太平寺城

米原市太平寺(旧坂田郡伊吹町太平寺) 


■創築年

鎌倉時代中期
■初代城主  京極氏信
■形式 山城
■遺構 土塁・空堀・郭
■別称 霞ガ城
■標高  450m
■面積 -

 佐々木定綱の子、四男氏信は愛知川町以北の、「愛知」「犬上」「坂田」「浅井」「伊香」「高島」の六郡を与えられ、江北六郡の本拠としては、地理的に見て幾分よかった感がするここ伊吹山の西面麓「太平寺」に築城した。

 太平寺の名が示すように、寺院と城が一体化がうかがわれる。太平寺は太平護国寺とも呼ばれ、宝亀年間(770-780)に光仁天皇の勅願で建立された伊吹四大寺の一つである。

 このお城は江北屋形と称し、氏信以後、南北朝時代の京極高氏(道誉)や高秀、高詮を経て京極高清間での居城としていたが、永正年間(1504-1521)に、高清が上平寺城に移り廃城となった。

  『近江国坂田郡誌』には、「太平寺城址は標高1000の地に有り・・」と記されているが、1000m地点には遺構が確認できず、地形的に見ても急斜面で、冬季の積雪量は5〜6mもあることから、城域は太平寺集落跡 標高450m(右下写真の中腹の台地)と考えたい。

現在、伊吹町太平寺の集落は、住友大阪セメントの原石採集場に接近することから春照に移住してししまい、人は住んでいない。

 太平寺城址の主郭は太平神社の辺りと思われ、神社の石段最下から北向きには深さ5m幅6mの空掘りと土塁(左下の写真)が築かれている。太平寺集落の南端伝いには東西土塁と堀が30mに渡って築かれ、太平神社の背後は数段の削平地になっている。

 

注意:遺構の表現について、太平寺城のもので有るか否か?の判断は非常に難しく、太平寺集落は山のわずかな土地を有効に生かすため、村全体が石垣作りの段状削平された起伏地形であった、それらの土地が朽ちた現在の姿を、空掘・土塁・削平地としてとらえている可能性は非常に高い。

 

※太平寺集落跡は住友大阪セメント(株)の管理下にあり、許可なく出入りすることは出来ません。

太平神社脇の空掘

 

昭和28年に撮影された伊吹山と太平寺の村落(下中央の高台)

住友大阪セメント(株)のカタログより抜粋