それから数日ビリーは殆ど自室にこもったままだった。
食事時に声をかけてもあらわれないので、部屋まで運んだがそれらにも殆ど手はつけられなかった。
部屋の中はひどく荒れていた。元々あまり物の置いてある部屋ではなかったが、まるで嵐が通り過ぎた後のような様子だった。
叩き壊され床に転がっているものの中で目についたのは、キング・オブ・ファイターズの記念の楯やトロフィーであった。
新聞でハワード・コネクション会長の葬儀の通知を見つけた時、リリィは恐る恐るビリーに声をかけた。
「お兄ちゃん、あしたギース様の葬儀があるらしいけど、行かないの?」
「どのツラ下げて!…」
怒鳴りかけてビリーは息を呑み込んだ。
「…まだうまく歩けないから、出られないな」
「…そう」
リリィはそれ以上なにも言えなかった。
怪我の方は徐々に回復していっているようだったが、やはりビリーは外出しようとしなかった。
今まで日用品の買い出しは、休日に二人で出かけてまとめ買いしていたのだが、リリィが一人で出かけるしか仕様が無かった。
外に出ればいやでも色々な声が耳に入ってくる。
テリー・ボガードという青年がギースを倒した、と。
テリーはサウスタウンを救った英雄である、と。
今まで兄の羽根の下にかくまわれていたヒナ鳥であったリリィもさすがに状況が変わってきた事を理解できた。
外出の時も他人の目を避けるように、急いで用事を済ませるようにした。
買い物袋を抱えて、アパートに向かって早足で歩いていると、目の前に見知らぬ男が立ちふさがった。薄汚い皮ジャンを着て体のあちこちにチェーンをぶら下げたその若い男は、値踏みをするようにリリィを見下ろした。
「あんた、ビリー・カーンの妹だろ?」
リリィは黙ってうなづいた。
「なるほど、まだガキだが、ウワサ通りなかなかのベッピンじゃないか」
「あの…何のご用でしょうか」
「すかしてんじゃネエよ!」
男はいきなり声を荒げた。
リリィはびくりとして、からだを縮めた。
「今までは兄貴が兄貴だから誰も手出しをしなかったがなあ、もうお前みたいな小娘がでかい顔して歩いてる場合じゃネエんだよ」
男はリリィの腕を掴んだ。
「何をするんですか」
「世間知らずのお嬢ちゃんに身の程ってヤツを教えてやろうっていうんだよ。さあ、来な!」
男はリリィを引きずって行こうとした。買い物袋が落ちて中身が散らばった。
「いやあっ、離してください!」
三つ編みに結った金髪がほどけて宙を舞う。
「人の妹に何をしようってんだ!?」
何時の間にかビリーが棒を手に立っていた。
痩せこけた頬を無精髭が覆い、目ばかりがギラギラと光りを放っている。
「お兄ちゃん!」
「ついにご登場か」
男はにんまりと笑った。
ビリーは棒を構えた。
「てめえ、リリィを離しやがれ!」
「よう、ビリー・カーン!貴様、今までさんざエラそうにしてきたけどなぁ、ギースがいなくなっちまえば貴様なんぞ、もう警察はかばっちゃくれナイんだぜ。ここで騒ぎをおこしゃ、すぐブタバコ行きだ。ワカってんのかよ!」
男の言葉を聞いてビリーは雷に打たれたようにビクリと体を震わせた。
「トラの威を借るキツネの末路ってヤツだな」
男は勝ち誇ったように笑った。
「お兄ちゃん…」
糸の切れた人形のようになった兄を見てリリィは悲痛な声を上げた。
ビリーはゆっくりと棒を構え直した。
「警察が来るまでに、テメエの脳味噌ブチ撒くヒマはあるな」
低い声で呟き、男とリリィににじり寄った。
「オイ、ハッタリはよせよ」
男はリリィを盾にするように立ち位置を変えた。
「どうせブタバコ入りなら人殺しのほうが箔が付くってもんだ」
ビリーは構わず近づいた。目が異様な光りを宿している。
「お兄ちゃん、やめてぇ!」
男は舌打ちし、リリィに聞き取れない言葉で悪態をつくと、彼女を突き飛ばし、何時の間にか集まっていた野次馬の中に駆け込んだ。
ビリーは妹の小柄な体を抱きとめた。
リリィは兄にすがりつき泣き始めた。
「もう大丈夫だ、大丈夫だから」
ビリーは妹の頭を撫でた。
彼らは無言で人垣を掻き分けアパートへ戻った。
「怪我は無いか?リリィ」
