遠く鎌倉の頃より天台宗の別所山万福寺のあったところであるが、寺院は戦国兵乱の戦火により焼失している。
天正十一年(1583)の賤々岳の合戦において、別所山は柴田勝家軍の陣地として、七尾の城主であった前田利家と府中の城主であった前田利長父子が僅か二ヶ月余りで砦を構築した所である。
柴田勝家の玄蕃尾城の本陣より、行市山頂を経て、別所山・中谷山・大池山・林谷山の各陣は、尾根を人馬によって駆け抜けられる道によって結ばれ強力な陣地として構築された。しかし、柴田勝家はこれら強固な陣依って戦う事は一度も無く、余湖畔で敗北する結果となった。
曲輪周辺の土塁
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