ライト・スタッフ

《3》

 自分に近付いてくるアンノウンに対して、圧倒的な恐怖で身体がうまく動かなかった。何度となく間近で対してきたはずなのに、カメラ越しと己の目で見るのとはこれほどまでに違うものだろうか。
 (やられるっ)
 目の前に迫った死の恐怖に為す術もなく目をつぶった。
 だが目の前に広がったのは思いがけず広い背中だった。
 己の手を濡らした真っ赤な鮮血。
 揺り動かしても、その身体は動くことはなかった。



 「北條がいなくなって、せいせいしたわね」
 警視庁の廊下を歩きながらうきうきとこぼされる小沢の声に
 「え?誰のことです?」
 尾室が間の抜けた声を上げた。
 「何言ってんのよ。あの嫌味バカ一代にきまってるじゃない」
 「はあ」
 「北條透よ、北條透。G3システムを散々邪魔して、実力もないのにアンノウンにちょっかいだして、とうとうやっつけられちゃった北條透のことよ」
 言葉を重ねても、尾室は要領を得ない顔をしている。彼は少なくとも質の悪い冗談を言う男ではない。
 「何…もしかして本当に覚えてないの?」
 小沢は長身の青年を振り返った。
 「氷川くん!あなたなら覚えているわよね。捜査一課の北條透。G3システム装着員の座を何回も貴方から横取りしかけた…」
 「何いってるんですか小沢さん。G3の装着員は最初からずっと僕が勤めているじゃないですか」
 氷川は爽やかな笑顔を向けながら言った。
 小沢は廊下を駆けだした。
 「あ、小沢さん…」
 尾室の声が背後から聞こえる。
 廊下を走り続け、小沢は捜査一課に飛び込んだ。
 「小沢さん、どうかしましたか」
 ざわめく刑事たちの間から訊ねる河野に向かい、小沢は息を切らせながら言う。
 「河野さん、こちらに所属していた北條透のことなんですけど…」
 「ほうじょう…?そんな奴はここにはいなかったがなあ」
 一瞬目の前がくらりとした。



 目を開けると暗がりの中だった。やがて見慣れた自分の部屋だと気付いた。
 「…何よ!こんな夢…!」
 ややあって、ようやく小沢は口にした。
 時計を見ると、電車の始発にはまだ早い時刻だった。
 しばらく時計を眺めていた小沢は、すっと立ち上がった。


 警察病院に着いた頃、ようやく空が白んできた。
 暗い廊下に漏れるナースステーションの明かりを避けるように、滑り込む。
 病室の前のネームプレートには『北條透』と書かれた札が納まっていた。
 「何だ、ちゃんといるんじゃない」
 しばらく前に立っていたが、そっと扉を開けた。
 白く大きなベッドだけが、まず目に飛び込んでくる。
 枕元に近付くと、北條は静かに寝息を立てていた。
 「いい気なものね」
 しばし見下ろしていた小沢は、イスを引き寄せ、枕元に座った。
 北條の寝顔を見るなど初めてだった。そもそも横顔をじっくりと見たこともない。
 普段のきつい視線が瞼の下に隠れてしまうと、拍子抜けするほど幼く、どこか儚く見えた。
 「何よ…いつもとぜんぜん違うじゃない」
 毒気を抜かれたような声で小沢は呟く。
 (私は警察としての正義を遂行しただけです)
 (…仮にも警察官なら、冗談でも『死ね』なんて口にするんじゃない…!)
 北條の声が頭に甦る。
 「…私が悪かったわよ。警察官としては軽率だったわ。これであやまったから、もう二度と謝罪なんてしないからね!」
 小沢の紅く形の良い唇から声がこぼれた。
 「それから…」
 なお声が小さくなる。
 「…ありがとう。ごめんなさい」
 小沢は人差し指でそっと北條の額をつついた。
 北條がかすかに身じろぎする。
 小沢は立ち上がり、病室を後にした。



 次の週、階段を上がりかけていた小沢たち3人は、上の階から北條が降りてくるのを目にした。小沢は極端に身体を端に寄せた。が、氷川が北條の方に近付こうとする。小沢はさっと割り込み、(話をするな)というように氷川を睨む。そのまま行き過ぎようとしたが、北條は例によって見逃してはくれなかった。
 「お久しぶりですね、小沢さん」
 いつもの歪んだ冷笑が口元に貼り付いている。
 「…しばらくね、北條くん」
 小沢は人形のような瞳で北條を見上げる。
 「警察としての心得をまるで持ち合わせていない、誰かのおかげで、しばらく休む羽目になりましたよ」
 「そう。こちらは、余計なことに首を突っ込んでは引っかき回す誰かがいなかったおかげで、ずいぶん仕事がはかどったわ」
 北條の眉が跳ね上がる。
 「まったく、口の減らない人だ。…夢の中のあなたはずいぶん素直だったのに」
 「あなたこそ、目を覚ませばろくな事言わないわね」
 「へ?」
 尾室がきょとんとした目を北條と小沢に向けた。
 北條は我に返ったような顔を一瞬浮かべ、視線を泳がせた。
 「あなたなんか、ずっと寝ていれば良かったのよ」
 言い捨てると、小沢は振り返らず階段をのぼっていった。
 (その方が可愛いんだから)
 そっと口の中で呟きながら。

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