本稿の末尾に近い位置に記述している
 大沙川と由良谷川について、写真と説明
 を追加しました。       (2010年3月)


              消え行く天井川(その2)

                  家 棟 川
20060830tenjyomap01.gif
1.はじめに   天井川とは、「河川の運搬した砂礫が堤防の間を埋めて、河床が周囲の平  野面よりも一段と高くなったもの」(広辞苑)です。   典型的な天井川では、鉄道や道路が川の下を通り抜けています。 kusatsu018.jpg  草津川の下を走る ←JR琵琶湖線       ↓国道1号線    kusatsu028.jpg   滋賀県に天井川が多いのは、琵琶湖を囲む山々が花崗岩質であることに加  え、寺院の建立などに木材を供するため、樹木が伐採されて古くから山が荒  れていたことが原因のようです。     天井川は水害と交通の障害になるため、近年姿を消しつつあります。  その様子を、昨年(2005年5月)、「消え行く天井川」と題して報告し  ました。今回は「消え行く天井川」の第2報です。     今回取り上げるのは、前回も少し触れた家棟川(やなむねかわ)です。  なぜ家棟川かと言えば、古い貴重な資料を見つけた一方、遺産が破壊されつ  つある現場を見かけたためです。   もうひとつの理由は、私の住んでいる野洲市の家棟川以外に、湖南市にも  同名の川があり、かつてはどちらも典型的な天井川だった、ということを知  ったためです。また、湖南市には、家棟川に近接した位置にさらに二つの天  井川がある、ことも知りました。   そこで、この報告では、まずは野洲市の家棟川を、次に湖南市の家棟川を、  最後に湖南市の別の天井川を紹介させていただきます。  2.野洲市の家棟川(やなむねかわ) 2.1 家棟川の位置    家棟川は野洲市を流れています。まずは家棟川の場所を確認してみましょ  う。 20060829tenjyomap02.jpg  県立希望が丘公園を水源 とし、南から北に流れ、琵 琶湖にそそいでいます。  現在は水色の実線(新・ 家棟川)のように、平地を 掘り下げた水路です。 かつては、点線の位置を流 れていた天井川でした。  下の航空写真は、左図の 点線枠内を写したものです。 ←家棟川の位置を示す図              ↓家棟川の航空写真           ckk-75-9_c29_10.jpg            (国土交通省 国土画像情報ckk-75-9_c29_10を加工)     航空写真は、昭和50年(1975年)に撮影したものです。  今から30年前の写真ですので、現在の様子はかなり変化しています。例え  ば、写真の右下方に建設された銅鐸博物館(昭和63年−1988年開館:  青印)は姿を現していませんし、私の住んでいる左下方の住宅地(赤印)  は、野原の状態です。(ちなみに、私は昭和58年(1983年)に野洲町  (当時)へ越してきました。)   2.2 現在の家棟川   現在の家棟川の様子を、上流から下流まで概観してみましょう。 20060825yanamune(01).jpg  家棟川の源流は希望が丘公園です。 この公園は、東西4キロ以上もある広 大な自然公園です。 ←希望が丘公園   ↓希望が丘公園の外れにある池  20060825yanamune(02).jpg 20060825yanamune(03).jpg  池に隣接した下流に、かなり大きな ダムが作られています。  ダムの下流は勾配が急な水路です。 水が流れる時期は少ないようです。 ←水をたたえたダム  ↓急勾配の水路(銅鐸博物館付近) 20060825yanamune(05).jpg   国道8号線の近くに、後述する家棟隧道(旧・家棟川)があります。  その横を、掘り下げられた新・家棟川が通っています。  水路の勾配がきついのは国道8号線を越えたあたりまでで、その先は緩やか  です。 20060904yanamune01.jpg  新・家棟川は川幅が広くとってありま す。新幹線とJR琵琶湖線を越えるあた りまでは、通常、水はほとんど流れてい ません。 ←JR付近の新・家棟川  ↓朝鮮人街道と交差するあたり 20060904yanamune02.jpg   先に行くに従い、小さな川がいくつか合流します。  平家物語に登場する妓王ゆかりの祇王井川は、まず東祇王井川が合流し、次  に西祇王井川が流れ込む童子川が、新・家棟川に合流します。   なお、朝鮮人街道は東祇王井川に沿って通じています。  その朝鮮人街道と新・家棟川が交差するところに架けられた橋には、「新家  棟橋」「しんやなむねはし」の表示があります。 20040602s021.jpg  童子川が合流するあたりからは水量が 増し、琵琶湖に向かいます。 ←新・家棟川に合流する童子川  ↓水量を増した家棟川下流 20040605s006.jpg 2.3 かつての家棟川   かつて家棟川は典型的な天井川でした。  上の地図で、旧中山道と旧家棟川が交差する地点(A)と、国鉄東海道線  (現・JR琵琶湖線)と旧家棟川が交差する地点(B)には、それぞれトン  ネルが掘られ、中山道と国鉄は川の下をくぐり抜けていた、ということは前  報でも触れました。   