小田町にまつわるお話

おなべ松

  「小田は良いとこ お鍋の方が 殿をまねいたこともある」

 今も子守唄に唄われるお鍋の方は、一代の英傑”織田信長”の愛妾であった。
小田の東北に小高い土地があって、ここがお鍋さんの屋敷跡と伝えられ、その昔はまわりに堀がめぐらされて、満々とたたえた水の上には屋形船さえ浮かび、善美を極めた邸宅からは時々弦歌のさんざめきが漏れたと言われ、英雄信長は天下統一の大事業にいたく疲労した心身をここに養って、静かな夢を幾日か結んだのであろう。
 愛妾お鍋の方として栄華な日を送る今日までにも数奇な運命があった。

 お鍋の方は、もと小倉右京亮(おぐらうきょうのすけ)の妻であった。小倉右京亮と信長とは早くから親交の間となっていたので、信長が近江に入って佐々木氏と対抗するや、佐々木承禎(ささきしょうてい)は、蒲生定秀(がもうさだひで)に命じてこれを攻めさせたので右京亮は遂に八尾城中で切腹し、甚五郎(じんごろう)、秀千代(ひでちよ)の二児は人質としてとられてしまった。
 やむなくお鍋の方は、信長に援護せられて岐阜に赴いたのであるが、やがて安土城ができあがるのに際してここに移り、信長に侍(はべ)る身となったもので、やがてお鍋の方は二男一女をあげ、返り咲く身の栄耀を羨まれたのであったが、満つれば缺(か)くる世の習い、ある日悲しい報せが小田に届いた。
それは、主の織田信長と愛児松千代(まつちよ)は本能寺の変に遭ったのである。
そうして不幸は次々に降って湧くように起こった。
 長子の甚五郎の狂死につづいて、信長との間にもうけた信高(のぶたか)、信吉(のぶよし)の兄弟は関ヶ原の一戦に石田三成(いしだみつなり)にくみして破れ、遂に領地を没収せられて浪々の身となり、いくばくもなくして信高に先立たれ信吉は高野村に蟄居(ちっきょ)する身となってしまう等、それから後のお鍋さんは惨めであった。
 寂しい後半生を京都に移り住んで、追憶の涙にかきくれながらも、信長を殺害した仇を恨み、有爲轉變(うるてんぺん)の世をはかなみながら、数奇な運命にもてあそばれ、一生を呪いつつこの世を去ってしまった。
 里人は佳人の最後をいたみ、屋敷の近くにこれを葬って塚をたて、その上には一本の松を植えてやった
この塚の松は後に「おなべ松」と呼ばれるようになった。
ところが、殿を暗殺した仇を憎むお鍋さんの妄念は消えようとしても消えず、いつしかそれが「白い蛇」となって住んでいるそうで、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱したりしびれたりするといって、今でも里人たちは白蛇のたたり、お鍋さんの妄念を恐れている。

  樋上亮一著「伝説と秘史湖国夜話」より

おなべ松は、残念ながら松食い虫のおかげで枯れてしまい、現在ではおなべの塚のみ残っています。
上の写真がその塚とされていますが、枯れた跡には縁者の手によって植えられた背丈ほどの松がいくつも塚を護るように生えていました。
(小田町のみなさん、この写真どこだかわかります?)

お鍋の方

 お鍋の方は、数多い信長の妻妾のなかで、唯一実名の判明している女性である。中世、小田には、小田城(高畠氏館)があり、高畠源兵衛が居城(佐々木家臣)し、娘2人がいた。姉は現在の三崎家に嫁し、妹のお鍋は幼少より文筆の才あり、賢い気丈高な美人であったという。嫁入りした小倉家は愛知郡小椋村を本館地とする小椋城主(佐々木家家臣)で、同族に永源寺で有名な学者小倉実證がおり、代々学識を以て佐々木家に仕えた家柄である。
 信長が近江へ進攻、浅井長政、佐々木六角との合戦時、高畠氏、小倉氏共に滅亡、お鍋の方は一時的に遺児2人を抱え小田の姉の住む三崎家に寄寓されたという。
 高畠家との血縁にあたる家には、信長が先祖に宛てた文献があり、内容は
「ご無沙汰を謝し、米百俵送って貰ったお礼、今は東征中で、近く上洛(京都)の節お出会いする
                                  四月 信長 江州、野洲郡○○○○殿」

とあり、まさしくあの有名な天下布武の刻印が押してある。この米百俵を送った理由は、お鍋の方への賄料として田地を信長が与え、その収穫米をそのご先祖が岐阜城へ送ったのではなかろうか。当時北里は信長領下であり、年貢米としては信長名では出していない。
 天正十年(1582年)六月二日 信長は本能寺で自刃、四九歳 同十五日 安土城炎上、側室お鍋の方は、ともかく囚人にならぬよう蒲生賢秀(日野城主 蒲生氏郷の父)が我が城へ迎え入れた。
 岐阜市、崇福寺は織田家の位牌所であり、お鍋の方の直筆で「違乱」を申しかけることがあってはならない旨、伝達している。その筆跡から彼女の教養の高さが十分に伺える。(参考文献 信長公記、安土日記、太閤記)
  慶長十七年六月二十五日没
  京都大徳寺中惣見院内信長の墓側に葬り、興雲院同憐宗大姉と諡す(愛知郡志)

北里学区しあわせのまちづくり審議会 「北里のあゆみ」より 

(本人のご希望により、文献の宛名は伏せさせていただきました。)

織田信長と小田神社

 小田神社には現在、国の重要文化財として指定されている大変立派な楼門があります。
安土城を築いた織田信長は、たびたびこの地に訪れてこの楼門の美しさに惹かれました。そして、この楼門を安土に移そうと考えました。
当時の楼門は、お祭りの神輿を担いで楽に通過できるほどの高さがあり、大変大きく立派なものでした。
信長の話を知った当時の氏子たちは、「これはたいへん」とばかりに、どうすれば信長の怒りに触れぬようそれを中止させられるか悩みました。
そこである夜、ひそかに暗がりの中で楼門の柱を三尺(約1メートル)ばかり切り縮めたといわれます。
翌日訪れた信長は、昨日までの雄大な楼門が一夜にして縮小されている姿を見て、「これこそまさしく、神のなすところならん」と、大いに恐れてこれをあきらめたといわれています。
このため、お祭りの太鼓や神輿も今では腰をかがめて楼門をくぐって渡御しています。

近江八幡市教育委員会発行「近江八幡ふるさとの昔ばなし」より

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