正直、岩手から東京までの間に、ずいぶんと疲れてしまった。
会場に到着すると、少なくとも一度は顔を合わせたことのある、克彦さんの親戚が、すでに大勢集まっていた。私に向けられた目はほとんど戸惑いと…いくつかは好意からほど遠いものだった。
克彦さんのご両親だけが私に声を掛け、迎えてくれた。
私は棺の前に案内された。
白い菊の花に囲まれて克彦さんは横たわっていた。
死化粧を施された彼の顔も白くて…。
何もかも白くて…。
ふと視界が黒く反転した。
あっと思う間もなく、足元がふわり、として…。
体を固い衝撃が襲った。
貧血を起こして倒れてしまった私は、空いている部屋で長椅子に休ませてもらった。
情けない話だけれど、今の私は、あそこにいても何もすることはないだろう。
毛布の端をつかみながら、私はそっと唇をかんだ。
私の知らない人になってしまった克彦さんは、
私の知らないところで…
私の手の届かない場所へ行ってしまった。
「ちょっといいかしら」
お義母さんが入ってきた。
「警察の方がみえて、あなたに話を聞きたいそうなんだけど、起きられそう?」
私はあわてて起きあがる。
「大丈夫です…。ご心配をおかけしてすみません」
「やっぱり、無理なお願いをしてしまったかしらねえ」
お義母さんはちょっと寂しそうに笑って、私はますます申し訳ない気持ちになった。
「失礼します」
スーツの刑事さんが二人、入ってきた。
一人はたぶん克彦さんと同じくらいの歳で、すいぶんときびしそうな顔をしている。
もう一人は、ずっと年かさで、おだやかな雰囲気の人だ。
「体調が悪いので、できれば短めにお願いします」
そう言ってお義母さんは部屋を出た。
刑事さんたちは私と向かい合うように座った。
「相良克彦氏の奥様…だった方ですね」
若い方の刑事さんが訊ねた。
「はい、そうです」
「4ヶ月前に離婚された…」
「…はい」
「単刀直入に伺います。貴女は今、相良氏の子どもを宿されている、ということはありませんね」
一瞬何を訊かれたのか意味がわからなかった。
年かさの刑事さんは渋い顔をして若い刑事さんを見ていたけれど、若い刑事さんはキツイ目つきでこちらをじっと見つめている。
「妊娠なんかしていません…。ごらんになればおわかりだと思いますけど…?」
自分でも顔に血が上っているのがわかる。
いったいこの人は何を聞きたいのだろう。
「すみませんね、若い女性に失礼な聞き方をして。でも我々にとって大事なことなんですよ」
年かさの刑事さんが、いかにも申し訳ないといった顔で言った。
「大変不躾な質問だということは承知しています。お気を悪くさせて申し訳ありません。ですが、どうしても直接、はっきりと確認しておきたかったのです」
若い刑事さんは変わらずこちらをまっすぐ見つめてきた。
「相良克彦氏は、アンノウンなる存在に襲われた可能性があります」
…アン…ノウン…?
2年前に関東で未確認生命体が暴れて大騒ぎになったけれど、それと同じような存在が、また東京に現れたらしいという噂は聞いていた。でも、数はそれほど多くなかったし、被害者も未確認の時とくらべると少なかったので、あまり真剣に考えたことがなかった。
まさか、自分の身近に降りかかるなんて。
「今までの事件から、アンノウンは被害者の血縁関係者を連続して襲う傾向があると確認されています。まだ、生まれ出ていない命も含めて」
私は息をのんだ。
刑事さんの怖いくらい強い視線がわずかにゆるんだ。
「相良氏のご両親にはすでに護衛がついています。貴女にも護衛の必要があるかどうか、それを知りたかったので、立ち入ったことをお聞きしました」
「いえ…」
子どもができなかったことは…この際、幸いといってよいのだろうか…。
私はつい、うつむいてしまう。
「それから、もうひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
「え?」
私は顔を上げた。
「相良克彦氏は、何か…そう、人とは違う能力のようなものを持ってはいませんでしたか」
年かさの刑事さんがあわてたような顔をして、若い刑事さんをこづいた。
「…おっしゃる意味がよくわかりませんが」
私はそう答えるしかない。
「あまりこれも知られていないことなのですが…というより、まだこれははっきりと確認された訳ではないのですが、アンノウンの被害者は何かしら人とは違う特殊能力…いわゆる超能力といわれるものの持ち主である可能性があります。たいへん非現実的で唐突な話だという事はわかっていますが、できればお答えいただきたいのです」
たしかに現実離れした話ばかりで、私の頭の中はすっかり混乱してしまう。でも、相手は大まじめな顔で、冗談でもからかっているようでもない。
「別に…人と違ったところなんてありませんでした…」
年かさの刑事さんは軽く息をついた。
「さ、体のこともあるし、このあたりで…」
「ちなみに、離婚の原因は?」
年かさの刑事さんの言葉をさえぎるように、若い刑事さんは質問してきた。
「おいっ、失礼だろう!」
年かさの刑事さんは、若い刑事さんの肩をつかんだ。
私は自分に向けられる視線から逃れるように目をつぶった。
「…急にあの人は変わってしまったんです。別人みたいに暗くなって…理由も言わずに引っ越しを繰り返して…。何かにおびえているみたいだったけど、私には何も話してくれなくて。私、もうあの人がわからなくなって…。ついていけなくなって…だから…」
「そうですか。変わったというのはいつ頃ですか。何か思い当たるようなことはありましたか」
「…去年の9月、四国へ一人で旅行に行って、帰ってきてからです」
「9月に…四国へ?」
刑事さんが驚いたような声を出したので、私は思わず顔を上げた。
「四国へはフェリーを使われましたか?」
刑事さんは勢い込んで聞いてくる。
「…景色をカメラで撮りながら、のんびり行くのが好きだったので、たぶん」
「途中で事故に遭われたという話は、お聞きになっていませんか」
事故…?
