一週間後。
親父さん曰く「見かけによらない」回復をみせたルードビッヒ様はすでに我々の用意した隠れ家に移っていただいていた。
親父さんには機材をそっくり買い換えられるだけの礼はしたが、まあ、あのボロい診療所はいつまでもあのままだろう。
ネオトキオ市街での情報収集に一区切りつけ、隠れ家に戻った俺はルードビッヒ様の部屋に入った。
上半身を起こし、クッションに背を預ける格好でルードビッヒ様は目を閉じていた。眠っておられるようだ。俺はすぐ部屋を出ようと思ったが、何とはなしに立ち去りかねた。
端正な横顔を眺めながら、俺はふと目覚める直前に「ジョゼフィーヌ」と女性の名を呼んだルードビッヒ様の声を思い出した。
今までにもルードビッヒ様の背後に女性の影が垣間見えることはあった。だがあの方の過去など俺にはまったく無関係な話であり、頓着することもなかった。
ただ、あの方が具体的に女性の名を口にしたのは初めてで、…いつもどこか遠くから聞こえてくるような響きを持つあの方の声が、ひどく近く生々しい手触りを持って聞こえたことが俺の中に引っかかっていた、というだけだ。
ふと気付くとルードビッヒ様が目を開き、俺の顔を見ていた。
「…どうした、ウルフ」
うっかり考え事をしてしまった己の迂闊さに俺はあわてた。
「いえっ、失礼いたしました。お休みの邪魔をしてしまったようで、申し訳ありません」
「いや…かわまんが…」
切れ長な、蒼い目が俺を見る。
「何か訊きたそうな顔をしていたな」
俺は自分を恥じた。任務に際して決して私情を持ち込まないのが俺のポリシーだったというのに。
「いいえ、何でもありません!」
それだけ言うと頭を下げた。
「…ウルフ」
「はっ」
「お前たちはずっと何も言わずに私のいうことを聞いてきた。…一度くらい自分から訊いてみるといい」
俺は顔を上げた。このようなことを言われるなど、今まで考えられなかった。やはりどこか気が弱くなっておられるのだろうか。そんな心配を胸にしながら、恐る恐る口を開いた。
「…その、実は…、ルードビッヒ様が目覚められる直前に女性の名を呼んでおられまして…、そのことを考えていました…」
「…そうか…」
ルードビッヒ様は顔の向きを正面に直した。目を瞑り口の中で何か小さく呟くと、再び目を開いた。
「…私が上に昇るために最初に踏み台にした女だ。そのことを後悔してはいない。たとえ登り詰めたその先で手にしたものがガラスのように脆かったとしても、だ。ただ…」
ルードビッヒ様は遠くを見るような目をした。
「…哀れな女だと思っていたが…あの時…哀れまれていたのは私の方だったのだな…」
また、目を閉じた。
「私はお前達のこともずいぶん踏みつけてきたな」
「いいえ、そんなことは…!」
「多くのものを踏みつけて、そうして手に入れたものを私はすべて失った。私にはもう何も残っていない…。お前たちにも、もう何も報いることができない」
「いいえ…!」
俺の語調が思わず強くなった。
「我々にはルードビッヒ様がいらっしゃいます」
ルードビッヒ様がこちらを向いた。
「もう一度…もう一度、一から始めればいいではありませんか」
そうだ、何かの歯車が少し狂っただけだ。今度こそきっと…。
「我々はどこまでもお供いたします」
我々はルードビッヒ様の影。この世に崇めるものはただ一つだ。
ルードビッヒ様はしばらく黙って俺を見ていたが、やがて目を細め、口を開いた。
「外の様子はどうなっている」
この方が自ら外部のことに興味を示されたのはあれ以来初めてだ。
「ネクライムを壊滅させた、ということであの小僧は英雄扱いですよ」
「ウラシマンが、か」
「市長から勲章の贈呈があるとかで、近々式典が開かれる予定です」
「そうか…」
ルードビッヒ様は以前と変わらぬ冴え冴えとした微笑を浮かべた。
「彼には、近い内に挨拶をしなければならぬな」
「その時の奴の顔が楽しみですよ」
小僧の奴、ルードビッヒ様が生きていたことに驚くに違いない。
それから、悔しがるだろうか。
…いや…きっと、喜びの顔を見せるだろう。
光あるところに影は生まれる。
そして、ルードビッヒ様ほど鮮やかで美しい影は、この世に存在しないのだから。