(三)

 

あくる日の朝、高木はいつものように会社へ午前十時に出勤をした。

朝起きてから、ホテルで早い目の朝食を獲り、タクシーで会社まで乗ってきた。

一階のエレベーターで七階まで上がると、既に社員達は出勤をしており、それぞれに仕事をし
ていた、高木は彼らに声を掛けてから八階の社長室に上がった。

「おはようございます」

京子が社長室へお茶を持って上がって来た。

「夕べはどちらに行かれたのですか」

彼女は特別意味が在って言っているのではないのだろうが、いつも何気なく言う彼女の言葉が
気になる。

「君には関係ないやろ」

いつもこのような言い方で、少しきつく言ってはみるが、心の奥では悪く思っている。

彼女にすれば高木の行動が気になるのだろう、だがこのような言い方をされればそれ以上聞く
ことが出来ない。

田川京子は彼が良子と別れた時、彼と結婚を出来るものと思っていたようだ、だが町子と結婚
をしてしまった、その為二人の間に溝が出来、それ以来お互いによそよそしくなった。

彼と京子との付き合いは長かった、彼女は二十八歳の時東京から京都に帰って来た、それか
ら知人の紹介で彼の会社へ入った。

高木と良子との仲がうまくいかなくなりだした頃、京子と肉体関係を持ってしまった。

丁度京子が三十歳の時だった。

そんな訳で年齢からも彼女が高木と結婚をしたいと思うのは自然の成り行きだった。

「社長町子さんが着替えをお持ちされました」

着替えはいらないと言っていたが、彼が出勤する少し前に持ってきたらしい。

「ああ、ありがとう」

奥さんと言わない京子に少し気がかりだったが簡単に言葉を返した。

それから少し仕事の打ち合わせをし、京子は高木の部屋を出て行った。

京子が部屋を出て暫くすると、机の上の電話が鳴った。

「社長、弁護士の菊池先生からお電話です」

内線電話で京子が伝えた。

「弁護士の菊池です」

外線に切り替わり菊池の声が聞こえた。

「いつもお世話になっています」

「高木さん、次の法廷の日時はご存知でしたね」

菊池はいきなり用件を話した。

「今月の二十三日でしたね」

「そうです、時間は午後の一時十五分からです、今回は高木さんの証人尋問ですが分かって
頂いてますね」

「承知しております」

「今のところ特別これと言ったことはありませんが、まだ一週間先ですので何かあればご連絡
させていただきます」

「ありがとうございます、先般打ち合わせさせていただいた通りでよろしいですね」

「それで結構です」

「それじゃ当日は法廷でお待ち致しております」

そう言って電話が切れた。

二十三日の裁判の確認のための電話だったが、用件のみの簡単な電話である。

高木は弁護士があまり好きではない、職業柄と言うのか、言葉に無駄がなくあまり抑揚もな
い、どの弁護士も似た様なものである、だが好き嫌いはともかく、裁判ともなると弁護士に頼ら
ざるを得ない。

菊池からの電話が切れてからすぐに、専務の相田が社長室に入ってきた。

「社長今お時間よろしいでしょうか?」

「ああ何やったかな?」

「他でもないんですが、例の京都の土地の件で、、、」

「ああ、あれ、それでその後どうなった?」

「以前から言っていました買主ですが、銀行の決裁も下りたようですし、それに許可関係も役所
で確認を取れたので、契約をしたいと言って来ておりますが」

「それは良かった」

「ご都合はどうでしょう?」

「まあ買主に合わさなあかんやろ」

「社長さえよろしければ、明日か明後日にでも、と先方には言っておりますが」

「ほな早いほうがええなあ、明日にでも出来るように時間の打ち合わせをしてくれないか」

「承知しました」

「ところで相田君、金額やが結局幾らになったんや」

「申していませんでしたか?」

「いや細かいところまでは聞いてへん」

「百九十四坪で坪当たり百五十万ですから、合計二億九千百万円になります、これで宜しかっ
たでしょうか」

「分かった、書類は?」

「ここに持ってきております、確認していだけますか?」

高木は相田が持ってきた契約書と重要事項説明書に目を通した。

「これでええから後で田川君に押印してもらってくれ」

書類を相田に返し、それから相田は部屋を出て行った。

高木は内心ほっとしていた、以前にこの土地の契約の話があったが、買主の銀行融資や役所
の建築許可などの関係で延び延びになっていた、三億近い取引ともなるとそう簡単には事は
運ばない、契約の話があってから一ヶ月程掛かっていた。

