(楼門の後ろに見えているご神木には、チョット秘密が・・・答えはこの後)
鎮座地 滋賀県近江八幡市小田町大字大山54番地
第29代欽明天皇(539−571年)の治世に鎮座
第44代元正天皇(715−724年)の養老二年(718年)に社殿が創建
下の写真は、古文書に画かれた当時の「小田神社の全景」です。
主祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)
別称を山末之大主神(ヤマスエノオオヌシノカミ)と呼び、五穀豊穣の守護神
父神「大年神」(オオトシノカミ)素戔嗚尊(スサノオノミコト)の孫
母神「天知迦流美豆比売」(アメノシルカルミズヒメ)で、淡海(滋賀)山城(京都)一帯の地を守護する神
配祀神(ハイシシン) 罔象女神(ミズハノメノカミ)、若雷神(ワケイカヅチノカミ)、
八上比賣命(ヤガミヒメノミコト)、大国主命(オオクニヌシノミコト)
須佐之男命(スサノオノミコト)
攝社(セッシャ) 氷解(ヒドキ)神社、若宮神社
神 紋 左三つ巴
例 祭 4月第1、第2の土日
本 殿 三間社流造 間口三間 奥行二間
幣 殿 三間社流造 間口三間 奥行二間 寄棟
拝 殿 入母屋造 間口四間 奥行四間
その他主たる建物 楼門(重文) 手水舎 宝物庫 神輿庫 社務所
境内地 3,000坪
氏 子 小田町、江頭町、十王町
主たる神事 春季大祭(宵宮祭、大祭、還幸祭)毎年4月第2土日頃
月次祭(ツキジサイ)、祈年祭(キネンサイ)、五月休祭、草木祭(ソウモクサイ)、
還暦厄除祭、七五三、勧学祭、大祓(オオハラエ)、神嘗祭(カンナメサイ)
重 文 楼門 三間一戸楼門 入母屋造檜皮葺
大日如来座像(一躯)
この楼門にまつわるお話はこちらをクリックしてください。
社 宝 大般若経六百巻 蕨(わらび)手 十禪師権現画幅
十六善神画幅 大黒天神像 涅槃像
傳教大師像 劔 (兼吉作) 鰐口
不動明王像
由 緒
邇保惣社式内小田大明神と称し、その昔、第11代垂仁天皇(前29〜70)の時代に皇女である倭姫尊(やまとひめのみこと)が、天皇の代理としてお伊勢さん(伊勢皇大神宮)に献る稲米の耕作を司る土地をお探しになったとき、益須ヶ嶽(やすがたけ)(現在の三上山)の麓を経て、北に向かって邇保荘(にほのしょう)(現在の北里学区)に入られ、ここに留められて水辺にさざ波が立ち、湖の幸を求めて湖畔に住みついていた里人に農業開田の事を教えられた遺跡で、その神徳に酬いる為創立された社と伝えられています。
地名の小田は、倭姫尊の業績をたたえて伊勢神宮に奉献する神饌米を作られた田「神田」(じんでん)として、これを御田と呼び、後に小田となりました。(上古末期)これが地名の源です。
楼門は、入母屋造檜皮葺で、南北朝の建造ということで重要文化財の指定を受けています。
また、重文「美術工芸」として大日如来座像を飛地境内地(十王町地先)に収蔵庫を設け、十王町「大日講」の講社によって奉賛されています。
このように私たちの先祖の「小田」は稲作の中心であり、豊かな稔りの願いと祈りをささげた「社」が小田神社であり、豊作の喜びの庭でありました。この神社のご祭神は「大山咋神」(おおやまくいのかみ)であり、別称を「山末之大主神」(やますえのおおぬしのかみ)ともいいます。父神は「大年神」(おおとしのかみ)、母神は「天知迦流美豆比売」(あめのしるかるみずひめ)で、淡海(滋賀)山城(京都)一帯の地を守護された神です。この近江の国は、湖岸平野より山間部にかけて、この神のご威光は輝き渡ったものです。神社のある一帯の地名を「小田町字大山」といいますが、これは「大山咋神」の大山であり、比叡山の総称の山主であり、「咋」は「組む」又は「芽ぐみ」のくむが転じて、醸すを表した意味の表現で、全ての農作物を作り出す意味を含んでいます。
