鬼面(おにおもて)

 コチ、コチ、コチ、コチ…
 柱時計の振り子が絶え間なく時を刻んでいる。
 裸電球の弱々しくも柔らかい光に照らされた店内には、瀬戸物や木彫りの仏像などが所狭しと置かれていて、埃の匂いに混じって古い木造の家だけが持つ「静謐」とでもいうべき香が漂っている。
 年若き骨董店の主人は閉店後、カウンターで先日仕入れた品々の点検をしていた。
 ある浅い桐の箱の蓋をあけると彼、如月翡翠は形の良い眉をひそめた。
 「ああ、これは売り物にならないな」
と呟きながら取り出したのは女の能面。
 眉根がかすかに寄せられ、物言いたげにわずかに開かれた口元からのぞく歯と、両目の白目の部分に金泥が塗られているそれは「泥眼(でいがん)」の面(おもて)。
 能の世界において、怨念の積もるあまり人から鬼と化するのはそのほとんどが女である。男の鬼や、生来の鬼には角が無い。怨みや妬み…凝り固まった暗い情念が角となって女の額に生えるという。その姿が「般若(はんにゃ)」の面だ。完全に鬼と化してしまう前、かろうじて人の形をとどめている女を演じる際に用いる面の一つが「泥眼」だ。両目に光る金色は人にあらざるものの証である。
 だが、翡翠が手にした面の丸く刳り抜かれた両目の穴からは、まるで涙の跡のように黒ずんだ染みが二筋、頬にかけてついていた。金色に鈍く光るはずの白目はすっかり変色してしまっている。舞台を勤め終った後に面をうつ伏せに放置しておくと、裏についた汗が窪みに溜まり眼の穴から流れ出て、面を台無しにしてしまうことがある。この面も迂闊な演じ手によって、その価値を奪われたものであろう。
 しばし眺めて一つため息をついた後、彼はその面を箱に直さず壁の釘に懸けた。怨念が表面に噴き出した「般若」よりも、内に篭らせた「泥眼」のほうが深く趣きがあるように彼には思われる。そして傷物であるとはいえ、この面には沈鬱な表情の中に女の裡にある高貴さ、誇り、そして悲しみがそこはかとなく滲み出ていた。
 「泥眼の良いものは数が少ないのに、もったいない」
 もう一度ため息をつくと翡翠は荷改めを続けた。


 …ヒョゥ〜〜ヒャァ〜〜リゥヒィ〜…
 空気を震わせて笛の音が響く。
 …ポン…ポン…カン…
 含みを湛えた鼓の音、そして乾いた大皮の音も聞こえる。
 低く空気を震わせる謡の声も地を這い響く。
 ああ、夢を見ているんだな。
 自分の身体の実感が無く、世界を感じる「自分」だけが存在している。
 一面に靄のかかったような視界の中には、囃方も地謡方も姿が見えない。
 ただ、金糸銀糸で埋め尽くされた装束を身に着けた人影だけが、ぼんやりと独り浮かび上がってきた。
 …いやいかに言うとも今は打たでは適うまじとて、枕に立ち寄り丁と打てば…
 ああ、「葵上(あおいのうえ)」だな。丁度、光源氏の愛人・六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が嫉妬と怨みの末に生霊と化して、光源氏の正妻・葵上に見立てた小袖を打ち据えるクライマックスの場面のようだ。この後、御息所は完全に鬼女と化し、祈り伏せられるのだ。
 …今の恨みはありし報い…
 演じ手の姿が次第にはっきりしてくる。
 …思い知らずや、思い知れ…
 こちらに歩み寄る人影がつけている面は…染みこそ無いがあの泥眼だ。
 …恨めしの心や、あら、恨めしの心や。人の恨みの深くして…
 なおも歩み寄り、右手の扇を高く振り上げた。これは、能の型から外れている。
 「恨めしや、恨めしや」
 それは低い謡の声ではなかった。艶のある女の声だ。どこかで聞き覚えがあるように思われた。
 「許さぬ、許さぬぞ。我ら一族を滅ぼした徳川も、徳川を守護するそなたら飛水一族も…子々孫々まで呪おうぞ」
 …もとあらざりし身となりて葉末の露と消えもせば…
 「憎し、憎し…何よりわらわを裏切ったそなたが憎い。我が父に取り入り、我が心に忍び入り、わらわに偽りの笑顔を向けた、その瞳を抉り取り、その口を引き裂いてくれる。我が一族とわらわの命を奪ったそなた、決して呪わでおくものか。何度でも鬼となりて甦り、祟ってくれよう。許さぬ、許さぬぞ…」
 …夢にだに返らぬものは我が契り。昔語りになりぬれば…

 突如、自分の中から、自分のものではない声が発せられる。
 「もはや許せとは言わぬ。徳川に仇為す異形と化したそなたを討ち取るのが我が役目。何度でも甦るがよい。その度ごとに我が手で切り伏せてくれよう。それがそなたと…己が心をも裏切った我が背負うべき罪なのだから」
 振り上げた右手が震え、面に穿たれた両の眼から涙が流れ出た。
 バシリと音を立て、面の真中に割れ目が走る。
 面が二つに割れ、白い女の顔が覗いたと思った次の刹那、眩い光が溢れ出し目を射た。思わず目蓋を閉じる。
 いや…目を開いたのだ。
 目の前に広がるのは薄暗がり。やがて店内の様子が徐々にはっきりとしてくる。やはりうたた寝をしていたらしい。身体が冷えてしまったのか、少し寒気がする。
 眼の奥がまだ痛む。
 壁を振り仰げば、泥眼の面は最前通り壁に掛かっていた。割れている様子はない。
 何気なく面に触れた手がびくりと撥ねた。
 面の頬を滴が伝い、触れた指をも濡らしたのだ。
 不意に夢の中の女の声が誰に似ていたのか思い出した。あの夏の夜、東京の地の底で己が手にかけた、般若の面をつけた女の声だった。
 コチ、コチ、コチ、コチ…
 柱時計が時を刻み続けていた。

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