一年ほど前に買っていた土地だったが古都保存法などの関係や遺跡なども出て来た為、

許可に時間が掛かっていた、無論所有者としてそれらを解決しなければならないが、その為も
あり買主側の銀行に対し融資の為の説明などが手間取っていた。

最終的には法律上の許可も下り、そして遺跡の調査も完了したためそれらの許可書類を銀行
に見せ融資の承認が下りたようである。

当然買主も新築する建物の許可の内諾も取り付けていた。

専務の相田も無口ではあるが随分奔走をした、慎重であるだけが取り柄の相田であったが、
今回の取引はその慎重さで救われた。

うっかりミスなどをしていれば後々大変なことになるところだった。

相田が退室した後、町子が持ってきたスーツに着替えた。

それから一時間程溜まっていた書類に目を通していたが、少し落ち着いたところでタバコに火
を着けた。

窓の外を眺めながらタバコをふかしていると、昨日の「たかせ川」のママが言った言葉が頭に
浮かんだ。

「誰が子供の亡くなったことをゆうたんやろ、そう言えば、最近はすっかり忘れていた」

高木は寒そうな窓の外に目をやり当時を思い出した。

あの時はもう一度良い家庭を作るのが夢だった、再婚をして幸いにも子供が出来た。夢が現
実になり幸せを実感していた、幼い子供にすべてを掛け夢が取り戻せたかに見えた。

子供の名前は「まゆ」と名づけた、まさかその子が生まれて一月で亡くなるとは思いもしなかっ
た。

「あれからもう四年か」

あの時の情景が頭の中を駆けた。

 

冬の大津の夕暮れは早い、京都と異なり夕暮れの琵琶湖を吹き渡る風は強く、荒涼とした風
景が漂う。

高木はその日早く帰宅をした。

彼の自宅のマンションは、JR大津駅の西にある逢坂山の小高い丘の中腹にあった。

会社の社長室と同じように琵琶湖や北西にある比良山がよく見渡せる、小高い丘にあるため
むしろ会社の部屋より眺めはいい。

琵琶湖の冬は午後五時を廻るともう暗くなる。

「あなた、昨日はどなたとご一緒してはりましたの?」

気になるのか町子が聞いた。

「ああ、、、」

いつも高木は子供達と会っても町子には言わないようにしていた、結婚するまでは会ったこと
を聞いてほしい気持ちもありそれ程気にしていなかったが、結婚してからはなんとなく言うこと
に気が引けた。

それはみどりに対する気遣いでもあった、無論町子もあまりいい気はしないだろうと思ってい
た。

そんな彼の心遣いを二人はどれ程感じていたのか、高木には知る術はなかった。

「あなた別保さんから電話がありました、今度の二十日の木曜会六時半が七時半になったとか
言うてはりましたが」

「そうか、携帯電話にかければええのに、家に?」

「自宅からだと言うてはりましたが」

「ふーん」

別保は別保不動産の社長別保謙二郎のことである、彼は同業者の中では最も古い付き合い
である。

この木曜会は同い年の同業者八人で構成されており、毎月の月初めの木曜日に会を開いて
いた、今月は師走でもあり忘年会を兼ねてこの日に開催することになっていた、

別保はこの会の世話人である。

「あなた、お風呂お湯が入ってます」

「ああ入る」

マンションはキッチンと風呂が接近している、キッチンと隣り合わせに洗面所を兼ねた脱衣所
があり、台所仕事をしている町子と結構この場所で話すことが多い。

「ところでお婆ちゃんどうやった」

今朝、町子が母を病院に連れて行った結果が気になり、台所にいる彼女に聞いた。

「先生は白血球が上がっているというてはりました」

「そうか、もしかしたら何処か炎症をおこしているのかもしれんなあ」

「腸炎かもしれないというてはりましたが」

「歳が歳やからなあ」

「ええ」

白血球が上がっていると聞いて、あるいは今流行っている腸炎ではないかと心配になってき
た。

「お婆ちゃんに外へはあまり出ないように注意をしておいてくれないか」

「ええ、でもお義母さん私のいうこと少しも聴いてくれはらしません」

この頃、町子と母はなんとなくおかしい、もしかすれば心配していたことがいよいよ現実になり
始めたのか。

「じゃ、俺から言ってみる」

母を兄の家から引き取った時、今のようなことは全く心配していなかった、町子は祇園で客商
売をしていたのだし、母一人ぐらい適当にあしらえるだろうと思っていた。そして母との歳の差
も随分ある、言わば孫のようなものである、あまかったのかもしれないが当時はそんな訳で全
く心配などしていなかった。

