近江大津宮錦織遺跡 近江神宮 時計博物館
        弘文天皇稜 天智天皇陵 新羅善神堂 など


                   大 津 京
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1.はじめに   琵琶湖の西岸をJR湖西線が走っています。  その湖西線に、昨年(2008年)3月15日、「大津京」(おおつきょう)  駅が誕生しました。かつて、この地に「大津宮(おおつのみや)」が設けら  れたことを記念し、旧「西大津」から「大津京」に名称変更されたものです。   20080220otsukyo (0).jpg20080806otsukyo (1).jpg  ↑旧・西大津駅(2008年2月)  ↑新・大津京駅(2008年4月)     大津宮が造営された時代は、概略次のようにめまぐるしい動きがありました。   660年−百済が新羅と唐に攻められて亡ぶ、中大兄皇子は援軍を派遣    663年−白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗   667年−中大兄皇子が都を近江大津へ移す   668年−中大兄皇子が即位して天智天皇となる   671年−天智天皇が没し、天皇の子の大友皇子(弘文天皇)が皇位継承   672年−壬申の乱、大海人皇子が皇位を継承して天武天皇となり、都を        飛鳥に戻す(飛鳥浄御原宮(あすかのきよみがはらのみや))   中国、朝鮮半島3国との国運を賭けた外交が展開された時代でした。  「大津宮」は、中大兄皇子(天智天皇)が667年に造営し、5年余りで廃  された短命の都でした。 2.近江の都   大津京の跡を訪ねる前に、都の位置を確認してみましょう。   桓武天皇が794年(延暦13年)に遷都した平安京は1200年以上も  続きましたが、それ以前は頻繁に遷都が行われていました。  神武天皇から桓武天皇に至るまでの1400年余りの間に、およそ60回も  都が移動したそうです。 20090123shigamap01.jpg   近江には都が4回設けられたそうです。  古い順に、高穴穂宮(たかあなほのみや)、大津宮  (おおつのみや)、紫香楽宮(しがらきのみや)、  保良宮(ほらのみや)です。   高穴穂宮は、実在したかどうかも含めて、所在地が  確認されていません。保良宮の所在地は推定されてい  ます。   大津宮は、JR大津京駅の北西、近江神宮の南にありました。  東西400メートル、南北700メートル位と推定されているようです。 20090125otsukyomap.jpg  東は琵琶湖、西には近江と京 都を隔てる山が連なっている南 北の狭い土地です。  地質調査の結果、大津京が設 けられた時代は湖岸線が500 メートル位西に寄っていたこと が判明しているそうです。とい うことは、現在の大津京駅や運 動公園などは湖の中にあり、都 は湖岸に接していたようです。  三井寺から大津市役所前を通 って近江神宮に抜ける南北の道 路がありますが、この道路が都 の南北の中軸線にあたっている ようです。 3.大津京跡   大津京を偲ぶ史跡として「近江大津宮錦織遺跡」(おうみおおつのみやに  しこうりいせき)があります。   大津市役所前を南北に伸びる道路を北に向かうと、近江神宮の少し手前に  錦織(にしこうり)という地区があります。「錦織二丁目」の信号を越えた  (北に向かって)右側に「史跡近江大津宮錦織遺跡」の標識が立っています。 20080806otsukyo (3).jpg ←史跡(第1地点)   第1地点横から南を見た  ↓錦織二丁目の交差点 20090114otsukyo 014s-.jpg 20080921otsukyo 007s-.jpg  第1地点の北80メートル位の ところにも史跡の表示があります。  第1地点、第2地点とも説明板 がある程度で、遊具のない小公園 のような感じです。 ←史跡(第2地点)     大津京(大津宮)の遺跡が最初に発掘されたのは昭和49年(1974年)  でした。発見者は滋賀県文化財保護課の林博通さん(現・滋賀県立大学教授)  です。それ以降、この近辺で多数の発掘調査が行われ、宮の所在が明らかに  なりました。   しかし、このあたりは民家が密集しているため、発掘調査には限度があり、  全容が明らかになっているわけではありません。 20090114otsukyo 004s-.jpg  皇子が丘公園の高台から見下ろした  風景 (2009年1月撮影) ←大津京跡付近(写真中央が錦織地区)  ↓大津京駅(高層マンションの手前) 20090114otsukyo 005s-.jpg   大津京(大津宮)の存在は日本書紀などの文献に記されています。  その所在地の手がかりとして、都の北西に崇福寺(すうふくじ)が建てられ  た旨の記述が見られます(扶桑略記)。崇福寺跡は昭和3年(1928年)  の発掘で確認されています。近江神宮の北西2キロほどの位置にあります。   大津京跡を訪ねるために遠方から足を運んでいただいても、私のような観  光目当ての人には少し期待外れになるかも知れません。そこで、大津京に関  連した観光スポットを以下に少しご紹介します。 4.近江神宮   近江神宮は天智天皇を祀っている神社です。  この神社は、さぞかし古い由緒ある神社だと思いこんでいました。  今年(2009年)初詣をしたとき、私にとって意外だったことに、創建は  昭和15年(1940年)で、今年が創建70年目になるということを知り  ました。昭和15年は、皇紀2600年(神武天皇即位から2600年)を  祝って一連の行事が行われた年です。   昭和天皇は戦後日本の復興を近江神宮で祈念されたそうです。 20080806otsukyo (12).jpg ←道路に面した東向きの鳥居  ↓参道奥の鳥居 20080806otsukyo (11).jpg 20080921otsukyo.jpg   長い参道を抜けると鮮やかな朱塗り  の楼門が石段の上に建っています。 ←朱の楼門 20080806otsukyo (10).jpg  楼門の正面に拝殿があります。 拝殿は外拝殿と内拝殿があり、楼 門の所から見えるのは外拝殿です。  内拝殿までは一般の人も拝観の 許可がいただけますが、その奥に ある本殿の拝観はできません。 ←外拝殿から見た内拝殿            ↓内拝殿の内部(この奥に本殿)           20041019otsukyo 011s-.jpg   毎年正月に「全国かるた大会」が近江神宮で行われていることはよく知ら  れているでしょう。小倉百人一首の一番目に天智天皇の歌が挙げられている  ことに因んで、近江神宮(勧学館)で行われるようになったそうです。    秋の田の刈り穂の庵(いほ)の苫(とま)を荒み        わがころも手は露に濡れつつ     天智天皇 20080806otsukyo (6).jpg   楼門の左手に時計博物館があり  ます。  天智天皇が在位10年(671年)  に日本で初めて水時計(漏刻)を  大津宮に設置したことに因んだも  のです。  各種の時計が展示されています。 ←時計博物館   大正9年(1920年)に定められた時の記念日の6月10日は、天智天  皇が設置した日本初の時計で鐘を打った4月25日(日本書紀)を太陽暦に  換算したものだそうです。 20080806otsukyo (9).jpg  時計博物館前の庭には、天智天皇の水  時計が再現されています。   なお、時計博物館は「宝物殿」に改  修される予定だそうです。 ←復元された漏刻  ↓ 20080806otsukyo (7).jpg   朱塗りの楼門が建つ階段下の近くで、歌碑に気付きました。          ささなみの国の御神の心(うら)さびて           荒れたる京(みやこ)見れば悲しき  高市黒人   20090108tenchi 001s-.jpg  専ら旅先で歌を詠んだ高市黒人の一首  (万葉集巻一)です。  詠んだ時期は、西暦700年頃(壬申  の乱から20数年後)だったのでしょ  うか。  高市が大津を訪ねたとき、大津宮はす  っかり荒れ果てていたのでしょう。 5.弘文天皇稜   弘文天皇は天智天皇の子で、大友皇子と呼ばれていました。  天智天皇が崩御してから壬申の乱で倒れるまでの、在位は僅か半年余りとい  う短期間でした。短期間ながらも、大津京で執務した二人目、かつ最後の天  皇です。(正式に天皇として即位したのかどうかは疑問があるようです) 20080917otsukyo (13).jpg   陵は大津市役所のすぐ後ろにあり  ます。  道路に面している市役所の後ろなの  で、細い道を回りこまなければなり  ません。 ←案内の標識  (右後方の建物は市役所) ↓弘文天皇稜              20080917otsukyo (14).jpg   弘文天皇陵の道ひとつ隔てた隣に古い神社がありました。  今回のテーマには関係ないのですが、ご参考までに記しておきます。   園城寺(三井寺)が管理している「新羅善神堂」(しらぎぜんしんどう)  で、美しい建物は国宝に指定されています。   源頼義の子義光がここで元服し、新羅三郎義光となったそうです。 20080917otsukyo (15).jpg   訪れる人は少ないようで、鬱蒼と茂った木立  の中に静かに佇んでいました。 ←弘文天皇陵横にある鳥居   ↓桧皮葺きの堂  20080917otsukyo (16).jpg 6.天智天皇山科陵   JR東海道線の山科駅(大津京駅の隣)で京都市営地下鉄東西線に乗り換  え、京都市内へ向かうと一つ目の駅が「御陵(みささぎ)」です。この駅の  近くにこんもりと茂った森が見えます。天智天皇陵です 20041019tenchi (4).jpg ←参道入り口  ↓長い参道 20041019tenchi (0).jpg 20041019tenchi (1).jpg  長い参道の先に、ゆったりした雰囲 気の門がありました。 ←入口       ↓陵墓前の広場      20041019tenchi (3).jpg             ↓陵墓正面            20041019tenchi (2).jpg   7.おわりに   天智天皇はなぜ大津に都を移したのでしょうか。  外国からの侵入に備えるためという消極説、外国へ打って出易いためとい  う積極説などがあります。また相聞歌で知られている蒲生野での狩りは、  次の都の候補地を探す狙いもあった、などと論じられています。   ともあれ、天智天皇は内憂外患の激動の時代を果敢に生き抜いた指導者  だったようです。   駅名改称にあたり、「大津京」名の適否について議論がありました。  大津京に異を唱える人は、大津京の語が古代の文献に登場していないこと、  「京」とは条坊制を伴っている(平たく言えば区画整理された街が作られ  ている)ことを指すが、条坊が確認されていない、などの理由を挙げたよ  うです。   駅名改称の似たような例として、JR「長岡京駅」があります。  平安京の前の長岡京に因み、1995年、東海道線「神足」(こうたり)  駅が「長岡京」(ながおかきょう)駅と改称されました。   ついでながら、「大津京」と同時に(2008年3月15日)、「雄琴」  (おごと)駅が「おごと温泉」駅と変更されました。  JR湖西線は(京都市の)「山科」を基点として、(滋賀県の)「大津京」  →「唐崎」→「比叡山坂本」→「おごと温泉」と順に北へ向かっています。                   (散策:2008年8月6日他)                   (脱稿:2009年1月26日)  ご参考:・蒲生野での相聞歌⇒妹背の里      ・三井寺に係わる話⇒三井の晩鐘 ------------------------------------------------------------------
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