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(五) 十二月二十三日の朝は、前日からの日本列島を覆う寒気団に見舞われ、雪がちらついてい た。 高木は夕べから今日の裁判を考えると頭が冴え、なかなか寝付くことが出来なかった。 朝、目が覚めても眠気が残り、何となく頭が重く目覚めが悪い。 町子は既にベッドから起きだし、キッチンで朝の支度をしている。 「早くしなさい」 みどりは通学の準備をしていたがもたもたしている。 母親に叱られながら眠気眼で通学の準備をしていた。 もう冬休みも間近であり、すっかり通学の緊張感が抜けてしまっている。 彼はこの頃睡眠時間が少なくても朝六時になると必ずと言っていいほど目覚める。 つい歳のことを考えてしまうがまだ歳のせいにはしたくないし認めたくはなかった。 目覚めて起き出すまで時間がかかり、愚図愚図している自分にこれではいけないと思いながら も、身体のことを考えると無理はしないほうが良いとも思う。 出来るだけ朝の目覚めの身体の調子に合わせるようにしているが、罪悪感は残る。 朝は大体そんな調子で、一時間程ベッドで転寝をし、それから七時頃に起き上がりダイニング で新聞に目を通したり、朝のテレビニュースを見たりして朝食を獲り、十時には会社に出勤をし ている。 会社へは自宅のある逢坂山から湖岸の打出浜まで信号待ちをしても十分もあれば行くことが 出来る。 そんな訳で、朝の出勤までの時間は結構余裕がある。 彼は朝のそんな時間がとても好きだった。 みどりの通学までの仕草や、また仏壇に水を変えたり、線香を焚いたりしている母の姿、そし て町子の甲斐甲斐しく働いている姿に、とても家庭的な雰囲気を感じた。 先妻である良子や子供達と暮らしていた時の時間が帰って来たような気がして、再び所帯を持 って良かったと思っていた。 今朝もいつもと同じ朝である。 「ほな行くわ」 「行ってらっしゃい」 町子がマンションのドアの所まで見送りに来た、いつもはここまでしない。 大体朝の声の掛け方で町子のその日の機嫌が分かる、今日は裁判があるのを知っているの かいつもより気を使っているのが分かった。 小雪交じりの中を傘も差さずに駐車場まで歩いて行く。 車に雪が少し積もっていた、ウィンドーグラスの雪を手で払い落とし、それからエンジンを掛け 駐車場から道路に出ると雪のため道路が渋滞していた。 「今日は十時を廻ってしまうか」 そんなことを考えながらのろのろと車を走らせる。 いつもより少し遅れて会社へ到着した。 エレベーターで七階へ上がり、まず社員達のいる事務所へ入る。 小雪が降り、道路が渋滞していたわりには、既に社員たちは出勤していた。 「お早うございます」 「お早う」 社員たちに声を掛け八階の社長室に上がった。 ハンガーにコートを掛けていると京子がお茶を持って入ってきた。 「お早うございます」 「うん」 いつもの朝と同じだ。 「社長決裁書類がありますがお持ちさせていただいて宜しいでしょうか」 「うん、あそうや、少し後にして、今日の裁判の書類の整理をしたいので」 「分かりました」 京子はいつもテキパキと卒が無い。 「社長今日は一時十五分でしたね」 「ああ」 「私もご一緒させていただきましょうか?」 「そうやなあ」 「ご一緒のほうが何かあれば便利かと思いますが」 「別に何んも無いと思うけど、その方がええかな」 「ええ」 「ほな一緒に来てくれるか」 「そうさせていただきます、何か用意して行くものがありますか?」 「特に無い、もしあったら後で言う」 「分かりました、何時頃に出られますか?」 「菊池先生と打ち合わせもあるし、すこし早めに行こうか」 「はい」 「十二時二十分頃に出よう、ええか?」 「ではそのように準備しておきます」 京子が退出してから、高木は裁判の関係書類を揃えそれぞれチェックをし、分かり易く整理を してファイルに綴じた。 「これだけでよかったかなあ、、、ああそうや、図面、図面、、、」 独り言を言いながら書類を揃え、そのあと弁護士の菊池に事前の打ち合わせの確認の電話を した。 「京都合同法律事務所です」 電話をすると、いつもの受付の事務員の声がした。 「富士興産の高木ですが、菊池先生をお願いします」 「菊池先生ですか?」 何か都合が悪いのか少しもったいぶったような応対である。 「お忙しいのであればまた後で電話致しますが」 「いえ、少しお待ち下さい」 弁護士も好きになれないが、どうも事務員も似たようなものである。 「菊池です」 行き成り菊池が電話口に出た。 「高木です、お忙しいところを申し訳ありませんが今日の確認をと思いまして」 「はあ、そうでしたね」 「十二時半頃に地裁に行っておりますが」 「そうですね、じゃ私も出来るだけその時間に行くようにしますので」 「よろしくお願いします」 「一階の弁護士控室でお待ち下さい」 「承知しました、それじゃよろしくお願い致します」 要点だけの簡単な電話だった。 しかし、だいたいいつもこんなやりとりである、高木は弁護士に対してあまりいい感情を持って いなかった、弁護士と言う言葉が好きになれなかった、弁護士と言う肩書きから何か法律で自 分を弁護してくれるような感じを受けるが、どうもそれは錯覚だと思う。 昔、良子の父親である養父の会社に勤めていた頃、二つの訴訟を担当したことがある、 会社としてもこの訴訟に随分困っていた。 当時弁護士は勝訴出来るであろうと高木にその判断を説明していた。 ところが二件とも敗訴した、弁護士の説明とはことごとく判決が反対になってしまった。 当時それ程の経験も無かった高木だったが、素人判断でも弁護士の説明は我田引水のよう に感じた、今思えば、養父に随分気をつかっていたのだろうと分かるが、当時はそのようなこと が分からなかった。 