アパートのダイニングで、まだ体を小刻みに震わせているリリィを椅子に座らせ、兄は妹の顔を覗き込んだ。
「済まなかったな、危ない目にあわせて。これからは外に出るときは必ずオレも一緒に出るよ」
「お兄ちゃん…」
リリィは青い大きな瞳を涙で揺らめかせながら兄を見上げた。
「ん、何だ?」
「これからもいろんな事言う人がいるかもしれないけど、絶対にケンカしないで。お願いよ」
「リリィ…」
先刻、あの男性より兄の方が恐かった…
あの時、兄が見知らぬ人間に変わってしまいそうで恐ろしく思えたのだ。
その思いは口にしなかった。
「私の事は大丈夫だから…他の人に怪我させたりしないで。お願い」
「わかったよ。約束する。誰に何言われても我慢するさ」
「ごめんね」
リリィは目の端に涙を残したまま、兄に向かって微笑んで見せた。
次の日からビリーは普通の生活を送るようになった。
元々相当のきれい好きである。
髭を剃り、髪を梳き、服を替え、部屋を片付けた。
家事を手伝いもした。
リリィが外出する時は必ず付き添った。
さすがに正面切って喧嘩を売ってくる輩はもういなかったが、陰口はそれとなく耳に入ってくる。
そんな時リリィは兄が身を震わせているのに気付いていた。
よく我慢している、と思う。
リリィは自分の幼い頃を思い起こした。
まだほんの子どもだった頃、両親のいない自分たちを蔑む相手がいると決まって兄は向かっていっては叩き臥せられていた。
小さな体で誰にでも飛び掛かっていく兄の後姿を何もできず見ていた。
やがて街中で働くようになって兄は耐える事を覚えた。そうしなければ生活できなかったのだ。
歳に似合わない重労働の末、何時の間にかその背中が広くなっていたことに兄本人は気付いていただろうか。
兄がハワード・コネクションに勤め始めてから何故か自分たちについて他人が語るのを聞いた事がなかった。
今になって初めて兄が「歩く凶器」と呼ばれていたことを知ったのである。
かつて弱いが故に世間に対して忍耐を強いられていた兄。
そして今、その力を必死で封じ込めている。私のせいで。
リリィの胸を鋭い痛みが走るが、それでも狂犬のように人を傷付ける兄の姿を見たくない、という気持ちの方が強かった。
とりあえず何事もなく日が過ぎていった。
ただ、時折兄が何事か考え込んでいる事があった。
ある晩、差し向かいの夕食のテーブルでビリーが切り出した。
「リリィ…オレは…しばらくサウスタウンを離れようかと思っている。なるべく遠くへ…出来れば誰もギース様のことなんか知らない所へ行きたいんだ」
静かに、だが決意を込めて語る兄の顔を眺めながらリリィは黙って聞いていた。
心のどこかでずっとこうなることを覚悟していたような気がしていた。
「逃げ出す訳じゃない。必ず戻ってくる。ただ、もう一度自分を鍛え直したい。何も考えずに済む土地で一からやり直したいんだ」
そこでビリーはふいに顔を曇らせた。
「だが、リリィ。正直、先の見えない場所へお前を連れて行きたくない。かといって、この街にお前一人残していく訳にはいかない…。オレは…どうすればいいんだろうな」
リリィはちょっと唇を尖らせてみせた。
「ワタシはここを離れる気はないよ。ずっと住み慣れてるし、知り合いだって多いし。お兄ちゃんは一人で行ってくればいいよ」
「リリィ…」
「大丈夫。みんなすぐ私たちのことなんて忘れちゃって、ちょっかいなんて出さなくなるわよ。私のことは大丈夫だから…だから、お兄ちゃん心配しないで。自分の好きなようにして。…大体、帰ってきた時に誰も迎えてくれる人がいなかったら寂しいでしょ」
リリィは兄に微笑みかけた。
「いってらっしゃい、お兄ちゃん」
いつのまにか声が震えている。
「すまない、リリィ。必ず強くなって戻ってくるからな」
ビリーは立ち上がった。
「ちょっと出かけてくる」
「もう、夜遅いわよ」
「すぐ戻るさ」
そそくさと出かける兄の背中を見送りながら、あんなにふっきれた表情を見たのは本当に久し振りだ、とリリィは思った。
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