いつから夜は、私に安らかな眠りを運ばなくなったのだろう。宇宙のために闇の守護聖様の安らぎをお願いしても、私に心地よい眠りは訪れないだろう。
夜がくれば…宇宙にまた惑星が増えていく。私はそれが怖かった。前にはとても嬉しいことだったのに。
新しい宇宙に惑星を満たすこと。それが女王候補の私に与えられた課題。女王なんてすごすぎて、私にはあまりピンとこなかった。ただそれよりも、宇宙の意思が形になったという聖獣の愛らしさに惹かれて、私は試験に取り組んだ。
そして、いつしかあの人の笑顔のために…。
努力すればあの人が誉めてくれるから。成果をあげればあの人が微笑んでくれるから。私はひたすらがんばった。
でも、いくら私が物事を深く考えない性質でも、とうとう気がついてしまった。
この試験が終わり、女王になってしまったら、私は生まれ育ったこの宇宙を離れて遠くに旅立たなければならない。
お父さん、お母さん、学校の友人たちと離れてしまうことは寂しい。そして今は誰よりもあの人と離れることが…つらい。
そう、私の頭の中は今あの人のことで一杯になってしまっている。
そして…とうとう宇宙は惑星で満たされた。
聖獣アルフォンシアはどんな絵でも見たこともないほど美しく気高い姿となって、私はとても嬉しかった。
けれど…
先のことを考えると、体の中に黒い穴があいて内側から引きずり込まれていくような、あるいは何百と言う黒い虫が体の中を這いずり回るような感覚におそわれて、私は胸を掻きむしりたくなった。
宮殿からの使いはすぐに訪れた。
もう、どうしようもない。
体一杯に焦りを抱えながら、頭では覚悟を決めて私は女王陛下の御前に進んだ。
初夏の木漏れ日のような金色の髪と、芽吹いたばかりの若葉のような緑色の瞳の年若き女王は優しく微笑んだ。
「おめでとう、あなたの力で宇宙は星に満たされました。よく頑張りましたね」
暖かい言葉に私は頭を下げた。
「でもね…心残りはない?」
一瞬スモルニィ学園の友人に話し掛けられたような気分になって私は顔を上げた。 緑の瞳がまっすぐ私を見つめている。それは、私と歳の変わらない少女の表情。
「大切に思う人とか、いるんじゃない?」
まるで古くからの友人のような懐かしい響きの声。
一体何て事を言い出すのだろう。私は声を出すことができなかった。
私はちらりとロザリア様に目を向けた。冷たいほどの美貌を持つ補佐官殿は戸惑うでも怒り出すでもなく、少し困ったような、寂しいような表情を浮かべていた。
女王陛下はなおも語りかけてきた。
「あなたには進む道を自分で選んで欲しいの」
微笑みの中に、やはり少し寂しそうな表情が浮かんでいた。
「あの、でも、宇宙が…」
しどろもどろに口を開いた私は、先ほどの陛下の問いにまだ答えていないことに気がついた。けれど、陛下はにっこり笑った。
「生まれたばかりの新しい宇宙は力に満ち溢れています。導く者がいなくても、ゆっくりとですが発展していくでしょう。あなたの育てた宇宙を信じなさい。」
「あの、それじゃ…」
「今日一日時間をあげましょう」
ロザリア様が静かな声を出した。
「明日の朝にもう一度迎えを寄越します。それまでに結論をお出しなさい」
「は、はい…」
私はうなずいた。
「思い残すことのないようにね」
「はい!」
女王陛下の声に背中を押されるようにして、謁見の間にふさわしくないことだが、私はその場から走り出していた。
宮殿から息せき切って走ってきた私は、王立研究院の前で立ち止まると乱れた息を整えて、入り口の前に足を踏み出した。
シュオンと小さな音を立てて自動ドアが開いた。
色々な機械の唸りが低く響いている。
大理石の柱や彫刻の施された重い扉など、おとぎの世界そのままの宮殿からここへ来るとまるで別世界のようだ。聖地の中では、機械に囲まれた研究院のほうがなんだか異質に感じられる。
「これは…」
一番奥の机からエルンストさんが立ちあがった。
「アンジェリークではありませんか。一体どうしてここへ」
「私…私」
声が裏返ってしまう。
研究員たちがこちらを見てひそひそと声を交わす。
彼等の視線が急に気になって顔に血がのぼってしまう。
「何か急ぎの用事でもおありなのですか」
「あ、あの…」
思わず胸の前で手を組み合わせて下を向いてしまった。
ふと目の前が暗くなったような気がして顔を上げると、すぐ前にエルンストさんが立っていた。
「どうやらお話がありそうですね。どうぞ、こちらにお越しください」
奥の部屋に通された私はエルンストさんの指し示すままソファに腰を下ろした。
エルンストさんは紙コップに入れた紅茶を私の前に置くと向かいに座った。
「落ち着きましたか?」
「…はい」
「明日の女王即位の式典を控えた大切な日なのでしょう。なぜこんなところにいらしたのですか」
事務的な口調は彼の単なる習慣。それはわかっているはずなのに、気持ちがすぅっとしぼんでいく。
「私…お邪魔でしたでしょうか…?」
うつむいた私の口からそんな言葉が紡ぎ出される。
