小田神社の氏子である小田町、江頭町、十王町の3町により行われるこのお祭りは、4月二の酉(トリ)の日七回りの馬場を枡形に渡御するという故事に因んで行われる行事で、宵宮祭(大松明祭)、大祭、還幸祭(節句渡り)にわかれて行われます。
宵宮祭は、火祭りの典儀で氏子各町が大松明4基を奉納し、火によって一切の罪、けがれ、不浄を焼き払い、神聖性を求めるという観念から、古代人より今日まで連綿と続いている行事です。
昔から農耕が中心であったこの地域では、火焔で稲につく害虫を焼き払い、火の粉を散らして田畑を清め、火煙によって潤いの雨を呼ぶという様々な願いがこの火祭りにこめられています。
この大松明は、「高御産巣日神」(タカムスビノカミ)を具象化したものとされています。
左の写真は各町で作った大松明。右は宵宮祭で奉火される様子。
長さ7mほどの木の丸太に菜種殻(近年この菜種殻が少ないため中心部は稲ワラを使用)を段階的に編み上げて、頭頂部に古代冠を形どった円傘をヨシで仕上げて「幣」(ヌキ)を付けて飾るもので、下部の直径は2〜3mにも及びます。戦前は、この大松明が十数基におよび、各村から祭礼団員に担がれて社頭に参詣し、祈願を込めて奉納されたと言われています。近年は、その数も4基に減り、渡御道に奉斎されています。(宮元である小田町2基、江頭町・十王町各1基、江頭神事組より稚児松明1基)
また、氏子の各戸からは、30cmから1m前後まで様々な松明をもち、社前の火を受けて奉火されます。その数は数百におよび、一年の家内平安と五穀豊穣を祈願して燃焼する様は、神と人が松明を媒介として、一体化・合体化した「神人和合」の神がなせる集団変身の相となります。
渡御順は、古来より「段々上がりのポイ下がり」の順に定められ、定刻になると3町の祭礼団員がそれぞれ大太鼓を打ち鳴らし(上り太鼓)宮入りします。七回りの渡御順路を氷解神社(お旅所)へ向かい、神事が済むと打ち上げ花火を合図に稚児松明より順次大松明に奉火され、仕掛け花火でクライマックスを迎えます。その後は、下り太鼓で神社へ戻り、その日の渡御を終えます。
氏子各戸から持ち寄る松明は、社前の火を受けて奉火されます。
3町の御輿や太鼓が御旅所を渡御します。
宵宮祭の翌日は、いよいよ本祭です。神役・神職に続き、井狩神事講の稚児の行列が華やかに協賛し、大太鼓3基、御輿3基で御旅所氷解神社を経て、若宮神社(おとど)を渡御します。昔は御輿も祭礼団員が担いで渡御したそうですが、現在では渡御出発の前に神社門前で歌を唄いながら担いでまわします。その後渡御へは大八車に乗せて引っ張ります。
大祭当日小田町では、子供たち中心のこども御輿を午前中に行っています。これは、小田町自治会と子供育成会が協力して、子供たち(男女とも)に樽御輿を担いで町内を1周するもので、子供たちにとっては見るだけのお祭りから、参加できるお祭りとなり、沿道には可愛い子供たちに声援を送る町民の姿が見られます。
また、一週間後に行われる還幸祭(節句渡り)は、稚児を除いた同形式で行われていましたが、時代の変遷と共に簡略化され、幣榊だけの渡御となりました。
一,琵琶湖に臨める北里村の あたかも中部に鎮座まします
尊きお宮はこれ小田神社
祭るは大山咋(クイ)の神にぞ 霊験あらたか尊き御神(ミカミ)
仰ぐわ我らの幸いなるぞ ヨイサ ヨイサ ゝ ゝ
二、あれ見よあしこの常磐(トキワ)の森は 我らが鎮守のお宮の社(ヤシロ)
いづれの旅路に身をおく時も
朝(アシタ)に夕べに我らが行くて 輝く光を護らせ給う
げにげに尊きこいしきお宮 ヨイサ ヨイサ ゝ ゝ
三,そもそも我らが郷土の歴史 昔もはるけきすいにん帝の
御代(ミヨ)にてありしよ日本姫君(ヤマトヒメギミ)
尊く賢き伊勢大神を 鎮めませんとて勝地をさぐり
宮いし賜いし土地ぞ我が村 ヨイサ ヨイサ ゝ ゝ
四,喜び祝へや此のお祭日 我らが郷土のお宮の祭り
我らは北里青年団子
大なる志命は我らに下る 燃え立つ思いは天にも伸(チユ)す
いよいよかざらん郷土の歴史 ヨイサ ヨイサ ゝ ゝ
資料提供 (小田神社宮司 石井博さん)ご協力ありがとうございました。