Last Chance

†ernst side†



 新しき宇宙に惑星が満ちた。
 女王候補の言葉を借りれば、宇宙の意思を具現化した聖獣がおとなになったのだ。
 劇的な変化を遂げた新宇宙のデータの収集と解析のため、王立研究院は今まで以上に多忙となった。
 明日は私も女王即位の式典に出席しなければならず、それまでに片付けておきたい仕事が山積していた。ここ数日まともに寝ていない。さすがに身体に疲労が蓄積しているのを感じる。
 だが、業務に忙殺されていれば、煩わしい考えに悩まされずにすむ。
 そう、煩わしい…。

 育成が好調な進展を示し、新宇宙が成長を遂げることは、誰よりも私にとって喜ばしいことであるはずだった。しかし実際にその瞬間が訪れても私の中に喜びの感情は沸き起こらず、苦味を帯びた何かが胸を満たした。
 もう随分前から、私は宇宙の成長を心穏やかに見守ることができなくなっていた。
 一体何故私はそんな感情を抱くのか。何十回となく問いを繰り返し、最早私はこれ以上、目をそむけることも自分を偽ることもできなくなった。いくら私が人の感情に関して疎い人間であっても、気付かずにはいられない。私は彼女に惹かれているのだ。
 私の若干の協力と彼女自身の多大な努力によって、彼女は偉大な業績を成し遂げ、明日には女王となり、異なる宇宙へと旅立つ。そして私はそのことを堪え難く感じている。数え切れない逡巡と煩悶のはてに、今ようやく私はその答にたどり着いた。
 いや、もう随分と以前から気がついていた。認めようとしないだけで。
 育成が何らかの結果を示せば、その如何によらず彼女は私の前から姿を消すのだと今更気がついた時から。

 感情を正確に把握できれば。
 感情は把握した。ならば次に為すべきはひとつ。
 現状を把握して最上の方法を模索する。それが研究者としての私の習い性だった。
 取るべき道。
 私個人の感情と、宇宙の発展。二つを秤にかければ結果は見るまでもない。
 だが、私は…

 シュオンと軽い音を立て王立研究院の扉が開いた。
 入ってきた人影は、女王候補アンジェリークだった。走ってきたのだろうか、頬が紅潮している。
 「これは…」
 私は腰を浮かせる。
 「アンジェリークではありませんか、いったいどうしてここへ」
 彼女は胸の前で手を組み合わせて私の方を見つめた。
 「私…私」
 いつもの朗らかさの消えた硬い表情。
 研究院の職員たちがお互いに顔を見合わせ、小声で話し始めた。
 ざわめきが気に掛かったのだろう。彼女の表情がますます硬くなる。
 「何か急ぎの用事でもおありなのですか」
 私はつとめて事務的に声をかける。
 「あ、あの…」
 すがるような視線を投げて、彼女はついにうつむいてしまった。
 何か、他の職員に聞かれたくない用件かもしれない。
 このままにはしておけない。私は机を離れ彼女の前に立った。
 「どうやらお話がありそうですね。どうぞ、こちらにお越しください」

 私は他の職員と机を並べて業務をこなしているので、名ばかりで利用していない主任室に彼女を通した。
 ソファを勧め、セルフサービスの紅茶を紙コップに注ぎ、前に置く。

 「落ち着きましたか」
 アンジェリークが紅茶に口をつけるのを待って、私は声をかけた。
 「はい…」
 まだ少し硬い表情で彼女は答えた。
 「明日の女王即位の式典を控えた大切な日なのでしょう。なぜこんなところにいらしたのですか」
 彼女の気持ちを落ち着かせるつもりで…その実、自分の中に沸き起こった疑問を抑えきれず、私は口にした。だが、自分でも驚くほどその言葉は冷たく響いた。実際、アンジェリークの表情は見る間に翳り、顔をうつむかせしまった。
 「私…お邪魔でしたでしょうか…?」
 ぽつりと言葉がこぼれる。
 「いえっ、そんな」
 相も変わらずまともに人と接することの出来ない自分を呪いながら、私は急いで答えた。
 「女王に即位される前に貴女にお会いできて嬉しいですよ。でも、最後の大切な日なのですから私などではなく、もっと他の親しい人たちと過ごすべきではありませんか」
 「あなただから…」
 「は?」
 「あなただからなんです…私、私」
 アンジェリークは顔を上げ、真っ直ぐに私を見つめた。
 「エルンストさん…私、あなたのことが好きなんです」

