伊吹山の修験道
・伊吹山と修験道               伊吹町史編纂室長 福永 円澄
伊吹山には役小角をはじめ加賀白山の泰澄、さらに三修上人などの開山伝説がある。宝亀年間、光仁帝の妃の病を聞いて都の空へ飛んだという飛行上人とは、三修伝説であろう。
 仁寿年間三修は伊吹山に登り、その幽邃であることを深く愛し、終にここに庵を結んで禅定、千手陀羅尼を誦して20余年山を降りなかった。昌泰2年(799)5月12日入寂、時に70余歳、山頂の蓮上より天空に遷化したという。蓮上とは山頂付近の広場の地名で弥勒堂のあるあたりは三修の墳墓であるといい伝えられている。
 伊吹山は記紀にも記されるように荒ぶる神の住む山であった。縄文以来人々が住みついたこの地は、本州の中央部に位置する東西交通・文化交流の要所であり、有力な先住民族の勢力下にあったものと思われる。わずか1377メートルという標高でありながら、特殊な気象条件に加えて、石灰岩という地質的特性が、霊山としての性格を高めたものであろう。
 山頂一帯の蓮上には、経塚・阿弥陀磯・全崩・弥勒等があり、周辺には三ッ頭・黒竜・白竜・百間廊下・泉水(風呂)七高山・獅子頭と続く。更に下れば仏ケ谷・占治原・平等岩・手掛岩・蔵ノ内・不動滝など数多くの地名、伝承、遺構があり、修験とのかかわりを深く感じさせる。
三修が開いたという伊吹山寺は、仁寿年間護国寺に列せられ、修験の行者は競って入峯伊吹の峻険を利して抖@に励んだものと思われる。長尾・太平・弥高・観音の諸寺もそれぞれ分立、互いに本末を争ったもようで、徳治3年(1308)弥高・太平両寺の相論に対する和与状が現存している。更に松尾寺・上平寺・長福寺・暖水寺・白山寺等を加えると壮大な山寺の様子が目に見えるようである。
時は下って亀山上皇の皇子守良親王は秘かに太平寺により諸国に令旨を伝える。一山の僧兵あげて北条仲時を番場の宿に襲いこれを殱滅する。後醍醐天皇の建武の中興の端緒がここに開かれたのである。
やがて京極氏は江北の本拠を太平寺においた。これが太平寺城であり、後に弥高・上平寺域に移ることとなる。相つぐ戦乱によって山寺は潰滅的な荒廃にみまわれるが、その命脈は太平寺に弥高等に受け継がれ、山麓の柏原・美濃今須の地に新たな法灯が燃えあがることになるのである。
さて寛文の頃入峯し、太平寺中之房に身を寄せた円空は、修行の日々を山中に求めたものと思われる。江州伊吹山平等岩僧内と記された円空仏を遊行の地北海道に、元禄3年春、円空は晩年の大作十一面観音像・ほほえみの錠ばつり像を太平寺に残している。その後槍ケ岳を開いた幡隆もまたこの伊吹に幾多の足跡を残しているのである。
伊吹山は古来薬草の山であり、延喜式には74種があげられている。古代仏教、ことに修験道と薬草とのかかわりは大きい。むしろ伊吹の薬草あっての伊吹山寺ではなかったかと考えられる。陀羅助(黄檗)をはじめ各種の薬草、蟇の油伝説もまた無縁のものとはいいがたい。
幸いにも今日伊吹山には、新たに修験の法灯がもえあがりつつある。何千年という歳月を地下に眠り続けた山草が新たに芽を吹き花を咲かせようとするに似ている。それはこの伊吹に生き、伊吹を愛するものの願いでもある。
    

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