伊吹山の修験道
・伊吹山の行道岩僧             大谷大学名誉教授  五来 重
 『今昔物語』によれば三修はつねに弥陀の来迎によって、浄土往生をねがっていたという。それはただひたすら一日中念仏を唱えていたからで、それは行道岩を巡りながらのことであったとおもわれる。そのうち、空に声があって、明日お前を迎えに来るぞというのを聞いて、明朝沐浴し、香を焚き花を散らして侍っていた。すると絵で見るような阿弥陀如来が二十五の菩薩をしたがえ、雲に乗ってあらわれて、彼を蓮台にのせて西の方へ飛んで行った。しかし七、八日経って、下僧が山中の谷にさし出した高い杉の木に三修が縛りつけられているのを見付けた。そしてこれは天狗に誑らかされたのだということがわかって彼をたすけたが、三修は間もなく死んだという。
 これはおそらく行道岩の行をしえものは、ややもすれば高慢な山伏になることを諷刺したものであろうとおもう。この説話には行道岩のことは出て来ないけれども、実際に行道岩の上に立って見ると、そのまま雲に乗って、西方に向って空中へ飛び出してゆけるような気がする。これは、この山には潅木と蓬のような草のほかは何も生えないことにもよるし、眼下に琵琶湖をひかえていることにもよるであろう。私も昨年(昭和55年)この行道岩を踏査したが、八合目小屋の下から潅木を分けて近づくのは大変なことであった。この岩は伊吹山の上からも下からもよく見える瘤のような岩で、その下は断崖になっている。行道はその岩を巡ることであったことが、細い径によってわかった。おそらくもとはもっと下の断崖の中腹を横にまわったかもしれない。瘤のような行道岩は風化がはげしく、大分崩壊しかけていた。その下には人間が一人入れるくらいの洞もあるので、雨や雷はその中で避けたであろう。円空がここを巡ったかと思うと、一木一草が感無量であった。私は上から下りたり、下から登ったりして、いろいろと行道を再現し、体験してみた。
 しかし崩壊の進行している伊吹山には八合目、九合目から頂上にかけて行道岩とおなじ条件の岩はいくらでもある。したがって伊吹修験の入峯修行は複数の行道岩を、次々に修行することではなかったかと思った。いま行道岩は平等岩とよばれていて、誰にきいても何も知らない。しかし近江のすぐれた地誌である『近江輿地誌略』伊吹山の項には、

行道岩

山の西面に登ること五十町余りにあり。高さ五丈余、(17メートル)、一囲十町計りの大磐石也。
三銖(三修)沙門この石上にて、昼夜禅行導をなす。爾来行導岩と号す。

 とあって、江戸時代まではこの伝承は知られており、私の推定をたすけてくれる。しかし一巡するのに10町というのは1キロメートルにあたるので、すこしオーバである。頂上の瘤だけでなく、岩全体を巡っても300メートルぐらいであろう。またここに「禅行導」とあるのは禅定行道の意味で、岩上で座禅したり、行道したりを繰り返すことで、これも正しい理解だったとおもう。 
 伊吹山の行道岩を江戸時代初めの円空は「平等岩」と書いている。『近江輿地誌略』の著者の行導(道)岩の方が正しいのでおるが、俗に訛って平等岩とよばれたのであろう。大峯山でも今は平等岩というが、元禄七年刊の『修験峰中秘伝』では「行道石」とある。しかし円空はこれより30年ほど古い寛文6年(1666)に「平等岩」とよんでいる。これは円空が寛文3年、32歳で出家得度し、寛文4年か寛文5年に伊吹山行道岩の修行をしたことを推定させる作仏の背銘に、「平等若僧」と彫っているからである。この円空仏は北海道洞爺湖中島観音堂の観音像である。背銘は、

           江州伊吹山平等岩僧内
              寛文六年丙午
               七月廿八目
               始山登
                円空(花押)


 とあり、伊吹山の行道修行を終えた者は「行道岩僧」とよばれたことをしめしている。それほどにこの修行は誇り高いものであり、行道岩は神聖なものであった。この背銘は彫刻僧円空の生涯を追跡する有力な手がかりになったとともに、史料のきわめて少ない行道岩の秘密を明かす貴重な資料であった。これはまた修験道史にも得がたい資料を提供するものであって、行道岩の修行は一夏九旬という90日の修行だったことを推定させる。というのは寛文4年には円空は美濃(岐阜県)の美並村周辺の仏像を彫っていて、伊吹山修行の可能性は少ない。ところが寛文5年の12月には奥羽の弘前にいたたしかな史料が出たので、奥羽・北海道修行に出発する前に平等岩修行を終えていなければならない。しかもその出発の前に大和の諸大寺の仏像を見てまわった形跡が、その後の仏像にあらわれている。そうすると伊吹山の雪が解けて入山できる。4月から7月までぐらいの修行でなければならないが、この期間は山伏の夏峯入であって、これが一夏九旬の90日なのである。

 しかし円空はこの修行で山伏としての大きな自覚を得たし、人間的にも成長したであろう。円空は奥羽・北海道への長い旅に、「伊吹山平等岩僧」の称号があれば便宜も多いとおもったかもしれないが、これが円空芸術を生む一つの重要な転機であったことはたしかなのである。

                               角川選書15『石の宗教』より
    

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