「いえっ、そんな」
エルンストさんが眼鏡に手をやり、クッと持ち上げた。
…驚いた時の彼の癖。
「女王に即位される前に貴女にお会いできて嬉しいですよ。でも、最後の大切な日なのですから私などではなく、もっと他の親しい人たちと過ごすべきではありませんか」 「あなただから…」
「は?」
「あなただからなんです…私、私」
顔を真っ直ぐに向ける。
「エルンストさん…私、あなたのことが好きなんです」
エルンストさんは眼鏡から手を下ろした。見る見るうちに細く形の良い眉の根元が寄せられてゆく。
ああ…だめなんだ。
お腹がキューっと締めつけられる。
「…先ほども申し上げましたが、明日は女王即位の式典です。…貴女は宇宙を見事に育成された。誰もが貴女を女王にふさわしいと認め、明日には女王になられるのです。…それなのに…」
押し殺したような低い声で話し始めたエルンストさんは今まで見たことのない表情を浮かべた。それは、怒りに似ていた。
「今、その言葉を、この私に言うのですか。私にどうしろと…何をしろというのです。貴女に期待している多くの人々から、貴女を待つ新しい宇宙から貴女を奪い去れと、何処かへ連れ去れというのですか…。それが…それができるのなら、とっくに私は…」
薄緑の瞳の奥の揺らめきを見たとき、私の目の前にすっと見えないカーテンが引かれたようになった。
すべての風景がすうっと遠ざかっていく。
エルンストさんの口元はまだ動いていたが、その声は耳元をすべって後ろに飛んでいく。薄緑の熱く激しい炎が、私の胸をちろちろと燃やす。
私はこの人の何を見ていたんだろう。
硬質なレンズの下の、切れ長な目の奥には優しい光が湛えられていることを、私は…私だけは知っているつもりだった。
でも、さらにその奥に熱く激しい情熱が秘められていたことに私は気づかなかった。私は、自分の気持ちのことばかり考えて、この人の気持ちなんて考えていなかった。エルンストさんも私のこと好きだったらいいなあ、なんて思ったりもしたけど、あんな表情を浮かべるほど、私のせいで苦しんでいたなんて思ってもみなかった。
私は…もしかすると甘えていただけなのだろうか。慣れない育成や学習、プレッシャーや複雑な人間関係で疲れているときに、彼の微笑で励まされていた。
私はただ、彼からやすらぎをもらいたい、それだけだったのだろうか。私の方から何をあげられるかなんて思いもしないで。
「…リーク、アンジェリーク!」
肩に伝わる振動で我に返った。
エルンストさんの手が私の肩にかかっている。
「大丈夫ですか、アンジェリーク。気分が悪いのではありませんか」
「いえ…大丈夫です」
私の目を覗き込む薄緑の瞳…そこにあるのはいつもの優しい光。
「それならよろしいのですが…」
エルンストさんの手が離れてゆく。
「ただいま申し上げましたように、私は研究員として貴女の宇宙を見守りつづけましょう。私の一生をかけて…。さあ、もうお帰りなさい。誰かに部屋まで送らせましょう」
立ちあがり、部屋を出ようとする。
これが近くにいられる最後だと思うと、こんなに早く別れたくなかった。
「あの、エルンストさん」
扉の前の背中に声をかける。彼は黙って振り返った。
「あの…せめて部屋まで送っていただけませんか」
「私が…ですか?」
気のせい、だろうか。
エルンストさんの身体が震えて…いる?
「貴女は、なんと…」
小声で呟く声に
「え?」
と聞き返した。
「いいえ、なんでもありません」
そう言った時はもういつも通り、彼はすっきりと背筋を伸ばして立っていた。
「…申し訳ありませんが、私には明日の式典までに処理しなければならないことが山積しています。貴女をお送りしている時間はないのです」
「そう…ですか」
さっき、はっきりとは聞き取れなかったけれど、彼は確かに
「なんと残酷なひとだ」
と言ったのだ。
残酷?
私が?
なぜ、どうして。
私にはわからなかった。
でも、私のせいで、私の言葉で彼がさらに傷ついたのは確かだから…
私は立ちあがった。
「もう、帰ります。一人で帰れますから、見送りを付けていただかなくても結構です」
きっと、研究院の外に出たら泣いてしまうから。
「ですが、体調が悪いのにそういう訳には…」
わかってないのね、エルンストさん…そんな言葉を飲み込む。
私はにっこりと微笑んでみせた。
「本当に、大丈夫ですから」
本当は、今すぐここから走って逃げ出したかった。
大声で泣き叫びながら駆け出したかった。
でも、そうしたらもう二度とエルンストさんの顔をきちんと見ることができなくなりそうで…そんなの絶対イヤだったから…
「今まで、本当にありがとうございました」
それは嘘いつわりない、私の本当の、心からの気持ち。
「…いいえ」
エルンストさんの言葉は短かったけど、私にはそれで充分。
私はゆっくりと、でもしっかりした足取りで歩き始めた。
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