結局その時、訴訟ごとはやはり裁判官が判断をするのであり、弁護士の判断は充てにならな いことを心から悟った。 以来、弁護士に対しては良い感情を持てなくなってしまった。 今はただの訴訟代理人と考えるようにしている。 一時間ほどして京子が先ほど言っていた決済書類を持って高木の部屋へ上がって来た。 「社長今日は昼食どうされます?」 彼が書類に目を通していると、京子が聞いた。 「外で採る」 「分かりました、では時間になれば車を用意しておきますので」 それから暫く部屋で仕事を済ませていたが、 昼前に会社の近くのレストランで少し早めの昼食を採った。 昼食を済ませ事務所に戻ると、玄関口に車が用意されている。 一旦八階の高木の部屋に戻り書類を鞄に入れ京子に内線電話で連絡をした。 「そろそろ行こうか」 「分かりました、直接下に行っております」 少ししてからエレベーターで降りると、既に京子が玄関口で待っていた。 「私が運転します」 「ああ、頼む」 京子が運転をして、高木は助手席に乗り、車は一六一号線の交差点を右に曲がった。 大津地方裁判所は、大津駅を少し下ったところにある、彼の会社から一六一号線に出て、一 キロ程行くと大津駅から四車線の道路が湖に向かって降りてきている、その交差点を駅方向 に少し上がった左側である。 時間にすれば十分と言ったところだ。 車は裁判所の門を潜った。 前庭の駐車場は既に一杯になっている、今回の公判の傍聴人達の車なのか、いよいよ大詰 めの公判でもあり、張り詰めた空気が漂っていた。 「すごく多いですね」 「うん」 「何処か停める所を探してきますので、先に降りていただけますか」 「ほな頼む」 京子はそう言って裁判所の玄関口に車を停めた。 「そう言えば先ほど新聞社から電話がありました」 「ふーん、食事に出ている時か?」 「ええ」 高木が車から降りようとした時、京子が言った。 これまでから度々新聞社から取材の申し出があった、彼はその都度断っていた。 菊池にも一度どうしたものか相談をしたが、彼も、取材に応じない方が良いと言った。 しかし、その都度新聞に掲載される記事が、あまりにも偏見に満ちたものであり、反論をした かったが、なまじ取材に応じ揚げ足を取られるのも考え物だ、ここは素直に菊池の意見に従っ たほうが良いと思い、無視をし続けた。 高木が車から降りると、玄関口で屯していた記者らしき数人が、彼を見て声を掛け様かと迷っ ている様子だった。 高木はしらぬ振りをして、そのまま一階の弁護士控室まで行った。 菊池はまだ来ていない。 部屋の中には他の裁判のためなのか何人かが待っている。 彼はスーツのポケットからタバコを取り出しライターで火を着けた。 菊池は車の免許を持っていない、いつも裁判の時は電車で来る、今朝は小雪が降っていたた め少し電車が遅れているのかもしれない。 暫く待っていると菊池は遅れて一時に来た、もう少しで裁判が始まる時間である。 「お待たせしました」 慌てて入ってきた、待たせたことを詫び、鞄の中から書類を取り出し高木に渡す。 「まだ少し時間がありますので、申し訳ありませんがこれに目を通しておいてください、証人尋 問の内容です、先日打ち合わせをした通りのものです」 高木は渡された書類に目をとおし、以前打ち合わせをしたものと変わらないと思い、それ以上 読む必要もなく、そのまま書類を鞄に入れた。 「おそらく検事は詳しく聞くと思います、私の方はその書類の通りです、一時間ほどで終わりま すが、検事の尋問はどれ位か分かりません」 「そうですか、私なりに考えて答えます」 「余り深く考えないで下さい、兎に角打ち合わせの通りに」 多少の不安はあったが、ここまで来た以上考えても仕方がない、出たとこ勝負だと腹を括っ た。 重要な点は面積の更正登記がされ、河川法の許可が下りているこの二点である。 おそらく検事は、その両方に疑義があることを突いて来るのであることは予測できる。 しかしそれをどのようにして立証するのであろう、彼が売主から聞いた範囲では双方に疑義が あるようには思えなかった、不安と言えばその一点だけである。 「先に法廷へ行っていますので」 菊池はそう言って席を立って行った。 公判が始まれば最初は答弁書や証拠書類の確認の為のやりとりがある、その後に証人を呼 ぶのは高木も何度か経験している、テレビドラマや映画のシーンに出てくるような場面を想像 するが実際のところは結構雑談まじりでやっている、知らないものが思うほど堅苦しいもので はない。 高木は待合室でタバコを一本吸い終わってから椅子を立った。 「もうそろそろいいだろう」 法廷のドアを開けると、ドアの近くまで立っている傍聴者に驚いたが、そのまま押しのけるよう に最前列まで入って行く。 回りの者は強引に入って行った高木に驚いた様子だったが、前まで行くと誰とはなしに席を空 けた。 そのままその空いた席に腰を下ろし菊池の方に目を遣ると、彼は何やら忙しそうに書類の整 理をしている。 座りはしたものの、背中に傍聴者達の視線を感じた。 上段の席には、まだ裁判官は来ていない、その一段下の席で書記官と廷吏が忙しそうにこれ から始まる裁判の準備に余念が無かった。 検事席では、之もまた書類の整理に追われているようである。 検事は女性で、法廷の雰囲気を少し和ませていた。 「あれ!」 高木はこれまで一度も裁判の傍聴には来ていない、まさか女性検事だとは思っていなかった、 検事席には建設省の役人ともう一人の検事らしき年配の男がいる、どうやらこの裁判は女性 検事が主任検事で進められて来たようである。 