高木は仕方なく風呂から上がり母の部屋へ行った。

「お婆ちゃん入ってもええか?」

「なんどす?」

母はテレビを見ていた、背を向けたまま振り向きもせず機嫌の悪い声が返ってきた。

「風邪はどうや?」

「なんともあらしまへん」

とりつくしまもない。

「そやかて、町子が腸炎の可能性があるいうて、先生から聞いてるけど」

「町子はん大げさなんや、あてはたいしたことあらしまへん」

「そやかて、医者からそんなこと聞いたら誰かて心配するやろ」

「、、、」

「ほんまに頑固やなあ、とにかく町子の言うことよう聞いて、外へでたりしたらあかん」

母は相変わらず、むくれた様子で振り向きもせずテレビを見ている。

「こらあかんわ」

高木はいよいよ心配になって来た。

母と町子の仲が悪くなるのは、彼にとっても都合が悪い、やはり自分の親のことだけに遠慮も
ある、それでなくても兄の家は母のおかげで随分苦労したと聞いていた。

嫁と姑との間のことで気を使うようなことは初めての経験である。

その日の夕食は四人がそろった、母は相変わらずむくれていた。

「お父さん、正月はパパの家に行くけど、ええ?」

みどりが遠慮がちに言った。

「ああ、パパから連絡があったん?」

みどりは高木をお父さんと呼び、実の父親をパパと呼んでいた。

「うん」

やはり実の父親には会いたいのだろう、だが育ての親である高木に遠慮をしている。高木は
出来るだけみどりが父親に会うことを賛成するように心がけていたが、どうしても大きくなるに
つれ、会うことに引け目を感じるようになっているようだった。

彼としては、みどりの負担にならないよう気をつけていたつもりだったが、子供心に微妙な心理
が分かるらしい。

「ごめんね、正月なのに」

「ええよ、そんなに気を使わんでも」

その日の夕食は何処の家庭にもある平穏な夕食だった。

そして裕香や一郎の知らない高木の姿だった。

夕食を終えると、何をするでもなく暫くテレビを見ていた、年末の慌しい番組だった。

九時頃までテレビを見ていたが、疲れを覚え寝室に入った。

寝室に入る前、もう一度母のご機嫌伺いを兼ね様子を見に部屋に入った。

「お婆ちゃん、大丈夫か?」

「、、、」

母に声を掛けたが、母は何も言わず黙ってテレビを見ていた。

聞こえなかったのか、或いは聞こえながら聞いていない振りをしたのかそれは分からなかっ
た。

「お婆ちゃん、とにかく町子とうまいことやってや」

高木は、もう一言念押しをして寝室に入った。

寝室に入ったものの、することもなく、何気なくテレビを見ていたが、自然に昨日の「たかせ川」
での会話が思い出された。

キッチンでまだ町子があと片付けをしている音がしている。

そのまま高木は暫く考えていたが何時の間にか眠ったらしい、部屋で音がして目が覚めると、
町子が風呂からあがったのか、鏡台の前で髪を乾かしていた。

「あなた、昨日は何処へ行ってはったの?」

町子が何気ない素振りで高木に聞いた。

瞬間彼は躊躇ったが、隠すようなこともないだろうと裕香と会っていたことを言った。

「なんや、言うてくれはったらよろしかったのに、何処へ行ってはったのか心配してましたんえ」

「うん」

「やっぱり気使わはります?」

多少は高木が気を使っているのが分かっているのだろうか、と思った。

「うん、少しはな」

「時々会ってはるんですか?」

「いや、昨日は春以来やった」

「うちはあなたが子供さんと会わはるのなんとも思うてませんし」

そう言ってくれるのはありがたいが、どこまで本心なのか、みどりが父親と会うことになったた
め、多少は遠慮をして言ってくれているのかもしれないが、しかし案外それ以外の理由もある
のかもしれない。

町子は冷静な女に見えるが結構嫉妬深いところがある、或いは彼が女の所へ行っていたので
はないかと疑っていたのかもしれない。

いずれにしても、高木は子供達と会ったことを家で言うことが出来なくなってしまっていた。

「あなた、うちまた祇園へ行ってはったんやとおもうてました」

町子の本心が出た。

「ああ、行ってたけど」

「やっぱり、うちそんなん嫌やわ」

「なんで」

「でもあなた祇園行かはったら、人間が変わらはるから」

「何を言う」

「そやかて、いつもそうでしよう?」

「そうでしょうって、どう言うこと」

「うちだって、そうでしたでしよう?」

「いったい何が言いたいんや」

「あなたは女の人がいやはったらほんまに変わらはるから、信じられしまへん」

「俺はべつに女を口説きに祇園へ行っているわけじゃない」

「でも昔はそうでしたでしょう」

「もうええ」

高木がきつい言葉を返したため、町子は言葉を止めた。

しかし、そのように思われていたのかと改めて感じた。

確かに昔は町子の言う通りだった、町子を口説いたのもそんな手口だった、「私もそうでしたか
ら」と言われれば返す言葉もない、だがもう所帯を持っているのだからそんないわれ方はない
と思うが彼女からすれば、昔のイメージがまだ抜けないでいるのだろう。

