駅から続くだらだらとした坂道を私はゆっくりとのぼっていた。まだ昼間はずいぶん暑いけれど、日が暮れるのはだいぶ早くなった。ぽつぽつと街灯は点いているけれど、やはり薄暗くて、人気が少なくて…。この道を通るのはあまり好きになれない。
こちらに帰ってきてもうすぐ4ヶ月になる。今月からフラワーアレンジメントの講師の仕事を始めた。今まで外で仕事をしたことがなくて、体が弱いのだからと両親は心配したけれど、週に2回程度ならなんとかなると思った。家でじっとしているよりは気が紛れるだろうし。
でも、やはり慣れないことばかりで、幸いまだ熱を出したりはしていないが、いつも帰りにはぐったりと疲れてしまう。
坂を上る足取りもつい重くなる。
ハッハッハ…と短く荒い息が聞こえて、私は思わず立ちすくんだ。
ああ、またあの犬だ。
放し飼いなのか野良かは知らないけれど、時々このあたりをうろついている大きなリトリバー。
来ないで…と思うのに、トットッとこちらに近付いてくる。
ふんふんと大きな鼻面で、動けないでいる私のスカートの裾を嗅ぎ回った。時折触れる濡れた感触に、背中をぞっと悪寒が走る。
「助けて…克彦さん…」
私はそうつぶやいていた。
犬はひとしきり私の周りを回ると、ふいと離れていった。
私はほぉっと息を吐き、そしてなんだか情けなくなってしまった。
もう克彦さんが私を守ってくれることはないのに。
自分から別れを告げたはずの人を、また無意識に頼ってしまった…。
私はまたゆっくりと歩きはじめる。
…あれはいつだったか、二人で市民公園へ散歩に行ったときのこと。
ソフトクリームを買いに行った私に、大きな犬がまとわりついてきた。こちらを威圧するように見上げる鋭い目と大きな口。荒く吐き出される息も怖ろしく、私は蛇に睨まれた蛙のようになった。
不意に犬が動き、私は悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
その時、克彦さんが私と犬の間に割って入った。
犬に飛びかかられ、克彦さんの体が倒れた。
私は悲鳴を上げた。
だが、横倒しになったまま、克彦さんは犬の首をくしゃくしゃと掻き回していた。
犬も舌を出してシッポを振っていた。
「大丈夫だよ、こいつ、じゃれてるだけだから」
彼は子どものような顔をして笑いながら、犬を撫でていた。
シャツがどろどろになってしまったので、私も苦笑した。
大きなシッポをバタバタさせている犬の姿は、もう怖く見えなかった。
…こんなことを思い出してもしょうがないのに…。
明るくて優しかったあの人は、ある日突然、別人のようになってしまった…。
気がつくと家はすぐそこだった。
玄関に入ると、目の前の電話が鳴った。受話器を取ると年輩の女性の声が響く。
「相良です」
「…お義母さん!?…ご無沙汰しています!」
本当はもう義母と呼べない人だけれど。
つい恐縮する私に、お義母さんは私に落ち着いて聞いて欲しいと前置きして…。
克彦さんが亡くなったと告げた。
「う…そ……」
切れ切れに漏れた声が受話器を通ったかどうかわからない。
あの人が死んだ…?
うまく事態を飲み込めず、それ以上言葉が出ない。
「もう新しい生活を始めているあなたにお願いするのもどうかと思ったのだけど、あの子を一緒に見送ってもらえませんか」
ためらいがちな声が耳を打ち、私は我に返る。
「…もちろんです」
「葬儀は東京なのだけど、大丈夫?」
「東京…?こちらでされないんですか?」
しばらく、受話器の向こうからためらうような気配が伝わる。
「…どうせわかることだから、先に伝えておきますが、あの子は事件に巻き込まれて…殺された可能性があるんです」
「…え?」
そういえば、私はあの人の死因を訊ねることさえしていない。
「警察とまだいろいろあるから、東京でお骨にして岩手に帰るつもりなの」
「そう…なんですか」
それから、葬儀の場所や時間などを聞いて、私は受話器を置いた。
「相良のおかあさんから?」
居間から母が出てきて訊ねた。
「…克彦さんが亡くなったって…」
「…ええ!?」
「明日、東京に行って来る」
「東京?なんでまた。そんな遠く、大丈夫なの?」
「…大丈夫よ」
私は階段を登り、自分の部屋に入った。
着替えもせずにペタリと座り込む。
夕食はまだだが、何も食べる気がしなかった。
喪服を用意しないといけない…。
ぼんやりとそんなことを考える。
さっきは電話で、ずいぶんそっけない受け答えをしてしまった。
お義母さんは私のことを情の薄い女だと思っただろうか。
…殺されたかもしれないなんて…。
去年、四国への旅行から戻ってから、克彦さんはまるで別人のようにふさぎ込んで、何かにおびえるように、引っ越しを繰り返した。
慣れない土地に苦労して、やっと慣れてきたと思えば次の土地、と住むところを転々とすることはとても辛かった。
でも、それ以上に辛かったのは、あの人が自分が抱えていることを、決して私に教えてくれようとしないことだった。
夫婦なのに。
悩みがあるのだったら、私だって分け合って、彼を支えていきたかったのに。
私のことを信頼してもらえなかった。
私の気持ちを考えてもらえなかった。
それが悲しくて、あの人が遠く感じられて、あの人が見えなくなって、私から離れた。
でも、彼の憂鬱がこんな形で現実になるなんて…。
涙は出てこなかった。
あの人が死んだ、ということが、まだ自分の中でピンときていない。
頭がぼんやりとしてしまって。
もう、あの人に会えないのだと、それだけが胸の中にすっと落ちた。
まさか、あのまま二度と会えなくなるなんて、本当は思っていなかった。
私はジュエリーケースを開き、一番奥にしまった指輪を取り出した。鈍く光る白金の指輪は、私の指には合わない。
別れを切り出したとき、本当はあの人に「やりなおそう」と言って欲しかった。でも、彼は黙って離婚の手続きを進めてしまった。そして、この指輪を残して、私の前から姿を消した…。
私は指輪をしまった。明日出かける準備をしなければいけない。
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