菊池も敢えてこれまで女性であることを高木に言ったことが無い。 高木は何となく拍子抜けしたような感じを持った、もっと厳しい、いかにもやり手そうな検事を想 像していただけに、内心はほっとした。 暫くすると裁判官席の裏のドアあたりが騒がしくなり、間もなくどたどたと裁判官が入ってきた。 それまで書類の整理に忙しかった書記官達や検事達は一瞬緊張したように、裁判官の方に目 をやり、間もなく廷吏が全員起立と声を出した。 「ありがとうございます、ご着席下さい」 掛け声に誘われるまま全員がガタガタと席に着いたが、それと同時に菊池を見ると彼はまだ 書類に目を通している。 書類に目を通しながら起立の掛け声を聞き、そのまま立って座っただけの菊池を見ると、彼は 案外図太いのかもしれないと感じた。 法廷は暫く書類の確認のやり取りを行いそれが終わった頃、裁判官が菊池に言う。 「今日は被告の証人尋問でしたね」 「そうです」 「本人は来ていますか?」 その言葉と同時に菊池が高木を見る。 高木が立ち上がると、裁判官も分かったのか、 「それでは入っていただきましょうか」 そう言って、廷吏に合図をした。 「こちらからお入り下さい」 法廷と傍聴席を仕切っている背の低い衝立の一番左の出入り口を開け高木を促してくれる。 全員の視線の中を入っていくと、視野の中に少し不安げに彼をみつめている京子の顔が目に 入った。 促されるままに被告席に座り、そして暫く待った。 「それじゃ宣誓をしていただきましょうか」 準備が終わった後裁判官が言い、そして廷吏が何度も使われたような宣誓書を彼に手渡す。 「これからその宣誓書を読んで下さい、大きな声で聞こえるようにお願いします、そこに書かれ ていますように、これから事実だけ証言して下さい、けっして嘘や偽りを証言されないように、も し証言が虚為となれば為証罪で罪にとわれますので充分注意をして下さい」 通り一編の言葉を聞き、高木は宣誓をした。 その言葉の後、法廷内は静かになった。 「始めていただきましようか」 もう菊池も書類から目を放し、腕組みをした状態で検事の方に顔を向けている。 検事は膨大な書類の山の中から一部の書類を取り出す。 「それじゃよろしくお願いします」 そう言って、検事席で立ち上がり高木の方に顔を向ける。 その検事と高木の目が合った。 「それでは早速ですが高木さん、あなたがこの土地を買われた経緯をお尋ね致します、これま での準備書面や証拠書類である程度は推測出来ますが実際のところ、これ程登記と面積が 異なる土地を、なんの疑いもなく買われた事を不思議に思っているのです、其の辺りの経緯を お聞きします」 行き成り争点から尋問が始まった、考えていなかった展開である、女性検事であったことに多 少ほっとしていた時だっただけに以外な感じがした。 「うーん、どのように答えていいのか、、、」 「いえ、単純にどのような考えで買われたのか、おっしゃっていただければいいのですが」 「そう言われましても、、、」 最初からこれではだめだという思いが頭の中をかけめぐったが予期していなかっただけに戸 惑う。 少しの間どのように答えていいのか迷っていたが気を取り直した。 「今の言葉を聞きますと何か予断を持っておられるようですが私は何も特に考えがあった訳で はありません、業者という立場から常に土地の仕入れはしていかなくてはなりません、唯それ だけの理由ですが」 「いえ、そう言うことをお聞きしているのではありません、面積が登記と大幅に異なった土地を、 どうして買われたのかを尋ねしているのです」 「しかしそうおっしゃいますがそれはそれ程重要なことと思いませんが」 「そうですか?私は業者であれば本当にその土地が信頼出来る土地なのかを、よく調べて買わ れるのだと思っていましたが」 「それは貴女の考えであって、私は登記を信頼しておりましたのでそれ程深く考えておりません でした」 「そんなものですかねぇ、可笑しいじゃないですか、実際の面積より三倍も増えているのです よ」 しつこく検事が食い下がる、挽回しなければと思いつつそれがなかなか出来ない。 「増えた増えたと言われますが、地積公正をして登記簿もそのようになっているじゃないです か」 「私はそのことを言っているのではありません、当初は実際の面積が三百坪程でしたね、それ が地積公正をして千坪余りになっています、常識では考えられないのではありませんか、それ を何も疑わず買われた、私にはそれが理解出来ないのです、そう思われませんか」 「それでは地積公正が間違っていたと言う訳ですか」 「そうは言っておりません」 「証人は聞かれたことだけ答えて下さい」 話の展開でつい高木が質問をしてしまった。 「それじゃ答えます、私は登記を信頼して買いました」 要点だけを答え、ともかく展開を変えなければと思った。 「では次に移ります、貴方が本件の土地を買われましたのは平成五年二月と契約書ではなっ ていますが間違いありませんか」 「間違いありません」 検事は高木の承認席まで来てその売買契約書を示し、尋ねる。 「その時この土地はどのような状態でしたか」 「現在は作業小屋と資材を置くための倉庫が建っておりますがその当時は雑草が生えた、何 も無い状態でした」 「この写真では廻りにコンクリートによる擁壁が造ってありますが当時は無かった訳ですか」 「ええ、そうです」 「ではこの擁壁は誰が造ったのです」 「私共の方で工事をしましたが」 「そうですか、倉庫も作業小屋も造ったのですか」 「そうです、河川法の許可も受けました」 検事はそれらが写った写真を示し尋ねる。 河川法の許可は河川区域に建物を作る場合必要なものである。 「甲十六号証です」 裁判官がその許可書を探していると、検事は証拠書類の番号を言った。 