この人は何を知っているのだろう。
私は…何も知らないのに…。
「あの人は、旅行について何一つ話をしてくれなかったので…なんにもわからないんです」
今さら何かを知っても、もうどうにもならないけれど…。
つい、苦笑が浮かんでしまう。
「そうですか…」
若い刑事さんは小さくため息をついた。
「どうも、いろいろと言いにくいだろうことまでお聞きして、申し訳ありませんね。これで失礼させていただきます」
年かさの刑事さんがイスから立って頭を下げた。
若い刑事さんも立ち上がりかけて、急に目を見開いた。
「そうだ、相良氏の遺体が発見されたときの状況についてお聞きになっていますか?」
「…いいえ、何も」
「いささか不思議な様子だったそうですが…」
「おい、これ以上は…」
「いえ、教えてください」
最後まで、何も知らないままはいやだった。
「相良氏は頭部ほか数箇所を人間離れした力で殴打されていて、それが死因なのですが…かつての自宅で花に囲まれて亡くなっていたそうです」
「自宅で?」
「ええ、引っ越しを繰り返されたという、その最後の東京の家…今は空き家になっているところで、鉢植えの花を手に、イスに座った状態で見つかっています。庭の鉢植えもみな咲き揃っていて、それを眺めるような格好だったそうです。妙ではありませんか?放置されて4ヶ月も経つ鉢花が咲いているなんて」
克彦さんが、あの私たちの家で…?
私が育てていた花を…?
「なんらかの特殊な力が働いたと考えられませんか?」
「わかりません…私には何もわかりません…」
…わからなかった。
あの人の心がわからなくなっていた。
いくらそばにいても、遠く感じられてしかたなかった。
でも、あの人は、私たちの思い出の場所にいた。
私たちの大切な思い出を手にしていた。
人生最後の瞬間に。
ふ…と、私の目から涙がこぼれた。
次から次へと涙が湧き、
私は嗚咽した。
あの人はアンノウンとかいう怖ろしい存在に、自分が狙われていることを知っていたのだ。
もし襲われたら私のことを守りきれないと思って、私が去ろうとしても何も言わなかったのだ。
私に何も相談してくれなかったのは、やっぱりまだ悔しいけれど。
「ごめんなさい、克彦さん」
あなたの気持ちをわからなくてごめんなさい。
あなたの思いを疑ってごめんなさい。
あなたを信じられなくてごめんなさい。
あなたを一人で逝かせてしまってごめんなさい。
寂しかったよね。
あなた、にぎやかなことが大好きで…本当は寂しがり屋だったものね。
ごめんなさい、あなた。
若い刑事さんは困り果てた顔をして。
年かさの刑事さんは黙ってハンカチを貸してくれた。
二人が帰った後、私は喪服のまま外へ出て、花屋で両手に一杯、季節の花を買ってきた。そして、克彦さんのご両親に向かって、棺を飾る花を私に飾らせて欲しいと、無理を言った。周りから反対の声が上がったけれど、お義母さんは、私の思うように見送ってくれればいい、と言ってくれた。
あらためて見る棺の中の克彦さんは、穏やかな顔をしていた。
私はその周りを柔らかな明るい色彩の花で飾っていった。白い菊よりも、優しく暖かい色合いの方が、やっぱり克彦さんには似合う。
花を飾りながら、私は声をかけた。
「寂しい思いをさせてごめんなさい、あなた…。精一杯見送るから」
仕事帰り、駅からの坂道をのぼっていると、あの犬が向こうからやってくるのが見えた。私は顔をまっすぐ前へ向けて、歩調を変えずに歩き続けた。犬はちょっと顔を向けただけで、私の横を通り過ぎていった。
もう私は誰にも頼らず歩いていかなくてはならない。
克彦さん。
私は、
大丈夫だから…。
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