今回(2006年7月)、いわゆる朝鮮人街道と旧家棟川が交差する地点  (C)にもトンネルがあった、ということを知りました。   地点(C)の少し東に「コミセンぎおう」(コミュニティセンターぎおう  =いわゆる公民館:赤印)があります。  たまたま所要で「コミセンぎおう」を訪ねたときのことです。入口の横に建  てられていた「義王隧道」と彫られた石碑が眼に入りました。  石碑の下の方には、「明治二十六年三月竣功」と刻まれていました。  (このあたりは明治22年に義王村となり、明治27年に祇王村と改称され   ています) 20060904yanamune03.jpg  ←コミセンぎおう(赤矢印が石碑)   ↓義王隧道の題額  20060904yanamune04.jpg   近くにいたお年寄りに尋ねたところ、「これは「義王隧道」に取り付けて  あったものだ」ということでした。「義王隧道というのはどこにあったので  すか」と尋ねたところ、「そこの道(=朝鮮人街道)と旧家棟川の交差した  所(=地点(C))だ」ということでした。   この題額(石碑)は、次にご紹介する写真の撮影者である藤村和夫さんの  働きかけにより、今年からこの場所に設置されたものだそうです。  藤村さんは、義王隧道の題額が人目につかない場所におかれていたのを残念  に思い、自治会長を務めていた数年前に移設を提案し、ようやく今年実現し  たそうです。     コミセンぎおうのロビーには、義王隧道の写真が掲示されていました。  後日、コミセンぎおうの近くに住んでおられる撮影者の藤村和夫さんを訪ね、  写真の利用許可をいただきました。   ↓朝鮮人街道の義王隧道   (撮影:藤村和夫氏 提供:琵琶湖博物館)   これは、義王隧道の取り壊し 776-091A.jpgが始まった昭和22年頃の写真 だそうです。  後述する旧中山道の家棟隧道 をはじめ、隧道はいずれも石積 みですが、この「義王隧道」の みは煉瓦積みだった、というこ とを藤村さんから伺いました。  半円状の部分は煉瓦が積まれ ているようです。   旧・朝鮮人街道に立って、義王隧道のあった方向を見ました。  義王隧道は、十字路の向こう側にあったはずです。旧家棟川の跡地は平地と  なり、住宅が並んでいます。                  ↓義王隧道のあった場所(現在)                 20060929yanamune (9).jpg 20060929yanamune (10).jpg  義王隧道のあった場所の近くに、神社 がありました。 「屋棟神社」と鳥居に表示されていまし た。「屋棟」も「やなむね」と読むよう です。 ←屋棟神社   ところで、旧・朝鮮人街道は、平家物語に登場する妓王ゆかりの祇王井川  に沿っています。以前、祇王井川の流れに沿って歩いたことがありました。  途中で、流れが道路の下のトンネルを通っていた所がありました。そのとき  は知らなかったのですが、家棟川の下を通っていたのでした。    ↓国鉄の家棟川トンネル   (撮影:藤村和夫氏 提供:琵琶湖博物館) 777-076A.jpg 藤村氏は、国鉄(当時)東海 道線の家棟川トンネルの写真も 残していました。 上の地図で、地点(B)です。  これも昭和22年頃の写真だ ろうと思われます。  トンネルの上には沢山の人が います。当時、トンネルの上は 汽車を見物する人で賑わったそ うです。   天井川の撤去された跡の平地、下の写真の右手、には住宅が並んでいます。                 ↓トンネルのあった場所(現在)                20060929yanamune (8).jpg   家棟川は昭和16年(1941年)6月に、水害で堤防が決壊しました。  決壊したのは、川が大きく屈曲していた(上記地図の地点(A)の先)あた  りだったそうです。  この水害を契機として、天井川の付け替えが昭和22年(1947年)に実  現したそうです。   昭和22年(1947年)に付け替えられた旧家棟川は、数年後に撤去さ  れました  ↓撤去中の旧家棟川   (撮影:藤村和夫氏 提供:琵琶湖博物館) 775-088A.jpg  この写真は、昭和30年 (1955年)頃の撤去中の風 景です。 国鉄東海道線に近いあたりかと 思われます。  左手の盛り上がった土の上部 の平坦部分が川底だそうです。   義王隧道などを撮影した藤村和夫さんは、戦後の昭和21年(1946年)  頃から地元の風景を撮り続けてこられた方です。大変貴重な写真を沢山残し  ておられ、滋賀県の歴史を語るいくつかの写真集を飾っています。   現在、写真原版の管理を琵琶湖博物館に委託しておられます。 2.4 姿を消す家棟隧道    (この項について、写真と説明文を初回掲載後に3回追記しました。     最新の追記は09年7月です。)   ところで、家棟川に築造されたトンネルは、義王隧道と国鉄用の隧道の他  に、前報で述べたように、旧中山道の家棟隧道があります。この家棟隧道は  現存しています。   ところが、今年7月中旬に通りかかったところ、この家棟隧道を取り壊す  工事が進んでいました。