「この二つの建物は実際に使っていますか」 「ええ下請けの業者に使わせております」 「賃貸契約とか何かありますか」 「確か証拠書類として出ていると思いますが」 この訴訟は土地の争いであり、建物はその上の構造物である、もし仮に訴訟に負けたとしても 建物は厳然として存在し、法的にその扱いは単純なものではない、高木は少なくとも土地に対 する五年の賃借権は残るのではないかと考えていたが、ただ建物を土地と同一の所有者にし たのはまずかったと思っていた、それともう一つは、これは菊池が言っていたのだが、もしかす ればこの土地が国有地である前提の上で、土地の賃借料の請求があるかもしれないことだっ た。 しかし、もし請求があるとしても、もう時間的には遅い、あればすでにしていると考えられたが、 或いは判決の前にかためてあるのかもしれない。 もし敗訴し、賃借料も認められた場合、賃借料の請求として建物を差押して競売にかけるだろ うことは考えられた、だがそれを一体誰が落すのだろう、全く関係の無い第三者が落札した場 合どうなってしまうのか。 想定出来ることは、出来る範囲想定をしたが、其の場面にならなければ分からない。 いずれにしても、この訴訟は予測が着かないことだらけである。 本来この訴訟もセオリーから言えば外れている。 土地の所有権の訴訟であれば、所有権の確認訴訟にならなければならない、また地積の公正 に誤りがあるのであれば登記の異議申し立てになる、それであるにも拘わらず訴訟の名目は 土地の明け渡し訴訟である。 頭からこの土地は国有地であるとの前提で訴訟してきたのである。 この場合もし負ければ全部の土地が国有地であることになってしまう、仮に三倍に増えたこと が間違っていたとしても、元の三百坪の土地はあったわけだからそれが存在しなければならな い、全部が国有地であるなどと判決が下せるものだろうかと菊池と話していたが、菊池にも見 当がつかないようだった。 今の段階で高木にも見当がつくのは、負けたとしても登記までは変えられないことである。 所有権の訴訟であれば、その判決で執行文をとり強制執行の上、所有権移転の登記を登記 官の職権で行うことが出来る、そして無論、登記の異議申し立てであれば地積の更正の登記 は錯誤され、元の三百坪の面積に戻ってしまう。 明け渡し訴訟であれば単にその土地を明け渡すだけである、判決で所有権の移転まで出来る 執行文が降りないため登記は残る。 原告もそのことは充分分かっているはずと思えたが、何故かこのような訴訟になってしまって いる。 「それではこの土地を買われてから擁壁を造り、建物を建てたと言う訳ですね」 「そうです」 どうも嫌な思いがした、もしかすれば賃借料のことを想定しての尋問のように思えた。 「あなたがコンクリートの擁壁を造る場合、境界の確認はどのようにされましたか」 「無論隣地の関係者と立会いを致しております、既に境界の確定協議書はありましたので、そ れに面積の確定した図面もありましたので、それに基づいて立会いの上、境界杭を打ち、工事 を致しました」 「その時に立会いに来られた方はどなたですか」 「それは隣地の所有者や県の職員の方達です」 「お名前は」 「そこまでは覚えておりませんが、県の職員の方三人程と電力会社の方、それにJRの方そして 民間人の方三人だったと思います」 「そこで立ち会われた訳ですね」 「ええ」 核心に入ってきた、これ以上何を聞かれるのだろうと少し不安になったが予測が着かなかっ た、しかし案外話はそれだけだった。 「ところで貴方は地積の公正登記に拘わりましたか」 「いいえ」 「誰がしたのです」 「以前の所有者だと思っておりますが、違うのですか」 「貴方もお会いになったこの西日本旅客鉄道の職員、所謂JRの職員この方を貴方は以前から ご存知ありませんか」 「いえ、あの時が初めてでしたが」 「裁判長甲二十七号証です、この境界確定協議書、貴方はご存知ですか」 書類を彼に示しながら聞いた。 「ええ、よく存じております」 「この書類可笑しいとおもいませんか」 「意味が分かりませんが」 「実はこの書類、JRの規定の書式ではありません」 裁判長も菊池も「うん」と言った顔をしてその書類を見た。 「通常境界の確定をJRに申し出た場合、JRは規定の書式を申請者に渡し、それに署名、捺印 の上、上部に決済を仰ぎます、ところが、この書式はそれとは異なっています、規定の書式で は甲欄にJR、乙欄に申請人となっています、ところがこの書類では甲欄に申請人、乙欄にJR となっています、無論其の他の文面、文字の配列も異なっています、これは明らかにJRの書式 のものではありません」 検事は再度高木にそれを見せた。 「これはどう言うことか、貴方はご存知ですか」 「いえ」 「通常このような書式で決裁されることはないと、JRでは言っています、このことを貴方はどの ように思われますか」 確かにそれはおかしかった、当初この土地の話があった時はそのことに気がつかなかった、 だが訴訟になり菊池に渡す前、書類を整理し一つひとつを確認したときにワープロで打たれた この書類に「あれっ」と思った、普通大企業であるJRの書類ならば印刷物であるのが当たり前 ではないかとその時疑問を持ったのは確かであった。 どのように答えようか、瞬間考えた、しかし偽造ではないことはJRの職員が立会いしたことでも 推測出来る、自信を持って答えるしかないだろうと思った。 「それは私では分かりません、しかし譬え書式が規定のものではないとしても、現実に工事の 前にも立会いをしている訳ですし、境界確定に異論があったとは考えておりませんが」 検事がこのことを突いて来るのは理解出来る、通常このようなことは考えられるものではな い、何かあるとは推測したが、それにしても工事の前の立会いの時高木自身が確認をしてい る、その時は特にJRの職員は何も言わなかった。 