この「邇保荘」(北里学区)を流れる「日野川」は、綿向山(日野川)を源として一市三町を蛇行する佐久良川といい、この下流にある北里学区は「仁保川」と呼んでいますが、この水が田畑を潤し、豊かな稔りをもたらすと共に住民の飲み水として生命の源を司ったものです。この養水の便を得た社徳を崇祀して奉られた「社」が氷解神社で、ご祭神は「罔象女神」(みずはのめのかみ)であり、「水這う」か「水走る」かもしくは「水生ふ」という意味をもっているものと思われます。
小田町は、滋賀県近江八幡市の南西部にあり、日野川右岸の平野部に位置する町です。
集落の中央を国道477号線が横断していて、耕地が主に西方に開ける農業地域です。
人口約千人、所帯数およそ250の町内の中央には小田神社があり、道路を挟んで宮西、宮東と呼んでいます。
古来より小田町は小田神社を中心に若宮神社、氷解神社、木船神社、青根神社の4つの神社に四方を囲まれた形で護られていました。(写真はこちら)
また、町内には8つものお寺があり、その不自然さには歴史的背景がうかがえます。その原点はまさに、小作人の多かった小田農民生活の苛酷さを物語っているものだと思われます。
町内にある8つものお寺
「浄土宗」 浄光寺
〃 宝泉寺
〃 長善寺
「真宗大谷派」 大念寺
「真宗本願寺派」 光栄寺
「真宗木辺派」 西方寺
〃 常行寺
〃 宗善寺
(お寺の詳細はこちら)
また、集落東の田圃の中に織田信長の待女おなべの屋敷跡ならびに塚があり、そばにはおなべ松と呼ばれる松の木があり、それを切ろうとした者は体中しびれたり災いがあると言い伝えられてきました。
残念ながら松食い虫のおかげで枯れてしまい、現在ではおなべの塚のみ残っています。
おなべ松にまつわるお話はこちらをクリックしてください。
織田信長ゆかりの地として小田町内には、信長が在村の折り米を借用した際の借用書が残されていました。
下の写真は、あの有名な「天下布武」の刻印が押された本物の借用書です。
「ご無沙汰を謝し、米百俵送って貰ったお礼、今は東征中で、近く上洛(京都)の節お出会いする
四月 信長 江州、野洲郡 ○○○○殿」
という内容で、相手方よりも自分の名前を上位に署名するという信長の性格がここに表れているようです。
・歴史的な支配を見ると
「寛永高帳」では、 小堀氏領 586石
「元禄郷帳」では、 朽木氏領・遠藤氏領 合わせて751石余
・検地は 延宝7年、奉行長谷川伊兵衛
天保13年、奉行市野茂三郎
らによって執行され、天保の検地は苛酷を極めたとされています。
当時の苛酷な年貢の取り立てに対して、小田の農民は明枡(ミンマス)という枡を作り少しでもその厳しさから逃れようと工夫しました。
(でも案外農民の方がズル賢かったのかもしれませんが・・・)
右は現在の1升枡で、左が明枡(ミンマス)。1斗(10升)入るはずの枡が、何故か9升2合しか入らなくなっています。
1斗あたりその差8合をのがれた農民の知恵です。
資料提供 (小田神社宮司 石井博さん)ご協力ありがとうございました。
・江戸期から明治22年までは小田村(おだむら)として野洲郡のうちに入っていました。
・明治5年に滋賀県に所属し、同22年に野洲郡北里村(やすぐんきたさとむら)の大字となりました。
・昭和30年3月3日に現行の近江八幡市小田町(おうみはちまんしおだちょう)として成立しました。
(角川「日本地名大辞典」より)
この画像をご覧ください。何か変だと思いませんか?
そうです、1本の木がよく見ると途中から2つに分かれているのです。
町内一背の高いこのご神木は、遠くからでも小田神社の位置(つまり
町内の中心)を知ることのできる目印ともなっています。
まっすぐに等しくのびた2つの枝は、何とも神秘的なものを感じずには
いられません。近くへお越しの節にはぜひご覧ください。
一見の価値あり!