 あなたが…好き。
 それは…。
 ずっと聞きたかった言葉。
 心の底で否定し続けながらも待ち望んでいた言葉。
 そして今一番聞きたくなかった言葉。
 自分の気持ちを一方向に振り向けようと全力を傾けている時に、なぜ私の心をかき乱す。
 私の中で何かが白くはじけた。
 「今、その言葉を、この私に言うのですか」
 触れれば傷つくような、硬い、冷たい声音が私の口から漏れる。アンジェリークの驚く顔が目に入る。彼女に責任があるわけではないというのに。だが止める事ができない。
 「私にどうしろと…なにをしろというのです。貴女に期待している多くの人々から、貴女を待つ新しい宇宙から貴女を奪い去れと、何処かへ連れ去れというのですか…。それが…それができるのなら、とっくに私はそうしていました。私は…貴女をさらってしまいたかった」
 ひび割れてしまった「私」の外殻から中身がどんどん流れ出てゆく。
 「けれど、貴女は宇宙のために…女王になるためにこの世に生を受けた人なのだから、貴女の幸せは女王として生きることにこそあるはずです。…私が自分だけの気持ちで貴女を縛ってしまうことが許されるはずがない。ですから、私は貴女と貴女の宇宙を見守ってゆく事にすべてを捧げたいのです」
 そこまで一気に言い切って、私は改めてアンジェリークの顔を見てギクリとした。彼女の顔は血の気をまるで感じさせないほど白く、瞳の輝きは失せ果て何も写していないかのようだった。
 私は思わず手を伸ばし、彼女の肩に手をかけた。小さな薄い肩を壊さないように気をつけながら揺さぶる。
 切れてしまったオルゴール人形のネジを巻き直したように、彼女に動きが戻ってくる。
 「エルンスト…さん?」
 「大丈夫ですか、アンジェリーク。気分が悪いのではありませんか?」
 「…いえ、大丈夫です」
 私は安堵の息を漏らし、力を込めていた手を彼女の肩からなるべくさりげなく外した。
 「ただいま申し上げましたように、私は研究員として貴女の宇宙を見守りつづけましょう。私の一生をかけて…」
 ともかく、これで私が話すべきことはすべて伝えた。
 「さあ、もうお帰りなさい。誰かに部屋まで送らせましょう」
 私が立ちあがると、アンジェリークは取り残された迷子のような顔をした。目をそむけ、急いで部屋を出ようとする私の背中に、彼女の声が届く。
 「あの、エルンストさん」
 無視しきれず、私は振り返った。
 「せめて、部屋まで送っていただけませんか」
 「私が…ですか?」
 再び私の中の血がかっと熱くなり、音を立ててざわめく。
 必死の思いで突き放したというのに、彼女と二人きりになってしまったら、私は…。
 「貴女はなんと…残酷なひとだ」
 自分でも気がつかないうちに口走っていた。
 アンジェリークに浮かんだ戸惑いの表情を見て、私の胸はキリと痛んだ。幼さと無邪気さと純粋さゆえの残酷を、どうして責めることができるだろう。彼女に非はない。彼女のような少女には理解できないだろう。いや、知らせてはいけないのだ。この、男性の身体の中を駆け回る暗く醜い衝動を。彼女は永遠に清く気高くなくてはいけないのだから。

 私を見つめる彼女の顔は限りなく硬く強張っていた。まるで大理石の彫像のように。
 「もう、帰ります。一人で帰れますから、見送りを付けていただかなくても結構です」
 ようやく開かれた唇から静かで低い声が出される。
 「ですが、体調が悪いのにそういう訳には…」
 「本当に、大丈夫ですから」
 まったく驚くべきことだが、彼女は私に向かってにっこりと微笑んでみせたのだ。私はなぜか気圧されて言葉を続けることができなかった。
 「今まで、本当にありがとうございました」
 彼女のその一言にどれだけの思いが込められていたのだろう。
 私は
 「いいえ…」
と言うのが精一杯だった。
 それでも彼女は再び微笑むと私に背を向けた。背筋を伸ばして歩み去っていく姿を私はただ見つめていた。
 今まで何度となく見送った後姿だが、そこには私が初めて目にする、侵し難い気高さが漂っていた。







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