石田三成の屋敷と伝わり、今も屋敷堀とよぶ池が残る。永禄三年(1560)三成はここで生まれました。
当時の石田家の屋敷はこの付近一帯にわたり約一丁四反歩位あったものと思われます。現在地は屋敷の南端にあたり、ここから北のバス停まで屋敷が有ったようです。
この地域の小字名は『治部』と称し俗称『ごいで』とも言われています。隣接地に『的場』『御畑』『番場』『捕吏端』などの小字名から当時の豪族らしい構えが伺われます。西の池は『堀端』または『治部池』と呼ばれ石田屋敷の遺構と言われています。
石田氏の出については明らかではないが、京極高清に属していたといい、天文五年(1536)の伊夫岐神社奉賀帳にその名がある。
石田氏の本拠は梓河内ともいい、当地とも言う。
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