そこで、家棟隧道の変わり行く姿を追ってみました。  yanamune001.jpg  西側から見た家棟隧道 ←2005年4月23日       ↓2006年7月14日     20060714yanamune01.jpg           ↓2006年8月25日         20060825yanamune(09).jpg               ↓2006年9月29日             20060929yanamune (6).jpg           トンネルは完全に姿を消しました。(07年5月追記)                                              ↓2006年12月3日                 20061203yanamune(1).jpg                      ↓2007年4月17日                    20070417yanamune(5).jpg  ↓−−−−−−−− 09年7月追記 −−−−−−−−−−−−−−−             ↓2009年6月15日           20090615yanamune (1).jpg   道路がきれいに整備され、見通しがよくなりました。  しかし、すぐ近くに国道8号線があるため、この道路はあまり通行量があり  ません。   隧道があった辺りにポケットパークが作られていました。  そこに家棟隧道の説明板が設けられていました。それによれば「家棟隧道は  1917年(大正6年)に、大正天皇が陸軍大演習を視察するため、行幸さ  れるのに合わせて突貫工事で作られた」そうです。工事の様子を示す写真も  掲示されていました。   ↓2009年6月15日     ↓2009年6月15日 20090615yanamune (2).jpg20090615yanamune (3).jpg   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−↑ 20050423yanamune01.jpg  東側から見た家棟隧道 (大正六年十月竣功と刻まれている) ←2005年4月23日         ↓2006年7月14日    20060714yanamune02.jpg           ↓2006年8月25日         20060825yanamune(07).jpg               ↓2006年9月29日             20060929yanamune (3).jpg           トンネルは完全に姿を消しました。(07年5月追記)                   ↓2006年12月3日                 20061203yanamune(2).jpg                      ↓2007年4月17日                    20070417yanamune(1).jpg      ↓−−−−−−−− 09年7月追記 −−−−−−−−−−−             ↓2009年6月15日           20090615yanamune (4).jpg         新しく架け替えられた橋には「やのむねかわしんはし」と        いう表示板が取り付けられていました。         下流に架けられた橋には「しんやなむねはし」と表示され        ている旨を、上記「2.2 現在の家棟川」で述べました。         「やなむね」なのか「やのむね」なのか、どちらでもよい        のか、統一すべきなのか、現在のところ分かりません。       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−↑  yanamune006.jpg  もはや、家棟隧道の上に残っていた天 井川の河床は無くなっています。 ←天井川の河床(2005年4月23日)  ↓河床が撤去された跡    (2006年9月29日) 20060929yanamune (5).jpg           堤防が完全に撤去され、国道8号線と同じ平面になりま           した。(山の手前が8号線)   (07年5月追記)                      ↓2007年4月17日                    20070417yanamune(6).jpg    20060825yanamune(08).jpg  トンネルだけが、わずかな衣で身を隠 しているような有様です。  2006年8月25日の現場風景 ←東側から見た工事現場   ↓南側の国道から見た工事現場  20060825yanamune(04).jpg 20060929yanamune (2).jpg  2006年9月29日の現場風景 ←東側から見た工事現場   ↓南側の国道から見た工事現場  20060929yanamune (7).jpg          工事用の重機や車両は姿を消しました。