内保の集落の西部にある小字西出にある誓願寺が城郭化した寺城で、戦国期の湖北一向宗の中心寺院の一つとして知られる。三面には土塁が有り、北面と南面の外側には川が流れている。本堂正面の東面土塁は幅7〜8m、最高値2、4mあり、正面の左側は保存状態が良いが、右手は敷地の北東端に遺構が確認できるものの、門との間はわずかな盛り土でしかない。南面の土塁は東端から西に約26mの所に虎口を設け、幅は3〜4m、最高値1m弱でかなり削られています。南面と西面の土塁の内側には幅1m位の堀が見られ、北側の川水が引き込まれていたらしく、一部は庭水にも利用されている。敷地の南東部にある鐘楼は四方16mの台形上に建っており、その周辺には幅1mの堀も巡らされ、石垣の周辺には立石や五輪塔等も見られる。 誓願寺のある小字西出は笠屋敷、西屋敷、旧屋敷と称す孫字があり、八幡神社のある小字八幡には長泉寺、旧屋敷、城戸の名を残しており、蓮乗寺を氏子とする在地豪族の存在が想定でき、現在の誓願寺周辺には僧坊や屋敷が建ち並んでいたらしい。 大永五年(1525)六角定頼は小谷城攻めの陣を当地の北方尊勝寺に置き(朽木文書)、享禄元年(1528)には京極高慶、上坂信光が京極高延、浅井亮政軍を内保河原で敗走させ(若宮文書)、天文元年(1532)には証如の縁戚にあたる大津顕証寺を細川方の六角定頼が焼き払う等の乱戦が続いている。こうした中にあって、天文5年8月誓願寺と尊勝寺にある称名寺とが番場・吉槻の門徒支配をめぐって本山下間真頼の仲裁を受け、同7月には主戦派であった下間頼秀が証如の命により暗殺されており、この事件は六角氏に抗していた浅井亮政には内密に行われ、殺害場所は当地の南方野村の光明寺であったという(天文日記)。この頃には湖北一向宗の組織化もすすみ、湖北10ヶ寺の1寺として誓願寺は一揆の指導的役割を果たしており、当寺は寺社としての防備を整えたと思われ、浅井久政から要請のあった軍資金の借用や近江中郡でにお一揆を起しているが、元亀元年(1570)三好三人衆が信長打倒を渇げ、浅井久政・長政父子が信長と離反するに及び、顕如は浅井氏の再起を望んで湖北一向宗の指揮を任せたらしい。
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寺城内は見事な土塁と空掘りに囲まれている |
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