弥高百坊は城跡と言うよりも山修上人によって建てられた弥高護国寺で、山中の整然と区画された坊跡郡を思い描く人が多いようである。 しかし、中世には京極氏の城郭で、『坂田郡志』には「京極政高が弥高山より兵を出して、六角氏が美濃に侵入する軍を破りし事、船田後期にみゆれば、弥高上平寺の地は、夙に京極氏の城砦地なりしを知る。」という記述をみることが出来る。また、中世の城の代表としてよく語られる観音寺城ですが、石垣こそ有りませんが、その構築は観音寺城を勝るとも劣らない様に思われます。 弥高百坊より谷を挟んで東の尾根にある上平寺城は、完全に弥高百坊から見下ろす事ができ、規模も弥高百坊よりも小さい事から、上平寺城は従の城であったと推測する事が出来ます。 弥高地区には、弥高百坊、上平寺城、上平寺館、南館等があり、総じて「弥高上平寺城郭群」と呼ぶのが妥当であろう。 上平寺城から山道が弥高百坊まで続いている。途中の谷筋には水源が豊富で、両城の水の手でもあった。 主郭は特に下草もなく、700mと言う高山中に開けた広大な主郭域には、圧倒される。
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