京極氏によって構築された太平寺城から、伊吹山の東尾根の上平寺城に拠点が移され、この地域は美濃から近江への北国脇往還が通り、戦国時代には重要な所であった。
上平寺城の古図によれば、尾根本丸、南へ下がって二の丸、谷を隔てて三の丸、山麓に下がった台地に京極の居館があり、南に城下が開けて、諸士屋敷、町屋敷、市屋店屋敷があったと知られ、戦国時代の山城と城下の関係をよく示している。平時には麓の上平館で生活をし、戦時には上平寺城に篭もる「詰城」であったと思われる。
上平寺城跡は弥高百坊跡と谷を隔てて東の尾根にあり、本丸は二つに区画され、二の丸、外郭、空堀跡が、殆ど破壊される事無く、歴然と残っている。
上平寺城は大永3年(1523)京極氏の相続紛争や浅井氏の勃興によって落城し、城主京極高清は山麓の城館で隠棲を送りこの地に没したと言われている。
上平寺城の別名を刈安尾城といいますが、これは古図に刈安尾と記されているからで、近年の調査結果からは弥高百坊の方に刈安尾を当てるのが妥当とのことである。
登山道は非常に整備され、下草も刈られ城跡まで道に迷う事はない。城跡も手入れが行き届き遺構の確認もしやすい。
境目の城にふさわしく、関ヶ原から北近江が一望でき絶景である。
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北の大掘切と土橋 |
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