検事もそのことはそれ以上追及しなかったが気になったため言った。 「検事さんJRに確認されたらどうですか、証人尋問をされたらいいと思いますが」 「証人は聞かれたことだけ答えて下さい」 また裁判官に注意をされた。 「それでは次にお尋ねします、あなたが工事をする前に立会いをされたと言われましたが、そ の時に民間人の方が三人来られたそうですが、その中に地元の区長さんがおられませんでし たか」 検事の質問に少し驚いた。 よく調べている、確かに来ていた。 「その区長さんはその時、特に何も言いませんでしたか」 「いえ、何も」 「区長さんにお尋ねしましたところ、この境界は可笑しい、と言ったと言われましたが」 「そうですか、私は何もきいておりませんが」 一年程前にこの土地の以前の所有者から、建設省が地元を廻っていると聞いたことがある。 その時は何を調べているのかと思ったが、特別違和感は持たなかった、と言うのもありのまま でいいと思っていたからである、作為的に面積を増やしたのであれば心配もしたであろうがそ んなことは全く無い。 前の所有者もそんな人間とは思ってもいなかったこともある。 役所も今更地元を調べたところで何が出る訳でもないと思っていた、しかし、今日のように聞き もしなかったことを言ったと言われればどう言うことなんだと思う、まさか勝訴したいが為に、役 所が作為をしたとは思えない。 心に使えたものが残った。 「しかし聞きもしなかったことを言われるのも不思議ですね」 高木は精一杯の嫌味を込めて一言いった。 それ以上言いたい気持ちもあったが、言えばまた注意をされる、そこでやめた。 「えー、ところで甲第二十九号証ですが、この境界確定協議書、これはどういうものなんです か、財産区の区長さんが捺印されていますが」 「それは私がいただいたものではありません」 「しかしあなたは不動産業者ですから、どのような物なのかはご存知でしょう」 「知ってはおりますが」 「じゃあなたの見解で結構ですのでご説明して下さい」 検事が何の意図を持って聞いているのか高木は推測がつかなかった。 「それでは私の理解していることを申し述べます、まず、第一に境界確定の対象であるこの水 路は、構図上では現状の位置と大幅に変化していること、そして第二は、それに対して境界を 確定しなければならないことであります、通常この様に所有権が明確でなく、しかも利水上重要 である水路の場合、我々はその地域の財産区の管理上の物であるとの判断を下し、地域の 財産区に境界の確認の申し出を致します、それを受けて財産区は役員の方々と協議の上、現 場にて境界の確認をします、その上で確認をした土地の境界確定をし、後日我々が確定協議 書を作成の上、印をいただきに行く、とこのような手順が通常行われております」 「境界を確定するという以上、この土地の所有権は財産区な訳ですか」 「そのように理解をしております」 「本件の土地の所在は公図上では水路、所謂青線水路の西側に位置しています、これは瀬田 側と国道とに挟まれた幅七十メートル程の一部分になりますが、回答されましたとおりであれ ば、現在の水路はどのような水路であると考えておられる訳ですか」 検事の尋問は核心の部分に迫ってきた。 高木がこれら一連の作業をした訳ではないが、やはり所有者として、どの程度認識をしていた のかという問題である。 この水路が公図上の青線水路であれば、これは国有地になる、そうであれば管理責任は地方 の行政機関である都道府県にある、今回の場合は滋賀県ということになる。 今回のように財産区と立会いをすることは、当然本来の青線水路の立会いに県の職員が来て いる訳だからそこで立会い者全員と協議をするものである、もしその場合問題があればこの水 路の扱いが協議をされる。 しかし、高木は立ち会いをした時水路で問題があったとは聞いていなかった。 このような立会いは度々あることでもあり、殆ど全員が、このように財産区のものであることを 言わば常識と受け止めていたのである。 昔からこのような水路を勝手水路と呼び、これらを地域の財産区のものであると判断をし、そ して管理をしていたのである。 それにまた水路に限らず財産区が所有、管理している土地にため池などもある、滋賀県の場 合、農用地は殆どが平地であり昔からため池を多く造り農地の用水池にしていた。これらのた め池は市の所有地であったり、また個人の出し合い土地などであったが殆どが財産区の管理 である、もしこれらのため池が売却の対象になった場合、造られた年代が古く、登記も明確で ない、ため池の場合はその地域の財産区の財産物としての扱いになり、その売却金は財産区 のものとなり、地域の農業者や関係者と分ける場合もあれば、財産区にプールされる場合もあ る。 今回の場合はこの勝手水路を売却する訳ではないが、もしこの水路が青線水路である、とな れば当然それは国有地になってしまう、そうなればこの財産区との境界確定協議書は誤った 物となる。 その場合高木の購入した土地は、公図上では青線水路の西側になっているため、勝手水路と 国道との民地を含めた、僅か五メートル程の部分の所に存在をすることになり、殆ど土地は無 くなってしまう。 いずれにしても、このように登記が明確でなく、しかも地番もない土地であることから複雑な問 題を抱えていることには間違いはない、ただ、水路であることのみが、全体の利益に合致して その上で財産区のものであると判断しているだけのことである。 