尊称寺の集落の称名寺および平野神社の周辺を中心に土塁が存在する。現在は殆ど破壊されて残っていないが、かつては東西約4町・南北3町にわたって土塁と堀が巡らされていたことが地籍図なので確認できる。
称名寺は浅井氏と組んでの信長に対抗した一向宗の湖北十ヶ寺の一つであり、美濃国津布良荘から移転してきたとされ、その敷地は方一町規模の、「多賀古屋敷」と呼ばれていたと言う居館跡である。
平野神社の周辺にも明瞭な土塁が存在し、これらの惣構および残りの部分との関係は必ずしも明瞭でないが、複数の在地領主居館の複合体の可能性も考えられる。
また、尊勝寺は大永5年(1525)に六角氏が浅井氏を攻める際の陣所にもなっている。
その他、尊勝寺には、浅井氏時代からの市があり、天正11年(1583)の堀秀政の免状、市神の堂、「北市場」「南市場」の称があったと伝えられている。

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