伊吹山の修験道
・伊吹修験道について                大谷大学助教授   豊島 修
一、伊吹修験の発祥と展開

 伊吹山は現滋賀県坂田郡伊吹町と岐阜県損斐郡春日村の境に位置する、標高1,377メ−トルの霊山である。古代の修験道において重きをなす「七高山」のひとつに選ばれ(『釈家官班記』)、また記紀神話には「荒神」(あらぶるかみ)の山として霊威が知られていた。したがって「伊夫伎」の名も「吹き棄つる伊吹」.(『古事記』)すなわち「息吹き」から出たことが推測され、こうした荒々しい霊のとどまる霊の山で修行する山林修行者は、すぐれた霊力を保持する宗教者として周辺の住民から期待されたことが想像されるのである。
 すでに平安初期には沙門三修の活動が『三代実録』元慶2年(878)2月13日 条に見え、三修の建てた「伊吹山護国寺」が定額寺に列せられている。これはのち伊吹四箇寺(弥高・観音・太平・長尾)が護国寺へと発展する基礎になったものであるが、その背景には伊吹山の山岳修行者が前述した「七高山阿闇梨」の一人として、護国を目的とする祈祷を行ったことが考えられるであろう。
 伊吹四護国寺のうち、観音寺(現坂田郡山東町朝日)は他の三箇寺にくらべて里に近いところに位置している。これは近年の「三宮三院制」という仮説にしたがえば、他の三箇寺は中院として伊吹山の中腹にあったのに対して、下院にあたる。おそらく元は項上にも上宮上院が存在したことが推定されるが、中院が早く衰退して下院に吸収されたので、中世には観音寺が興隆したことが『観音寺文書』から知られるのである。ただ三修とその童子が開いたという開創伝承をもつ寺院は多い。たとえば「伊吹百坊」とよばれる惣坊群がそれであるが、とくに敏満寺(現犬上郡多賀町)・松尾寺(現米原町上丹生)などは、いずれも敏満童子や松尾童子が開いたという伝承があり、それぞれ下院としての機能を果したことが考えられる。また、観音護国寺は弥高山(坂田郡伊吹町)から鎌倉中期の正元年間(1259〜60)に里に移転し、当時の阪田郡大原庄の地頭大原氏の庇護をうけ、その伽藍も弘長年間(1261〜64)から弘安年間(1278〜88)の間に完成している。さらに『観音寺文書』所収「本堂造作日記」などによれば、本堂の再建は室町初期に行われ、しかもそれは観音寺にいた当時の勧進聖の活動の結果、伊吹山の信仰圏は姉川流域まで広まったことが知られ注意されるのである。

二、中世の観音護国寺と組織

 前述したように、中世の伊吹修験道は弥高・観音・太平・長尾の四箇寺を中心に展開したが、その中心寺院である観音護国寺の組織構成はかならずしも明確ではない。、しかし満田良順氏の研究によれば、観音寺の一山寺院は室町期に十三坊があり、また清僧の学僧と妻帯の衆徒、承仕、聖などから構成されていたことを明確にしている。すなわ。ち中世の修験集団としては、衆徒山伏と承仕と聖(ヒジリ)からなり、そのうち聖には本堂聖・鎮守聖・太鼓聖・鐘撞聖灯明聖など、いわゆる堂衆にあたる職能があったことが『観音寺文書』などの分析から知られるのである。こうした山伏身分を統括したのが院主で、修験道の入峰に際して、院主は大先達あるいは大越家に相当する最高位の身分を有し、昇進に際しても「当寺厳重之行法」として、1カ月間連続の「如法経修行」を行う如法経聖の昇進などを指図していたらしい(同右)。

 こうした観音寺の組織構成と位階昇進などから推測して、他の三箇寺のばあいも同様な組織であったことが考えられるが、・残念ながらそれを伺う確かな文献史料には恵まれないのである。

三、伊吹修験道の特色

 伊吹修験はかって伊吹山を大乗峰といい項登することを「伊吹禅定」と称した。また近世初期の遊行者で円空仏の彫刻で知られる円空は、寛文6年(1666)7月28日に、北海道の洞爺湖観音島の観音像(円空仏)の背名に「江州伊吹山平等岩僧内」と刻み、「平等岩僧」すなわち伊吹山の行道岩をめぐる修行をしたことが知られる。この修験行場である行道岩は『観音寺縁起』(正徳3年、1713)にも見えて開山である三修以来の修行場であったと主張している。こうした行道としての捨身行が伊吹修験の実践行のひとつ1であったことは、第一に注意されるのである。
 第二に伊吹修験の入峰修行については『観音護国寺縁起』、徳治3年(1308)の『伊吹弥高太平両寺衆徒和与状』、応永年間(1394〜1428)の『伊吹山大乗峰一宿相論』などの中世史料から断片的に知ることができる。
 第三に、伊吹修験には先に記した如法経修行があげられるが、そのばあい、如法経堂籠りは他の霊山に見られる法華経書写ではなく、法華経の読誦と勤行およぴ不断経などを指していたらしい。
 このほか中世後期には、伊吹修験が紀州の熊野参詣の先達をしていた史料があり(『熊野那智犬社文書』)、周辺の村の住民を熊野の御師のもとに先導する案内を行い、このころ熊野とのつよい結びつきが伊吹修験の活動の一端を占めていたことは注意してよい。また前述した伊吹四箇寺の末寺と考えられる十九ケ寺は、近江の代表的な天台宗の古刹寺院であり、中世には伊吹山の入峰修行を実践する山伏寺でもあった。その範囲は近江六郡に跨がっており、そのうち伊吹山麓の坂田・浅井両郡に約半数の九ケ寺を占めている。

 そこで最後に、こうした伊吹修験道の勢力範囲を考えてみると、それは湖北から湖東にかけての地域に分布していることが指摘される。それはまた、湖西湖南の地域にどうして勢力が及ばなかったのかが問題である。これは中世近江の修験道を考察していくうえでの重要な課題のひとつである。この課題については、すでに満田氏が湖南に優位をしめた修験道当山派(真言系)の近江の正大先達寺院であった飯道寺の勢力範囲であったこと、また湖西は天台修験の葛川息障明王院配下の修験寺院が多くしめていたことなどを推定している。したがってその歴史的解明が課題としてのこるが、こうした伊吹修験道は近世に入ると、公儀の学問奨励を第一とする宗教統制の影響をうけて、次第に衰退していくのである。

主要参考文献「伊吹山の修験道」(五来重編『近畿霊山と修験道』所収、山岳宗教史研究叢書十一、名著出版、1978年                 (平成2.7.18)
    

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