結局、本件の一番の争点はこの水路位置にかかっているわけである。 検事はこれら一連の境界確定を不確かな物と方向付けをしようとの方針が見えてきたことを高 木は感じた。 「それは財産区が所有管理する勝手水路と考えております、公図の青線水路はそのまま瀬田 川の傍にあるものと考え、その境界確定のために県の職員の方々に立会いをお願いしたと思 っていますが」 高木が境界の立会いをした訳ではなかったが、見解を述べた。 検事は高木の回答を聞き、持っている図面になにやらメモを書きとっている、それを見ながら 高木は頭の中を整理していた。 この土地の形状はほぼ長方形で、東側に実際は水が流れていないが青線水路を隔てて、数メ ートルのところに瀬田川、北に上流から一メートル程の幅で流れている勝手水路、そしてその 水路がこの土地に接するところで西にほぼ直角に曲がり、五十メートル程行ったところで、今 度は南にほぼ直角に曲がり七十メートル程この土地に接している、そして七十メートルのとこ ろでJRと電力会社の土地に南側が接している、電力会社の土地は同じように、青線水路を隔 てた東側の瀬田川と接している。 民間の土地はその勝手水路の外側、西に五メートル程の幅で長さ七十メートル程一筆が接 し、そしてそのまた西側が国道となっている、もう一筆は北側にある。 現在水が流れている勝手水路が公図上の青線水路になれば、このJRの土地も、電力会社の 土地も、いずれも公図上では青線水路の西側にあるため、勝手水路と国道との僅かな部分の 土地になってしまう。 ただ今回おもしろいことには、その電力会社が二十年程以前に高圧電線のための鉄塔を造る 際、土地の占用許可を取った許可書が証拠書類として出てきたことである。 本来自分の所有物である土地に官有地としての土地の占用許可などあるはずがない。 高木は河川法の許可書ではないのかと思ったが、それは裁判が終わってから菊池に確認をし なければ分からない。 途中幾つかの証拠書類の遣り取りなどをし、さらに尋問が続いたが、約三時間に及ぶ検事の 尋問が終了した。 全員ほっとしたのか少しざわつき、それぞれにトイレに立つ者や、裁判官に歩み寄り後の打ち 合わせをする者がいて、廷内はくつろいだ雰囲気になった。 「それでは十分間の休憩をします」 裁判官の声を聞き高木もトイレに行くため一旦外に出た。 外で京子と目が合い、目配せをしてから廊下を歩いていると後ろから声を掛けられた。 「高木さん、ご苦労さんでした」 菊池だった、彼も同じようにトイレに行くため外に出てきた。 「あんなものでよろしかったですか」 「上等です」 連れ立ってトイレに立った。 それから菊池は先に法廷へ行ったが高木は喫煙場所で一服吸った。 夕刻になると裁判所の中も来庁者が少なくなるのか、タバコを吸い終わってから静かな廊下を 一人歩いた。 廷内に入ると既に殆どの者達がそれぞれの定位置についていた。 高木も急いで証人席に座り支持を待った。 「では弁護人始めてください」 菊池は裁判官に顔を向け、無言でその確認をした。 「高木さんそれでは私の質問を始めさせていただきます」 菊池とは打ち合わせのとおりだと思うと、検事の時と異なり気が楽だった。 既に書類の整理は出来ているのか、すぐに机の上の書類を持って高木の前まで来た。 「先ほどの検事の尋問にもありましたが、あなたはそれ程の疑問も持たずにこの土地を買わ れました、そして登記を信用してこの地積公正が正しいものと思っていた、しかもあなたはこれ ら一連の作業には何ら関係が無く、単に善意の第三者としてこの土地を所有しておられる、こ れでいい訳ですね」 「ええ、全くそのとおりです」 菊池は兼ねてより打ち合わせをした通りの内容で、いきなり本筋から入って来た。 「ではあなたの見解をお尋ねいたしますが、元来琵琶湖の近くの土地は、登記簿にある面積よ りも実際の土地のほうが多くなるとか、これはあなたも滋賀県で不動産業をしておられればご 存知でしようが、その辺りのことを少し教えていただけますか」 「昔から、琵琶湖の付近の土地は増減を何度か繰り返しております、というのも湖の湖面の上 下によるものと思われます、ご承知のように琵琶湖は流出河川が瀬田川だけです、それだけ に洪水や渇水対策は難しいものだそうです、そして降雨量により当然岸辺に近い土地を侵食 したり、また或るいは、水面の減少により岸辺の土地が干上がったりしたことがあります、私が 調べましたところでは、天保時代から大正時代にかけては結構降雨量が多く、随分洪水に悩 んだとのことでした、大正以後は気候もそれまでと比べ穏やかになったそうですが、いずれにし てもそれらの理由により、湖面に近い土地は面積が増減したと聞いております」 「気候の変動により岸辺に近い土地は水が引いたり、或いは押し寄せたりして土地としての面 積に変動があった、これでいい訳ですね」 菊池は高木の言った言葉を要約して繰り返した。 「そうです」 「そうすれば当然水路もかわりますね、今まで流れていた流水も方向を変え、或るいは、曲が ってしまうこともある、そうすればそれまでの水路はどうなるのでしょう」 「自然に草が生えたりして普通の土地になってしまうのじゃないですか」 打ち合わせのとおりである、高木はまるで芝居でもしているような錯覚を感じた。 しかし、菊池は尚も続ける。 「ところであなたは公図というものをどのように理解しておられますか」 「それは、法務局に備え付けされている、単なる昔の地図としか認識をしていません」 「現在、貴方に対し検事は公図があたかも正しい土地の位置図であるかのように話しておられ ましたが、そのことにあなたはどう感じておられますか」 検事の尋問を批判するような極めて微妙な質問である、高木はまた裁判官が注意をするので はないかと思ったが何も言わなかった。 