(07年5月追記)                      ↓2006年12月3日                    20061203yanamune(3).jpg                      ↓2007年4月17日                    20070417yanamune(4).jpg      ↓−−−−−−−− 09年7月追記 −−−−−−−−             ↓2009年6月15日           20090615yanamune (5).jpg       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−↑   去年(2005年)5月1日付けの「やす市議会だより」によれば、家棟  隧道は「. . 現地保存方式とすることになった. . 」と報じられていたこと  はどうなったのだろう。   早速、市長へのメールで問い合わせてみたところ、「. . 琵琶湖西岸断層  の地震発生確率が公表されていたことで、. . 隧道全部を取り壊し、将来の  復元に備え、石材等は一時市有地などに保存する. . 」ことになった旨の回  答を受け取りました。   私は、この回答は到底納得できませんが、この場で一方的に意見を述べる  ことは差し控えておきます。   なお、大正6年10月竣功の家棟隧道は、ピラスター(pilaster:装飾用  に壁の一部を張り出して作った壁柱、柱形)を有する特色があり、近代土木  遺産として貴重なものだそうです。   先に挙げた義王隧道の写真にもピラスターが見られます。  ↓−−−−−−−−−−−− 09年7月追記 −−−−−−−−−−−−   その後どうなったのか、気になりながら2年余り経ちました。    先日、野洲市議会でこの問題を某議員が取り上げる、ということを耳にしま  した。そこで市議会を傍聴しました。   その結果を記す前に、市議会での過去の質疑の要点(=今回の質問の前提  =私が市長から受け取った(上述の)回答と同じ内容)を抜粋してみます。  (市議会の議事録は、市のホームページに5年分が掲載されています)   [平成17年第5回野洲市議会定例会会議録]    招集年月日 平成17年9月13日   都市建設部長 「..しかしながら、平成16年6月に県より琵琶湖西岸   断層帯の地震発生確率が公表されたことから、...解体撤去して、石材   等は一時市有地で保管し、可能な限り復元保存をしていきたい..。」   今年(2009年)6月11日の市議会では、およそ次のような主旨の  大変面白い(!!)やりとりがありました...(涙、涙、、、)。   質問者:家棟隧道の移築はどうなっているのか   回答者:財政緊迫のため、移築は困難である   質問者:財政的に困難と言うが、移築費はどの程度かかるのか   回答者:算出していない   質問者:職務怠慢ではないか   回答者:そういわれても仕方なく、申し訳ない  (6月30日現在、議事録はまだ公開されていません)     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−↑ 3.湖南市の天井川 3.1 天井川の位置   かつて、近江には東海道の宿場が5つありました。  京から江戸に上るとき、大津、草津、石部、水口、土山の宿場を経て鈴鹿峠  を越えます。草津には、草津川という天井川があることは前回述べました。   今回は、石部と水口の間にある天井川を紹介します。 20060830tenjyomap03.jpg  草津と柘植(三重県)をJR 草津線が結んでいます。  そのJR草津線の甲西駅から 2キロほどの位置に、家棟川、 由良谷川、大沙川の天井川があ ります。  いずれも、全長数キロ以内の 短い川です。   なお、平成16年(2004年)10月1日に、石部町と甲西町が合併し  て湖南市が誕生しました。   今回ご紹介する3つの天井川は、旧甲西町にあります。 3.2 もうひとつの家棟川(やのむねかわ)   草津から石部を通り、水口に至る旧東海道は、低く連なる山の麓を通って  います。   20060825tenjyo (01).jpg  集中豪雨の度に、山から一気に水が流 れ出て、東海道を横切る天井川を作り上 げてきたのでしょう。    ←JR甲西駅から見た家棟川方面    家棟川が東海道と交わる所には、明治19年(1886年)3月に築造さ  れた「家棟川隧道」がありましたが、昭和54年(1979年)に撤去され  たそうです。現在は平地化され、家棟川橋が架けられています。 20060825tenjyo (05).jpg  この橋には、「やなむね」でなく、 「やのむねかわはし」と表示されていま した。 ←旧東海道の家棟川橋   ↓家棟川の石碑  20060825tenjyo (02).jpg   家棟川橋の上から上流を見ると、200メートル位先に、段差が見えまし  た。その段差は、天井川を平地化するために掘り下げたものです。段差は  5−6メートルありました。ほぼ2階建ての屋根の高さです。 20060825tenjyo (04).jpg ←家棟川橋から上流を望む   ↓平地化したときの段差  20060825tenjyo (03).jpg 3.3 由良谷川(ゆらやかわ) 20060825tenjyo (14).jpg  由良谷川は、家棟川から700メート ル位の近い位置にあります。 ←JR甲西駅から見た由良谷川方面   この由良谷川には、「由良谷川隧道」が明治19年(1886年)に築造  され、現存しています。 20060825tenjyo (06).jpg ←東から見た由良谷川隧道   ↓西から見た由良谷川隧道  20060825tenjyo (09).jpg   トンネルの上に上がってみました。  川には全く水がなく、河床には夏草が茂っていました。    20060825tenjyo (07).jpg  野菜畑みたいに草が拡がっています。  川の高さは、2階建ての屋根位です。 ←由良谷川隧道の上の河床   ↓川の上から見下ろした旧東海道  20060825tenjyo (08).jpg  ↓−−−−−−−−−−−− 10年3月追記 −−−−−−−−−−−− 20100212yuraya-river.jpg   この川に水が流れることがあ  るのだろうか、と気になり、雨  が2日続いた次の日にのぞいて  みました。   雨が多いときは流れるようで  す。 ←水が流れた形跡のある河床  (10年2月撮影)   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−↑ 3.4 大沙川(おおさかわ) 20060825tenjyo (13).jpg  大沙川は大砂川とも呼ばれるようです。 ←大沙川方面   「大沙川(大砂川)隧道」は、明治17年(1884年)に、県下最初の  道路トンネルとして築造されたそうです。  デザインは、由良谷川隧道に似ていますが、少し違っています。 20060825tenjyo (12).jpg  由良谷川隧道にも大沙川隧道にも、家 棟墜道や義王墜道のようなピラスターは ありません。 ←東から見た大沙川隧道   ↓西から見た大沙川隧道  20060825tenjyo (10).jpg 20060825tenjyo (11).jpg  トンネルの西側に、トンネルの上に上がる通路 が設けられていました。 大砂川の堤の上には、「弘法杉」と呼ばれ、樹齢 700年以上といわれる大杉があります。  川幅は2メートル位と狭く、3面がコンクリー ト打ちされた溝のような感じでした。 ←大沙川隧道の上から見た弘法杉  ↓−−−−−−−−−−−− 10年3月追記 −−−−−−−−−−−− 20100212ohsa-river (1).jpg   大沙川に水は流れるのか、と疑問を投  げかけてきた読者の方がおられます。  そこで、雨が2日続いた次の日に覗いて  みたところ、確かに水は流れていました。   ←上流を見る  ↓下流を見る(大木は弘法杉) 20100212ohsa-river (2).jpg  この大沙川の上流に三雲城址がある旨の表示板を見かけました。 かつてのお城は水源に富んでいた土地を選んだのかもしれません。  旧東海道から150メートル位離れて、JR草津線が走っています。 大沙川の川下では、JR草津線も天井川の下を走っていました。 20100212ohsa-river (4).jpg ←JR草津線  (右手竹薮の向こうに大沙川隧道)  ↓JR草津線の隧道 20100212ohsa-river (5).jpg   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−↑   4.おわりに:   家棟川が近江に二つある、ということを知ったのは驚きでした。  さらに、現地を確認していませんが、湖西の旧・志賀町にも家棟川という川  があるそうです。  ただし、名前の漢字は全て同じ(家棟)ですが、読み方は、やなむね・やの  むね・やむね、と異なっています。   それでは、何故家棟川という名前がつけられているのでしょうか?  (答:家の屋根まで川が盛り上がっているから..? ⇒ 単なる推測です)   東海道や中山道を旅した昔の人は、さぞかし天井川で苦労したに違いあり  ません。明治から大正にかけて、各地でトンネルを築造した事業は賞賛に値  します。   戦後に至り、水害対策と交通の便を図るために、天井川そのものが解消さ  れてきたことも、喜ぶべきことでしょう。  しかし、明治や大正の先人が残した土木遺産には、これを大切に保存して後  世に伝える責任も含まれている、のではないでしょうか。   本稿に関連する次の記事もご参照ください。   1.消えゆく天井川    ⇒本稿の前編にあたります    2.祇王井川       ⇒祇王井川の位置などを述べています   3.雨森芳洲と朝鮮通信使 ⇒朝鮮人街道の位置などを述べています      本稿に掲載した写真の 無断使用 は固くお断りします
                       (散策:2006年7月〜9月)                   (脱稿:2006年9月30日) ------------------------------------------------------------------
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