「何処へ行ってはったの」

今度は行き先を聞いてきた、もう隠すこともないだろうと思い言った。

「たかせ川」

「ええ、なんで」

「たかせ川」と聞いて町子は驚いた。

「なにもそんなに驚くことないやろ」

「そんなん嫌やは」

「べつにそこまで嫌がることないやろ?」

「もうかなんわ」

「そんなに言われることやないとおもうけどなあ、悪いことしてた訳やなし」

「いいえ、何か目当てがあったんでしょう、そやわ、きっとそやわ、もしかしたらあの女に会いに
いかはったんでしょう、きっとそやわ」

「あの女って?」

「なにとぼけてはるの、よし野ちゃんのことよ」

「ああ、あの子、それならもう辞めておらんかった」

「ほれ、やっぱし」

「しかし、おらんかったんやし、もうええやろ」

「何言うてはるの、居るとか居ないとか言っているのじゃありません、よし野ちゃん目当てに行
かはったのが嫌なんです」

「裕香と別れた後寂しくなったから行ったので、何もよし野を目当てに行った訳やない、町子と
の昔を思い出したし」

「あら、上手に言わはるのね」

「ああ言えばこう言う」

「でも、うちは誤魔化されしまへん」

「別に誤魔化そうと思って言っているわけやないんやけど」

「ねえ、もううちのこと飽きてきやはったの?」

改めて飽きてきたのか、と問われればもしかすればそうかもしれない、普段余り意識をして考
えたことはないが、この頃の関係を振り返れば多少は町子の言うとおりなのかもしれない。

だがそんなことを認める訳にもいかない、認めてしまえば益々おかしなことになってしまう。

「ところで、たかせ川のママやけど、子供の死んだこと知ってたなあ」

急に高木が子供の話をしたので、町子は一瞬驚いたようである。

「ええ、うちらの?」

「うん」

町子の顔を見ると、目の奥で色々なことを考え巡らしているように見えた。

「誰かがいうたようやった」

次の言葉が出てこないようである。

「町子の昔の客がいうたのとちゃうか」

「そお」

「そお」と答えるのがやっとのように思えた。

町子はもう祇園から離れて六年近くなる、

彼女にすればあの当時のことは忘れてしまいたいことのようだった、偶に当時の話になっても
出来るだけ避けたいような素振りをする、高木はそれ程避けなくてもと思ってしまうが、どうして
も嫌な素振りをした。彼は町子と出会うことが出来たのだから、その辺りは感謝をしていたが
彼女はそう思っていないらしい。

「あの時のことは余り思い出しとうないわ」

予測した言葉が返ってきた。

「まあ、それ程気にしなくてもええやん」

「ええ」

子供の話はそれで途切れた。

「ねえ」

「うん?」

「この頃何となくうちらあ変わってみたいね?」

こんな話は余りしたくなかった、だが出てしまった以上しかたがない。

「時間が経つと何処の夫婦もこうなるんちゃうか」

「でも、何かへんやない?」

「それは考えすぎや、まあ、お婆ちゃんのこともあるのかもしれへんけど」

高木はこの際それとなく母の話を持ち出した。

だが、そうは言ってはみたものの、彼も町子と同じことを感じているのには変わりはない。

確かに昔と比べれば明るさが無くなったことだけははっきりと言える、それは「まゆ」を亡くして
からのようだが、しかしそれだけとは言い切れない、それでは他になにがあるのか、今のところ
は明確な理由は分からない。

ただ、良子と別れなければならなくなった時のことを振り返ると、最近の町子との関係はそれに
良く似ているような気もした。

彼が町子と所帯を持とうと決心した時、女性関係は結構複雑な状態だった、高木の家には佳
織が居た、そして会社に行けば京子との関係もあった、世間の常識で考えれば随分身勝手と
言うのか、それでも高木はそのことをそれ程気にしていなかった、男の甲斐性とでも思ってい
たのか、そうでなければそんなに複雑な女性関係など持てるはずがない。

その辺のところは少し世間からはずれていた。

「ねえ」

町子がベットに入いり身体を高木に寄せてきた。

さっきまでの言葉とはうらはらな町子の視線に出会った。

高木は久しぶりに町子を抱いた、歳はとっていてもまだまだ身体はか細く、贅肉など全く無い、
彼が抱けばすっぽりと彼の腕の中に包み込まれてしまう。

高木はもう何も言葉に出さず、町子を抱いた。

「また良子の時と同じことを繰り返すんやろか?」

彼は静かに横になっている町子を見ながら良子と別れた時のことを思い出した。

町子は、静かな吐息をたてながら、もう寝入ってしまっていた。




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