それに勇気付けられた訳ではないが自信を持って答えた。 「私の知る限り公図は単に土地の位置を知るための参考になる資料であるとしか考えておりま せん、ご承知の事と思いますが、公図は明治六年に急遽作られたものです、当時新税制の施 工により米ではなく土地に課税するために作られたものと聞いております、その後二度程修正 を加えられたようですが、当時の状況を知っておられるお年よりの方々から聞くと「いいかげん なものだった」ということです、比較的この土地が存在する地域の公図は正確に土地の所在を 表しておりますが、他の地域などでは、土地の所在すらが全く現状に即した物になっていない ことが何度かあったことを経験しております」 「ではあなたの解釈では単に参考にはなってもそれ程重要な資料ではないと考えておられるわ けですね、これでいいのですか」 「そうです」 少し高木の答えがくどかったのかまた菊池が要約した。 高木が言ったとおり、公図は通常法務局備え付けの地図としての解釈しかなされていない、今 まで公図が裁判の重要な証拠書類になったことは高木が調べた限りではなかった。 今回の土地のように実際は水が流れていなくても、そこに水路として公図に載っていればそれ は青線水路としての扱いになってしまい、そのまま境界の立会いが行われてきた。 もし水が流れていないと言うことで、現在流れている水路を青線水路としてしまえば益々公図と 実態の土地の位置関係が異なってしまうことになる。 ところで公図上の水路を青線水路と言うのは公図上の水路に青い色づけをしているためであ る、ちなみに道路は赤い色づけがされそれを赤線里道といっている。 だいたい菊池の質問は兼ねて打ち合わせをしたとおりのもので尋問はスムースに流れた。 一時間足らずで菊池の質疑は終わり、高木の証人尋問が終了した。 既に五時をまわっていた。 裁判官や検事達も疲れたのか、皆が終わってほっとした表情をしている、高木も軽い疲れを覚 え、証人席を立った。 高木が証人席を退くとき、後日の裁判の打ち合わせの内容が耳に入った。 「もう証人尋問が無ければ後二回程ですね」 「いえ、法務局の地積更正登記の際の実地調査書を証拠申請したいのですが」 「それはもういいでしょう」 裁判官は今頃なんだといった受け答えをしている、検事も困った顔をしていた。 「それは是非お願いします、法務局は貴方と同じ部局でしょう」 菊池は検事にも言っている。 「それはそうですが、、、」 検事は原告の同じ組織からそのような証拠物を取り寄せることが都合悪いのか困った様子を している。 高木はそんなことを耳にしながら法廷を後にした。 五時を廻りほかの裁判は既に終わっている、傍聴人達もぞろぞろと玄関口へあるいていた。 何時の間にか京子が高木の傍に来て声を掛けた。 「お帰りになりますか」 車を取りに行くのか、ハンドバックからキイーを出しかける。 「菊池先生を待とう」 幾つか気になるところもあり、菊池に確認をしなければと思い京子にそのように言った。 暫くすると、菊池が納得がいかない顔をして法廷の扉を開けこちらに歩いてきた。 「先生」 「ああ、高木さん」 菊池は高木が声をかけたため、われに返ったような顔をして顔を見る。 「疲れましたね」 「お疲れでしたでしょう」 「先生も」 「ええ」 「もし時間が良ければお茶でも」 「そうですね」 「近くに喫茶店がありますのでそこでいかがですか」 「高木さんはよろしいのですか」 「私はこれで今日は終わりです」 「事務所で七時に来客がありますので一時間ぐらいなら」 三人はすっかり暗くなった銀杏並木の歩道を歩いた。 京子は一緒に行っていいのかといった顔をしていたが、高木が来るように合図をしため付いて 来た。 「いらっしゃいませ」 裁判所から三百メートル程の処のこじんまりした喫茶店だった。 高木は新聞社の人間がいないか少し心配したが、店内は女性客二人がいただけである。 「私はコーヒー、先生は」 「私も同じ物を」 三人は同じコーヒーを頼み、一息ついた。 「貴女はいつも高木さんとご一緒ですか」 菊池が京子に聞いたが、高木はどう言う意味かと思った。 「いえ、今日は運転手です」 京子も少しおかしな質問だといった顔をしている。 「ところで先生、調査書出てきますかねえ」 「そうですねえ」 「検事の顔を見ていると無理なような気がしますが」 「そうですねえ」 あまり聞かれたく無いような返事が返ってきた。 「高木さん、負ければ控訴されるのでしょう」 この裁判の場合原告、被告に拘わらず判決がどちらの場合でも控訴になるだろう、原告は兎 も角、その場合被告の立場ではやはり控訴の理由が無ければならない、ただ単に控訴をすれ ばいいものでもない。 「もちろん」 「調査書が出てこなければ調査不十分で控訴すればいいだけです」 高木はなるほどと思った、ただ控訴をすればいいものではないと菊池は言いたかったのであ る。 一審でまけても二審で勝つ気がなければ弁護士としてもやる気がしないだろう。 「なるほど、そういう理由ですか」 感心して答えたが、菊池は淡々として受け答えしている。 「前から不思議に思っていたんですが」 「はい」 「なんでこの土地を買われたんですか」 菊池はコーヒーを啜りながら検事と同じことを聞いた。 改めて尋ねられると先ほどと同じように返事に窮する。 「検事と同じ質問ですねえ」 「しかしこれで千坪以上の土地が塩漬けでしょう、高木さんもお困りでしょう」 何故もっとよく調査をしなかったのかと聞きたいのである、だが所詮不動産の仕入れなどこん なものである、仕事を知らない者から見れば随分無謀な買い方に写るのだろう。 