねていましたが、今日では他の法系の僧も住持に入っています。 因みに現住職は、鉄眼禅師法系の宝蔵派下です。
  歴代住職は別掲


 
   寺  宝
  住職不在の時代が断続的に続き、貴重な文物が散逸したようで、特に寺宝と言うほどのものはありませんが、挙げるとすれば下記のものがあります。
◇ 木庵禅師画像 〔木庵自讃 111.3×44.6。 栗東市歴史民族博物館預託中。〕
◇ 毘沙門天三像 (室町期・至徳年間(足利義満時代)作と伝える。 脇侍は地蔵菩薩像と不動明王像)
◇ 高泉禅師周郁禅師贈答書額 〔黄檗文華殿寄託中〕 
   (黄檗宗第五代高泉禅師と天竜寺第二百七代周郁文禮禅師との禅問答の書簡を額装したもの。) 
◇ 狩野永真筆 「達磨半身図」、「唯摩居士図」(対幅)
◇ 大涅槃図掛軸  彦根藩絵師・小武半四郎陳江画  (兆典主下絵。幅3.10m×丈3.74m。)
◇ 鉄眼版一切経六百巻 (榮林尼寄進)
◇ 「道士嘯之図」衝立   幕末の彦根藩絵師・広瀬柏園筆(丈185.5p×幅139.7p)
◇ 「千江有水千江月 萬里無雲萬里天」木額   道者超元禅師筆



 
   境 内 案 内
  現在地への移転経緯や当時の顛末を記録した慧日山引地建立留書」(1741〜)からは、江戸時代の寺院建立の難しさが読んでとれます。
  この記録の中には、当初計画図面 (別添) が残されていますが、全完成を見ないまま今日に至っています。 
  なお、もう一枚の 明治絵図 は、明治30年に出版された「近江寶鑑」に掲載された当時の境内の様子です。 現在、鐘楼は失われていますが、石垣の土台はほとんど元のままの状態をとどめています。




 
境内見所
    以下は、当山境内の主な見所等です。
 ◇ 宝生寺跡地     
    現寺院地先は、宝生寺という寺院の跡地です。
 ◇ 番匠垣内(ばんしょう がいとう)遺跡
    「番匠」とは大工さんのこと、「垣内」とは集落のことです。
    昔は大工さんだけが特権階級として集落を造ることを許されていたようで、その遺跡が、現境内北側にあったようです。 
 ◇ 禁牌石(きんぱいせき)
    参道の入り口にある、ご存じ「葷酒山門に入るを許さず」と記された石碑です。 
    戒律を重視する黄檗宗が初めて我が国に導入したものです。
 ◇ 書院・庫裏
    当初の本堂で、一部二階建てです。 
    方丈の間の欄間はシンプルなデザインながら、禅宗寺院らしさを備えた、趣のあるものです。 
    鉄牛禅師揮毫の小さな寺号額が玄関に掛けられています。
 ◇ 典座(てんぞ)
    台所です。 修行僧が常時いたことを物語る大きさです。 
    勝手口にある大きな木魚と雲板が、禅宗寺院であることを告げています。
 ◇ 本堂 (大雄宝殿) 
   典型的な黄檗宗様式 (明朝風)の造りです。 
   間口七間三尺四寸 (14m)×奥行き六間二尺六寸(12m) と小さな間取りの本堂です。
   屋根が重層であることから、一見、とても大きな建物だとの印象を受けます。 
   主要部材はほとんどがケヤキで、260年以上経った今日もほとんどゆがんでいません。
   山号、寺号額は、ともに黄檗山第四十四代管長・柏樹老師の揮毫によるものです。

  〔当山本堂の主な特徴〕
 ○ 屋根が典型的な重層構造(内部は吹き抜け)です。 
   なお、当山の屋根は扇垂木(おうぎだるき)という寺社建築特有の荘厳な組み方です。
 ○ 主屋根の棟真ん中に招福を祈る宝珠を載せています。
 ○ 主屋根の棟両端にお守りの鯱(しゃち)を載せています。
 ○ 中国建築物の特徴通りに樋がありません。
 ○ 日月をシンボル化した円窓が左右に取付けられています。
 ○ 障子の桟が日本とは逆向けに設置されています。
    (日本の障子は、桟のある側を部屋の内側に向けて入れます。)
 ○ 月台(げったい)と呼ばれる砂を敷いた広場が、本堂正面に設けられています。
   これは、月光の反射光で堂内を明るくする工夫がされています。 
   また、この広場は法要時の臨時舞台ともなります。
 ○ 月台横には、餓鬼に食事を施すための生飯台(さばだい)と呼ばれる石造りの台があります。
 ○ 堂内は漆喰で固められた叩き造りの床で、読経は中国式に立ったまま行います。
   平成26年夏に、偶然その叩きが陥没し、下には能舞台と同じ音響効果用のための瓶が複数個
  (恐らく4個以上)埋められていることが分かりました。 
 ○ 堂内左右両側には、坐禅用の単(たん・・・・座禅をする畳)が備えられています。

   
    
  ◇石塔、墓碑 
  ○ 多宝塔 ・・・・・ 
  墓地最上部には高さ2.4メートルの多宝塔があります。

○ 西行法師供養塔 ・・・・・・ 
  墓地一角に西行法師供養塔があります。 
  開基・巖佐家の初代は西行法師の従兄弟にあたることから、お祀りしてあります。

○ 岩佐由衛墓碑 ・・・・・・ 
  当山檀家であった西岩佐家の岩佐由衛(由子)は、薩摩、尾張、彦根、大和郡山藩などの御用宿の女将として、没落しかけていた自宅はもとより、本家・巖佐家をも立て直し、幕末から明治中期にかけての女傑として名をとどめている女性です。 
  また、国学者であり井伊直弼公の懐刀であった長野主膳夫妻とも親交があり、歌人としても名を遺しています。 旅行好きだったとみえ、19才の時には京都・大阪へ、49才では西国三十三ヵ所を巡礼、50才で善光寺詣で、66才には日光へと旅をし、その記録が見直され始めています。
 〔参考〕 「交通史研究」第55号・柴桂子著 「近世女性の西国三十三ヵ所巡礼
巖佐由衛の『西国道の記』−」

  ◇樹木等 
    境内には、 菩提樹、 黄檗樹、 月桂樹、 紫式部、 こぶし、 マンサク、 コノテガシワ、 各種椿等の珍しい樹木が四季折々に美しい花を咲かせています。 また、晩秋の紅葉はひときわすばらしいものです。

 

   行  事
 正月   元 旦  祝聖
 3月  春分の日   (午前)涅槃会、永代祠堂法要  (午後)観音講
 8月    7日    (午前)大般若転読会   (午後)施餓鬼法要
12月   31日  除夜の鐘 
  上記法要等のほか、随時、座禅体験会、法話会等を開催しています。 坐禅の体験をご希望の方は、ご相談ください。 指導に出向くことも可能です。 住職は、黄檗宗布教師です。 各種講演会や法話の講師もお受けしています。

 

 所 在 地 ( アクセス )
  住所 〒521−0202 滋賀県米原市(旧・坂田郡山東町)柏原2433−1
  当山は国道21号線沿い、滋賀県と岐阜県境の旧中山道宿場町・柏原に所在します。

 JR東海道線・柏原駅下車、徒歩約20分

 名神米原ジャンクションを下り、国道21号線を岐阜(東行き)方面へ約9キロ。
    柏原口信号から関ヶ原寄り約500m、柏原小学校一筋手前を右折し直進400m、名神手前


 
 
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