あの忌まわしき事件の発生から1年3ヶ月が過ぎた。陽光うららかな頃、一条薫は長野県警に再赴任となった。
もとの部署へ足を運んだ一条はあたたかく迎えられた。
「おかえりなさい、一条さん!」
一条が東京にいる間も資料提供など何かと協力を続けていた亀山が、真っ先に満面の笑顔で叫ぶ。
「ご苦労だったな、一条」
上司が肩を叩く。
「いえ…」
一条がはにかんだように答えたとき、目の前にひどく立派な花束が差し出された。
「一条さん、お疲れさまでした。長野県警女性職員有志からです」
やや頬を上気させながら、その女性警官は目を輝かせた。
少し離れた場所からも、何人もの女性警官がこちらを見つめている。
「あ、ありがとう」
一条が花束を受け取ると、ひどく甘い香りが鼻を突いた。
一瞬頭がぐらりとする。
(これは…?)
淡く優しい色でまとめられた花束の中に混じった一輪の真紅の薔薇。
その鮮やかな色彩に一条の目は吸い寄せられた。
「どうかしましたか?」
かけられた声に我に返る。
「いえ。いい香りだと思って」
「そうですか」
女性警官は笑顔を浮かべた。
その夜、一条は前に入っていたのと同じ独身寮の部屋に身を落ち着けた。先に送っておいた荷物から最低限のものを出し、後の整理は次の休みに回すこととした。
花瓶などは持っていないので、一番大きいタンブラーに水を入れ、花束を活けた。花々はタンブラーからこぼれ落ちそうになり、甘い香りを漂わせる。
片付いた、というより殺風景な部屋には不釣り合いの光景に、一条は苦笑を浮かべた。
作りつけのベッドに横になって何時間経っただろうか。
浅い眠りの中を漂いながら、一条は息苦しさを覚えた。
甘い、むせかえるような薔薇の香り。
(…空調を入れた方がよいだろうか)
ぼんやりと考えながらゆっくりと目を開く。
視界に入ってくるのは黒一色の世界。
身体を起こそうとしたが、力が入らない。
(何だ…?)
どこかしびれたようになっている身体をむりやり持ち上げる。
その目の前に、ぼんやりと浮かび上がるものがあった。
白い服を纏い、髪を結い上げた女性の姿。形良い額には白い薔薇のタトゥが浮かんでいる。
「B−1号!」
自分の手で撃ち殺したはずの未確認生命体。
夢、あるいは薔薇の香りが見せる幻だろうか。
銃など今ここにあるはずもないが、一条は手近に武器になる物がないか目を走らせた。
あのたおやかな手で振り払われただけで、幾度も深手を負わされたのだ。
「久しぶりだな、リントの戦士」
静かな、だが力強さを潜めた声が耳を打ち、一条は思わず女の白い顔を見遣る。
「…クウガはどこにいった」
「知らん!」
一条の叫びに女は眉をひそめる。
「ゲゲルの勝者が消えたのか」
「五代はそんなものをしていたのではない。貴様たちの殺戮を阻止しようとしただけだ!」
「同じことだ」
「違う!五代はこの世に闇をもたらすものになどならなかった。人としての心を持ち続けたんだ」
「人…か」
女が口の端を上げる。
「何がおかしい」
「リントはお前が思うほど我らグロンギと異ならない」
「ただ人を殺すことだけを自分たちのよろこびにするような、貴様たちとは違う」
「そうか…?リントも何時の間にかずいぶんと変わったぞ。もう長い間、リント同士で戦いを繰り返してきているのだろう?」
「いや、しかし、それは…」
「我々が、この手で、爪で、牙で、足で戦うように…。お前達は、弓で、剣で、槍で、そして…」
女は自分の胸を指さした。
「銃で」
鮮やかな笑みが走る。
「爆弾で戦う」
一条は絶句した。
「今、リントは全てのリントを何十回も皆殺しできる武器を持っているのだろう。リントは最早狩られるだけの存在ではなく、ルールも決めずに互いに何万人も殺し合っている」
「それは…。たしかに、人類は戦いを繰り返してきているかもしれない。だが、誰もが争いを望んでいるわけじゃない。人々が争うことがないように、努力している人間だっているんだ!」
「今度のクウガのことか…?」
ふわり、と女の髪が揺れる。
「ゲゲルに勝ったのはクウガだ。極めしものが新たなゲゲルを望まないなら、それでもよい」
かすかな笑みを浮かべながら話し続けていたB−1号の表情が不意に厳しくなる。
「クウガは今どこにいる」
「知らん」
再びの問いに、一条は同じ答えを返す。
「お前は、クウガから目を離すな」
ゆっくりと言い切る女の声に、一条は目を見開いた。
「…ゲゲルの勝者の行く末を見届ける…それは今はもう、お前の役目だ…」
女はかすかに目を細める。
常に力強くこちらを見据えてきた瞳が揺らぐのを、初めて一条は見た。
「さっきも言ったが、リントはお前が思うほど、我々と違わない。…そして、お前が思うより、我々はお前たちに近いのだ」
B−1号は腕を伸ばした。
ひやり、とした感触が一条の頬に触れた。
一条はとっさに身を固くした。
かつてB−1号の手が蔓状に変化し、3号を締めつけていた情景が脳裏をよぎる。
だが、指先はそれ以上動かず、滑らかな感触だけを伝えてきた。
一条は彼女が今まで常に手袋をはめていたことを思い出した。
今、彼の頬に触れているのは、白く細く長い指先。
女の形の良い口角がゆっくりと上げられる。
それは、彼女が初めて見せる種類の微笑みだった。
今までの底知れない力を感じさせる冷たい笑みではない、きれいな、やわらかい微笑。
「ゴラゲドガゲデダボギバダダ。ラダガゴグ、ゲンギンリント」
薔薇の香りがひときわ強まり、一条は目の前がかすんでいくのを感じた。頭の中までが甘い香りにしびれていく…。
ふと自分の身体が自由になっていることに気付き、一条は跳ね起きた。
すでに部屋の中は明るくなっていた。
(夢…か…?いや、だが…)
ベッドを降り、活けた花を覗き込む。
昨夜と同じ瑞々しさを見せる花の中で、真紅の薔薇だけが枯れてうつむいていた。
一条は手を伸ばした。
カラカラに乾いた花を握りつぶす。
「つっ…!」
拳を開くと、砕けた花びらが指の間からこぼれ落ちた。
棘が刺さった手の平から、真紅の血が滲み出る。
一条は己の手を見つめ、ただ立ち尽くしていた。