「まあ先生、不動産業などこの程度のものです」 「しかしそれにしては随分大きな買い物ですねえ、それによく考えればこれは袋路でしょう、国 道側の民地はどうするつもりだったんです」 菊池の指摘するとおりである、だがまともな問題の無い土地など何のメリットもない、 そおいう土地であればこそ安く買えるのであり、またその問題を解決するのが業者としてのプ ロたる所以である。 この土地の入り口部分の民地は既に買収の話がついていたのである、ただこのようなことにな らなければの話しであるが。 「そんなことでもなければ安く買えませんよ」 菊池の仕事と比べれば随分荒っぽくて理解出来ないようだ。 「先生、この辺の土地はいくら位だと思います」 「さあ」 「京都と比べばそりゃ随分安いですが、それでも坪当たり四十万位はします、幾らで買ったと思 います」 「さあ」 「十万ですわ」 「ほお」 「進入路に一千万使っても、千百坪程の土地が一億一千万ですわ」 「なるほど」 「もしこんなことになっていなければ、今頃経費や工事代を引いても二億は残ります、まして、こ こに分譲マンションでも建てればそうとうなものです、まあその場合時間は掛かりますが」 ようするに話しのレベルが違うのである。 菊池の扱う金額で高木の仕事を計ることが間違っているのである。 弁護士であるだけで、オールマイティに何もかも知っているような錯覚を、誰もがしてしまいが ちだが、肩書きを取れば唯の人である、まして京都や滋賀県の田舎の弁護士などたかがしれ ている。 確かに法律に関してはプロであろう、それがほかの分野にまで知ったかぶりをすることに高木 は納得がいかないだけである。 「ところで先生、先ほど尋問中に占用許可の書類が証拠申請されてましたねえ」 「ええ」 「あれは何でした」 「いえ、私もよく見てません、また手元に来ればお見せ出来ると思いますが、占用許可って何で すか」 菊池は占用許可その物を知らないらしい。 「官地を占用する時に許可を取るんですわ」 「どういう意味ですか」 「いやこの場合、電力会社が官地を占用するために許可を取ったのでしょう」 「しかし、あの土地は電力会社のものでしょう」 「私もそこが分からないんです」 いずれにしても、もし電力会社が占用許可を取っていたとすれば、自分の土地であるにも拘わ らず、もしかすればその土地が国有地かもしれないと判断していたのだろう。 これは高木にとってかなり不利なものである。 高木も菊池もその点はかなり重要だと意見が一致した。 「しかし、おかしな訴訟ですねえ、普通こんなにいきなり訴訟しないでしょう」 「私もそう思います、国がこんなにいきなり訴訟するものじゃないです、今まで何度も境界につ いてはもめごとがありました、その都度話し合いで解決してきましたからね」 「普通境界はとなりどうしが立ち会って決めますものね」 「ええ」 この疑問は二人の共通の疑問だった。 「ただ、一つだけ気になることはあります」 「何です」 「先生にお願いして、この土地のことで内容証明を近畿建設局へ出したことがありましたが、覚 えておられますか」 「ええ、そんなことがありましたか」 「訴訟になってから、何度か建設省の工事事務所の担当課長と話し合ったことがあります」 「はあ」 「こんな訴訟は止めて、話し合いをしようと言ったのですが、その時課長が面白いこと言ったの を覚えています」 「どんなことです」 「建設局長の心象を傷つけたと」 「ほお」 「それで意地になっているとか」 「また子供っぽいはなしですねえ」 「私もそう思うんですが、ただ課長は役所の内部などそんなものだと言っていました」 「信じられませんねえ」 「私もそう思います」 以前、内容証明を出したことが心象を害した、と聞いたことを言ってはみたが、高木もあまりに も子供っぽい話なのでこの話しを菊池にしたのは始めである。 半ばあきれたように二人は笑った。 暫く三人はコーヒーを飲みながら談笑をした。 もうすぐ年末年始の休暇である、高木が菊池に冬山へ行くのかと聞くと、菊池は三十一日から 奥穂高へ行くつもりだと言った。 よくこの寒いのに山登りをするものだと感心をするが、菊池は慣れたものでそれ程気にしてい ない、冬山だとかなりの重装備になり準備も以前からしていると言った。 「高木さん正月は?」 「私は何もありません」 五十にも近くなると、何処へも行く気がしなくなる。 「貴女は」 京子にも聞いた、しかし京子は母親と二人きりの生活である、高木以上にすることも無い。 「私は何もありません」 見た目には京子は若く見える、菊池よりも幾つか年上のはずである、菊池はその京子を見て、 自分よりも若く思ったのかもしれない。 「それじゃそろそろ出ましょうか」 高木が言うと菊池は頷いた。 三人ですっかり夜になってしまった歩道を裁判所まで歩いた。 「ではよいお年を」 「先生も」 「貴女も」 菊池は京子にも声を掛け帰って行った。 七時近くなっていた、高木は京子とそのまま車の置いてある駐車場まで歩き、長かった一日を ふりかえった。 朝からの天候は回復して、暗くなった空は空気が澄み渡り、空には星が瞬いていた。 裁判所の駐車場に停めてある車の所まで二人は黙って歩いた。 「俺が運転する」 高木は京子に自分が運転すると言って車のキィーを受取るため手を差し出した、彼女はその 手にハンドバッグから出したキィーを渡した。 そのキィーでドアを開けると「バリッ」と音がして凍りついていたゴムの枠がドアと共に開いた。 彼女は助手席に乗り、誰もいなくなった駐車場を後にした。
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